083:2004年12月 第4週 大口玲子
または、助走なしの全力疾走短歌は傷ついて

夕映えに逆らふごとく耐へゐるか
  君の眼に棲む水鶏(くひな)を放て

         大口玲子『海量』
 歌人の輩出数において早稲田大学は群を抜いている。篠弘、藤原龍一郎福島泰樹、三枝昂之、小島ゆかり、俵万智など数え切れないほどである。大口もまた早稲田大学文学部に入学し、佐佐木幸綱の「心の花」に入会した歌人である。1998年に「ナショナリズムの夕立」で角川短歌賞を受賞、第一歌集『海量』で現代歌人協会賞を受賞するという華々しいデビューを果たしている。大口は1969年生まれだから、角川短歌賞受賞はまだ19歳の大学在学中である。続く第二歌集『東北』では、第一回前川佐美雄賞を受賞している。ちなみに『海量』は「ハイリャン」と読み、中国語で大酒飲みのことを言う。早稲田大学卒業後、日本語教師になり、中国に赴任した経験から出た題名である。これまたちなみに作者の名前は「おおくち りょうこ」と読むのが正しい。

 『海量』の解説で佐佐木幸綱が書いていることだが、大口は高校時代剣道少女であり、早稲田では「思惟の森の会」という農業経験を通じて農家の人たちと交流するサークルの熱心なメンバーであったという。もともとアウトドア派なのである。『海量』にはこのような自然と人間との触れ合いから生まれた歌が多く見られ、それが大口の短歌の特色ともなっていることは、誰しも認めるところであろう。

 精神の青葉若葉を揺らしつつ山頂までの下見を終へつ

 チェーンソーでいつしんに樹木切りながら我は快楽の底にしゐたり

 下草を刈りすすむ人の広き背をときどき隠す木々の骨格

 中国で日本語教師として働いていたときや、外国から来た留学生に日本語を教えるときの心の屈折を詠んだ歌もまた、大口の個性を示す歌として引用されることが多い。

 起立して中国国歌を聞きおれば剥かれゆく蜜柑のごとき我かも

 答へられぬ学生に深く立ち入れば星選ぶやうに助詞選びをり

 日本語で君の心を区切りたればその曖昧さを君は指弾す

 二ヶ月だけ若い恋人との相聞も、若く傷つきやすい青春の恋愛歌としての清新さに満ちている。恋人はどうやら新聞記者らしい。

 たつた二か月若かりき君は若きまま今も我が名を呼び捨てにして

 かぎりなく遠くなりゆくものとして喉仏ふるふさまを見てをり

 くちびるを押し開かるるごと苦し雨夜ひとりの名前を呼べば

 しかし大口の個性の強さはむしろ飲食と飲酒の歌にある。私は次のような歌をとてもおもしろく読んだ。

 南湖の量、否、海の量の酒を飲み語らむと逢ふ夕暮れはよし

 空腹を抱へ山より戻り来しゆふべゆふべのどんぶり飯よ

 言葉より深く信ずるスヂ肉をながくながく煮て犬とわけ合ふ

 作者の名を隠して提示したら、誰も女性歌人の歌とは思わないだろう。大口の個性はこのように、手弱女振りとか纏綿たる情緒といった、伝統的に女歌の特色とされて来た枠組みを自在に跳び越えて、自己と現実の向き合う様を大胆かつ細心に詠うところにあると思われる。

 ところが私は第一歌集『海量』をおもしろく読みながらも、心のどこかで解決のつかないような居心地の悪さというか、不安定感を感じていた。ネット検索で前川佐美雄賞の選考評を見つけ、審査員のひとり三枝昂之の「助走なしの全力疾走」という大口評を読んだとき、なるほどと腑に落ちるところがあった。大口の短歌は、方法論なしの全力疾走体当たりなのである。ここで方法論というのは、作歌にあたっての技術的方法論という意味もあるが、むしろ〈私〉と短歌と現実のあいだの距離の取り方という、生き方にかかわる部分が大きい。

 やめてゆく学生の前で鳥のごとく我は日本語を啄み泣けり

 炎昼に母語は汗して立つものを樹皮剥ぐごとき剥奪思ふ

 「助走なしの全力疾走」に由来する振幅の大きさがこのような歌を生み出すのだが、トレーナーの指導なしで練習しすぎる高校野球の投手が肩を壊しがちなように、方法論のない全力疾走は体のどこかに無理が来る危険性を孕んでいる。

 その予感は第二歌集『東北』で不幸にも的中する。大口は結婚して東北に移り住むのだが、抑うつ状態を発症して入院を繰り返すようになる。歌集前半には新天地に住む新しい経験を詠んだ歌が並んでいるが、次第に歌に孤独の影が深くなるのである。

 こともなげに桜花を散らす風に吹かれ孤独の砂ぶくろわれにあり

 約束を一つも持たず人と居てわれはもうじき三十歳になる

 分析し尽くされわが精神は秋青空に透きて見えざる

この歌集の圧巻は何と言っても、抑うつ状態で入院中に詠んだとおぼしき次のような歌を収めた連作である。

 夜ごと泣く妻とはなりて 東京が怖い。短歌が、点滴が怖い

 はさみ、シェーパー取り上げられてもまだ我は刃物秘め持つ気がしてならず

 ミカちやんが突然壊れガラス割るかくもあつけなく人は壊るる

 遠山光栄「脳病院にて」どのやうに歌書き留めてゐしかと思ふ

 やすやすと我は壊れずマットレスと便器だけの保護室を見学す

 短歌技法という観点から見れば、直截でストレートに過ぎる歌がある。第一首など短歌になっていない叫びのようなものである。これらの歌において、大口の〈私〉はひりひりと剥き出しの肌でまさに現実と肉薄していると言えるだろう。しかし、こういう歌は読む方もつらい。

 『東北』後半にはあまり広がりのない歌が多い。好きな歌につける付箋は『海量』後半にはたくさん付いたが、『東北』後半に至って少なくなるのは読んでいて淋しい。『海量』巻末の連作「ほたる放生」や、『東北』の「ヒロシマ私の恋人」に見られるような、主題意識と方法論の明確な歌においても大口は才を見せているが、「助走なしの全力疾走」だけでなく、このような方向をもう少し意識的に押し進めていればと考えてしまうのである。

 つらぬきて沢流るると思ふまで重ねたる胸に螢をつぶす

 夏至の日の思ひ撓めりほたるほたる螢の水をゆふべ飲みにき

 惜しみつつ振り落としたるほたる地に息づくやうに明滅しをり

 区別できぬふたついのちと思ふまで抱かるるたび灰にまみれて

 水は死者を映せるかいま簡潔に肉の輪郭不確かに浮く

 真夏汗して人を抱き敷き立秋の向かうに燃ゆる都市の名を呼ぶ

082:2004年12月 第3週 吉岡生夫
または、ユーモアを錫杖として中年を生きる草食獣

ワン・タッチの傘をひろげてゆかむかな
        男の花道には遠けれど

        吉岡生夫『勇怯篇 草食獣・そのIII
 傘を片手でひと振りして広げ、折からの雨にかざして退場する。背で泣いてる唐獅子牡丹。歌舞伎にもこういうシーンはありそうだが、この場合は東映ヤクザ映画の高倉健かもしれない。傘はもちろん蛇の目傘で、表は真っ赤に塗られているのがよい。男のカッコよさと孤独が滲み出るシーンで、観客はここでグッとくる。しかし掲出歌はそんなカッコよさからはほど遠く、広げる傘はスーパーで千円で売られているワン・タッチ傘である。高倉健の男の花道がカッコよければよいほど、それとはほど遠い中年男の自分の現実との落差が際立つ。掲出歌はその落差をかすかなユーモアをまぶしつつ冷静に見つめている。昂揚して詠い上げるような調子はどこにもない。これが吉岡の歌の基本的なトーンである。

 吉岡生夫は1951年 (昭和26年) 生まれで「短歌人」に所属。新人賞などの華々しい受賞歴はなく、私は邑書林の「セレクション歌人」シリーズで初めてその名を知り歌を読んだ。「セレクション歌人」は藤原龍一郎と谷岡亜紀の責任編集で、もしこの二人がその任になければ吉岡に一巻が当てられることはなかったかも知れない。谷岡は1959年生まれで今年45歳、藤原は1952年生まれで52歳、吉岡は53歳である。みんな立派な中年男だ。青春の抒情は短歌のしらべに載せやすいが、髪が薄くなり腹の出た中年男が短歌を作るのはなかなか難しい。もうキラキラした青春は詠えないが、かといって老境の枯淡からはほど遠い。マイホームの住宅ローンは背中に重く、職場では中間管理職という板挟みの立場である。作り出された短歌には日常の疲労感と人生の苦みが添加される。イチゴのショートケーキが大好きなお子さまにはその味わいがまだわからない大人の味の短歌となる。

 第一歌集『草食獣』、第二歌集『続 草食獣』、第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』、第四歌集『草食獣 第四篇』、第五歌集『草食獣 第五篇』と並べればわかるように、すべての歌集の題名は「草食獣」となっていて、これはいささか異例なことだろう。この題名の由来は次の歌に明らかである。

 ガリヴァを絵本でよみし頃おもひ草食人種といふを念(おも)へり

 草食人種とは、スウィフトの『ガリバー旅行記』に登場する馬の姿をした人種フイヌムのことである。『草食獣』という歌集題は吉岡本人の発案ではなく、「短歌人」の先輩歌人である小池光がとある酒席で示唆したものだという。「草食人種」は動物を殺して食べ血を流すことのない平和的な種という、肯定的な意味合いを帯びて使われている。しかし、命名の理由はそれだけではなく、作者本人があとがきで次のように書いている。

「加えて、自らの手を血で汚すことのなかった潔癖さと引き換えに、なんら、この現実世界とかかわりをもたなかったのだ、という、いわば緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさを記念して、とでもいっておいた方が妥当なようである」

 第一歌集刊行時に28歳だった吉岡が抱いた「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」とは何だったのだろうか。吉岡の父は警察官であり、鑑識業務に従事していて1971年に殉職している。

 公務死をとげて勝ちたる亡父のためわれのてにある一輪の菊

 ステージの父の遺影のまつられてあるところまで行かねばならぬ

 父とわが呼びたる骨をひろはむとするに殺めしごとく崩れつ

 警官を犬と呼びたる長髪の友の弁舌さはやかなりし

 1960年代の後半から全国に吹き荒れた学生運動の嵐は、同時代に青春を送った若者にさまざまな形で刻印を残した。この時代に警察官を父親に持つというのは、今からは想像できないほど複雑な立場に身を置くことになる。ヘルメットを被りゲバ棒を振るう活動学生は一部に限られてはいても、若者一般の心情は多かれ少なかれ反体制的であり、親の敵のように髪を長くしていた。そんな若者にとって警察官は「権力の走狗」であり、まっさきに指弾攻撃されるべきものである。吉岡は学生運動に参加することも、かといって父の側に立つこともできなかった。だから父の死に直面して「自ら殺めしごとく」という感情を抱かねばならなかったのだろう。それが「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」である。この体験はおそらく吉岡に深く刻印され、吉岡が世界と関わるやり方を決定づけたと思われる。それは何かを声高に主張することなく、人畜無害な草食獣としてひっそりと市井に暮らすという道である。

 略歴によれば高校一年生の頃から短歌を作り始め、あちこちに投稿するようになったとある。おそらく初期の作と思われる次のような作品には、年齢相応の青春の抒情が漲っている。

 ちちははのいのりのごときうみなりのなかをゆくとき血こそかがやけ

 奔放に生きたきわれを捨てがたし雨中に海をみてもどるとき

 ああひとはうまれながらのかなしみをもつゆゑくらくほほゑみにけり

 ああわれをまきこむやうな音ののちあがる遮断機のうへの空

 村木道彦ばりのひらかなを多用した童謡を思わせる語法である。四首目に揺曳する死の予感もまた青年に特有のものであり、青春時代には死すらも憧憬や抒情の対象になる。しかし、吉岡の真骨頂はこのようなトーンにあるのではない。

 きみよそのみどりご抱きて撮られゐる青葉地獄のなかの一齣

 定年の日まで勤める庁舎かとみあげて夜の襟を高くす

 万歳の腕のかたちをかなしめり頭よりセーター脱ぐときの闇

 頸のみをうつして足れりネクタイを朝ごと締める柱の鏡

 一首目の歌を『現代百歌園』で採り上げた塚本邦雄は、「きみ よそのみどりご」と区切る読みの可能性に言及し、ぞっとするような「劇」の存在を指摘したが、これはうがちすぎかもしれない。二首目で20代にして定年を思うとは、いささか老成しすぎている。三首目、万歳は降伏の姿勢であり、セーターに頭をすっぽりとくるまれた姿勢に降伏と闇を見る視点が注目される。四首目には後年ますます顕在化する、生活の細部に注目する吉岡の視線が顕著である。

 なんといっても吉岡独自の個性が確立したのは第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』で、「セレクション歌人」に完本収録されていることもその証左とみてよい。

 さてもをどりの名手といはむ鉄板のお好み焼きにふる花がつを

 妻と子と母がすわれば空をとぶかたちとなりぬ電気カーペット

 印影の徐徐に大きく太くなりすなはち件の決済終はる

 負けてこそヒーローならむふりかぶるときの江川の耳はピクルス

 神のごとわれは立ちたり円型の蛍光燈を頭にいただきて

 一首目と二首目にはユーモアがただよう。吉岡は「セレクション歌人」に収録された長塚節についての文章のなかで長塚の滑稽趣味を指摘し、それが後世に評価されなかったことを残念だとしている。単なる生活詠に終らせず短歌を歌として成立させ、しかも青春の昂揚や抒情からは遠い中年という人生の砂漠のような地点でいかにして歌のしらべを響かせるかという困難な課題に直面して、吉岡が出した答がここにある。ひとつは「生活の些事をすくいあげること」であり、もうひとつはその些事の観察を提示するやり方における「ユーモア」である。三首目は作者の勤務していた市役所の風景であるが、役職の下の者は印鑑が小さく、上級職になるほど大きくなる印鑑が決裁書にずらりと並ぶ。当たり前といえば当たり前なのだが、その事実が拾い上げられてこのように詠われると、そこにユーモアと若干の皮肉が生じる。それは四首目で江川投手の大きな耳をピクルスに譬えるときも同じである。五首目は居間の円形の蛍光灯を取り替えている風景だが、蛍光灯を頭上にかざす自分を神のようだとする表現は、最初にあげた掲出歌の発想と似たところがあるが、掲出歌とちがって「男の花道には遠けれど」という感慨が消去されている分だけ、吉岡の作歌態度が深化したことを示している。

 このように「生活の些事をすくいあげる」眼差しは、ときに次のような歌を生み出す。

 消しゴムのある鉛筆は書きて消し書きては消してまた書くものぞ

 この歌は、「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」という奥村晃作の「ただごと歌」と、その発想と語法において極めて近い地点にいると言ってよい。

 しかし吉岡はただ発想のおもしろさのみによってこのような歌を作っているのではないだろう。「一人の女の運命を狂はせしことさへなくてバスに揺らるる」のような歌の影に揺曳する慚愧の想い、「殺意などふともわきくる中年の背中がありぬ冬のホームに」のような歌から滲み出る凶悪な感情を内心に感じながら押し殺しつつ、変わり映えのしない中年の日常を生きているのである。そんななかから生み出される次のような歌には、きらりと光って私たちの生を照らす何かが感じられるのである。

 その中の闇もろともに流れゆく空缶たのし浮きて沈みて

 ロビンソン・クルーソーならむうつぶせに朝をめざめて渚のごとし

 幽界の汀すなはち電車くるときホームに散る波の花


吉岡生夫のホームページへ

081:2004年12月 第2週 横山未来子
または、反射率と屈折率の生み出す硬質の抒情

胸もとに水の反照うけて立つ
     きみの四囲より啓(ひら)かるる夏

        横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』
 「きみ」と呼ばれている男は、川のほとりに立っているのだろう。日光が川面に照り映えて、その反照が男の胸を明るく照らしている。男は〈私〉の憧れの人である。男の周囲が周りの風景から切り取られたかのように鮮やかに私の目に映る。そうして夏が始まると〈私〉が感じているのは、もちろん〈私〉の恋のゆえである。男に寄せる〈私〉の想いが、夏の日差しと水の匂いを背景として際立つ相聞歌である。

 横山は1972年生まれで「心の花」所属。1996年(平成8年)に掲出歌を含む「啓かるる夏」で短歌研究新人賞を受賞している。ちなみに、前年1995年の受賞は田中槐、1994年は松村由利子、1993年は寺井淳であり、陸続と才能が世に出た頃だったことがわかる。ちなみに目黒哲朗が一年年上で1971年生まれ、佐藤真由美・佐藤りえ・玲はる名が1973年生まれで少し年下になる。この世代は『サラダ記念日』が出版された1987年に15歳前後だから、俵万智によって始めて短歌と出会った世代と言ってもよい。このために口語短歌が、なかでも会話体短歌が当たり前になるのがこの世代からなのだが、横山はそんな中にあってひとり我が道を行くように端正な文語律の歌を作り続けている。その歌風は古典的と言ってもよく、硬質の抒情と透明感溢れる歌の世界は、同世代のなかで際立っている。

 若い女性の例に漏れず、横山の短歌のモチーフの中心は相聞なのだが、そのモチーフを歌にするとき目立つのは、言葉の選択の細やかさと、自分を見つめる眼差しの確かさである。言葉の選択の細やかさは、横山の言語感覚の鋭さを証明しており、自分を見つめる眼差しの確かさは、年齢に似合わない老成と言ってもよい世界観に発している。歌集あとがきによると、車椅子での生活をしているとあり、横山の置かれた境遇が大人びた世界観を生み出したのかも知れない。「モラトリアム」と言われ「ピーターパン症候群」と呼ばれ、大人になれない若者が増加した現代にあって、これはなかなかに希有なことである。

 横山の短歌世界を言い表すのに「反射率と屈折率の短歌」という表現を使ってみたい。それはひとつには、第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』、第二歌集『水をひらく手』を通じて、水と光に関する歌がとても多いという理由からだが、それだけではない。横山の短歌が作者の心の反射率と屈折率を実に木理細やかに詠っているからである。それは第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』冒頭に近い次の歌からすでに顕れている。

 ボート漕ぎ緊れる君の半身をさらさらと這ふ葉影こまかし

 ボートを漕いでいる男の体に日光が当たり木の葉の影が映る。それを「さらさらと這ふ」と表現したところに動きと爽やかさがあり、季節は春か初夏だと思わせる。ここには光の反射があり、その反射を見ている〈私〉がいるのだが、その光の反射は〈私〉の心のきらめきの反映でもある。

 瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり

 シャツの背に五月の光硬ければ追ひかくる日のなしと思へり

 青草に膝をうづめて覗きこむ泉にわれは映らざるなり

 スポークに夏の夕光散らしつつ少年の漕ぐ自転車過ぎつ

 一首目、男が微笑む度に自分が水切りされるように感じる。「水切り」は洗った野菜を水切りするの意とも取れ、石を川面に投げる水切りの意とも取れるが、後者と取るほうがいいだろう。自分が水切りされる石のように感じられるというのだが、ここでは〈私〉は心躍って反射する石そのものである。しかしどうも横山の恋は実らぬ恋だったようだ。二首目、男のシャツの光の反射は一転して、自分を拒む光と捉えられている。三首目、〈私〉が覗きこんでいる泉とは、相手の男の心の泉であろう。自分はその泉に映らないという片恋である。四首目は相聞歌ではないのだが、スポークに光る夏の夕方の光は反射そのものであり、横山は世界がこのような形を取って立ち顕れるとき最も歌心を動かされるのである。

 では屈折の方はどうか。次のような歌に屈折を感じることができよう。

 月と藻のゆらめきまとふ海馬(うまうま)となりたり君の前にうつむき

 冬芽もつ枝くぐりつつ再会を薄日のやうに恃みてゐたり

 手渡さぬままのこころよ口中のちひさき氷嚥みくだしたり

 昼と夜を経てふりむかば硝子器の影のあはさとならむ逢ひかも

 水に差す手の屈折を眺めゐる夏のゆふぐれや過去のゆふぐれ

 一首目、男の前でうつむくのは自分の心が伝えられないからであり、心が相手に届く前にまるで屈折するかのように地に落ちる、そのような歌がたくさんある。二首目、再会は冬の薄日のようにはかなく望みのないものであり、横山は自分の恋をそのようなものとあらかじめ見なしているようである。三首目には屈折し相手に届かない心が口に含む冷たい氷として詠われている。四首目では、男との恋はまるでガラス器に反射する光のようにはかないものかもしれないと詠まれている。ガラスに反射する光は屈折するのであり、この屈折する光が横山の歌にたゆたいと奥行きを与えている。五首目には、手を水に入れて屈折する有様を眺めている自分が詠まれており、この一首は横山の眼差しを象徴する歌といえるだろう。

 世界に対する自分の位置取りという点から見て横山の短歌にもうひとつ特徴的なのは、自己が屹立する存在として事物と対峙するのではなく、自分を何物かが通過する媒質と捉える身体感覚であろう。この感覚は次のような歌に顕著に看て取れる。

 胡弓の音凪ぎたる後もふるふ闇わが諦めはかりそめならむ

 眠られず君は寝がへりうちゐるかわが夢の面(も)のときに波立つ

 秋草のなびく装画の本かかへ風中をゆくこの身透くべし

 両腕をひらきて迎へゐるわれをまつすぐ透過してゆくひとか

 抱へもつ壺の内にて水は鳴り予感せりとりのこさるる日を

 一首目、鳴りやんだ胡弓の弦の振動は闇とともに〈私〉の体をも震わせており、それはまだ体内に残る恋人への思いと共振する。ここでは〈私〉は振動する媒質と捉えられている。二首目、遠くにいる恋人を想う夢のなかで、〈私〉は波立つ媒質である。三首目では、自分が風の通り抜けるほど透明な媒質になりたいという願いが詠われている。四首目は媒質であることの悲しさが表面に出ており、恋人は自分の体にぶつかることなくそのまま透過してしまう。五首目の「抱へもつ壺」は本当の壺ではなく、自分の身体と心の比喩だろう。そこにもまた水が満たされており、心の動きは水の波動として知覚されている。

 水や空気のような媒質は自ら動くことができない。外部から力を受けたときにだけ、波動としてそれを伝えるのである。だから媒質は徹底的に受動的存在なのだ。横山が自分を媒質と見なすとき、自分からは外部や他者に働きかけることのできない弱い存在だと認識しているのだろうか。いや、そうではあるまい。

 風に乗る冬の揚羽にわが上に一度かぎりの一秒過ぐる

 一生のうちのひとひのひとときを夕雲に薔薇いろの湧き消ゆる

 木の生きし月日は残り背後にてうすむらさきに地を覆ふ光(かげ)

 上の最初の二首は、一度限りの現在という時間は取り返しようもなく自分にも揚羽にも流れているとする時間認識を詠っている。そこには自分と揚羽を区別せず、どちらもこの世に生かされている存在だと見る眼差しが感じられる。また三首目は、紫の花を咲かせていた桐の木が道路拡張工事のために切り倒されるまでを詠んだ連作の最後の歌なのだが、切り倒された桐の木の生きた日々を紫の残光として幻視しており、ここには存在のはかなさと同時に、それを超えて連続するものへの強い希求がある。このような強い希求を持つ人を決して弱い存在だと見なすことはできないだろう。自己と世界の関係のこのような把握は、横山が20歳のときに受洗したキリスト者だということと深く関係していると思われる。だから横山の短歌は世界への祈りなのであり、声を荒げることがなくてもその静かな祈りは深く人の心に届くのである。

横山未来子のホームページ「水の果実」へ

080:2004年12月 第1週 高柳蕗子
または、意味の脱臼のかなたに浮上する短歌的意味

抱き癖の大王イカを寝かしつけ
       僕を殺しに戻る細い腕

         高柳蕗子『潮汐性母斑通信』
 高柳蕗子は1953年(昭和28年)生まれ。同人誌「かばん」を活動の場としており、短歌結社には所属していない。もし結社に入っていたならば、高柳のような短歌は「ちょっとあなた、いいかげんにしたら」と主宰から言われていただろう。第一歌集『ユモレスク』、第二歌集『回文兄弟』、第三歌集『あたしごっこ』に続いて、今年 (2004年)に第四歌集『潮汐性母斑通信』が上梓された。「潮汐性」とは潮の満ち干に関係するとの意で、「母斑」とは先天的なアザやホクロの類の意味だから、この題名は「潮の満ち干で生じる先天的アザのお知らせ」という意味になるが、まるで意味をなさない。このような「意味の脱臼」が高柳の最も得意とする技である。掲出歌も意味不明だが、「抱き癖」「大王」のダ頭音、「癖」「イカ」「つけ」の脚音のリズムの軽快さに加えて、上句のユーモラスな情景と下句の不吉な場面の対比が鮮やかで、不思議と意味を超えて読ませてしまう歌になっている。

 第一歌集『ユモレスク』が出版されたのは1985年のことである。穂村弘は『短歌ヴァーサス』第5号の連載「80年代の歌」のなかで高柳の『ユモレスク』を採り上げている。穂村はあからさまに言ってはいないけれど、それまでの号で論じた歌集に対する論評から類推すると、『ユモレスク』もまた80年代のバブル景気の過剰な消費気分を背景として生まれた歌集だと言いたいようだ。サラダ旋風の2年も前にこのような歌集が世に出ていたのは、驚きと言えば驚きである。どんな調子か『ユモレスク』からちょっと引用してみよう。

 殺人鬼出会いがしらにまた一人殺せば育つ胃癌の仏像

 吸血鬼よる年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機

 布教終え行ってしまった神父らの不快な息で滅ぼされた街

 骸骨ら他には何もないからと大骨小骨贈りあう聖夜

 これらの歌に通常の意味を読み取る解読を期待してはいけない。言葉遊び・イメージの連鎖・奇想・物と観念の意外な出会い、これらの要素が組み合わされることで作り出される不思議な情景や、星新一のショート・ショートを思わせる奇抜な物語が、定型短歌という形式を借りて展開されているのである。

 蕗子の父の高柳重信は俳句界の重鎮で、三行書きの俳句を作ったことでも知られている。

 身をそらす虹の       船焼き捨てし
 絶巓            船長は
     処刑台       泳ぐかな

 重信には『蕗子』という題名の句集があり、『ユモレスク』にも「パパへ」という章があるくらいだから、父娘の結びつきは相当強いものだと考えてよいだろう。俳句にはもともと「二物衝撃」という句作法がある。本来はつながりの少ないふたつの物を並置することで、意味的な衝撃力を生じさせることを言う。シュルレアリスム詩人のロートレアモンが言った「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」と同じことである。形象の文学である俳句は、一句の衝撃と結像度の鮮明さで勝負するところがあり、必ずしも意味に依存しない。この俳句の句作法が蕗子の作歌法に大きな影響を与えていると考えられる。事実、蕗子の短歌に見られる奇想や奇抜なイメージや、時に生じる滑稽味は、俳句との連続性を感じさせるのである。

 早起きの老人ばかりの暗殺団不吉なことは内緒にされる 『ユモレスク』

 密航の少年が股間に蜜柑ぬくめて潜むスカバソの港  『回文兄弟』

 鼻つまみ詩人ペッシカス追放し市民の樟脳臭い懊悩  同

 あだぶらる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら  『潮汐性母斑通信』

 「早起きの老人ばかりの暗殺団」は、季語なし切れ字なしだが、これだけでも俳句として読める。老人ばかりなので、誰それが死んだなどという不吉な噂は隠すというが、職業が暗殺団だけに滑稽である。二首目と三首目は逆読みした言葉を埋め込んだ連作で、「スカバソ」は「ソバカス」、「ペッシカス」は「スカシッペ」を反転したもの。二首目の「股間」「蜜柑」、三首目の「樟脳」「懊悩」の語呂合わせも凝っている。四首目は架空の枕詞を詠み込んだ連作から。「あだぶらる」がそれなのだが、この歌ではご丁寧に、結句の「かだぶら」と呼応して「あぶらかだぶら」となるように作られている。

 それでは高柳の短歌はすべて言葉遊び・語呂合わせ・奇抜なイメージの競演を目的として作られたもので、そのようなものとして言葉の表層において味わえばよく、その奥に作者の人生や境涯に直結するような短歌的意味を期待するべきではなく、また読み取ろうとする鑑賞態度もまちがいなのだろうか。どうもそう言い切れない所が事情を複雑にしているのである。

 問題の在所ははっきりしている。それは高柳が一見単なる言葉遊びとも見える言語活動を、短歌定型という器において展開しているという点にある。韻文定型には定型としての「場」が備わっている。そもそも物理学において「場」の概念は、そこに置かれた物体に作用を及ぼす空間とされており、「重力場」「電磁場」などがそれに当たる。「場」には場の特性が備わっていて、そこに置かれた物体に等しく作用を及ぼすのである。これを定型短歌に適用すると、韻文定型という「場」におかれた言葉は、それらが本来持っていた意味とは異なる意味作用を、場によって引き出されるということになる。だから高柳の短歌がどれほど場に起因する意味作用を逃れようとしてもそれは不可能であり、どうしても「意味」が生じることは避けがたく、それはまた必然的に「短歌的意味」として受領されることになるのである。だから次のような歌に出会うと、私の視線は表層の言葉の戯れにではなく、その背後に送り返す意味に向かうことになる。

 自転車で「不幸」をさがしにゆく少年 日は暮れてどの道もわが家へ 『ユモレスク』

 流刑星姿かわいい生き物をブタと名づけて喰う悲しみ         同

 文献は焼かれあるいは散逸しどの星もみな地球をなのる        同

 胸深く抱きとめてしまった鶏を放すため月に駈け登る伯父       同

 日常の安穏に不満な少年は不幸を探しに行くのだが、夕暮れの不安が迫ると足は我が家へと向かうという一首目は、甘酸っぱい青春歌の趣さえある。二首目はレイ・ブラッドベリの火星ものの短編を思わせる味わい。流刑地の星にいた生き物にブタと名づける行為は、不味い動物を我慢して食べるためのごまかしとも、余りに愛らしい動物なので罪悪感をごまかすためとも取れる。三首目もブラッドベリ風で、惑星移民史の意図的隠蔽の結果、どの星も人類の故郷である地球を名乗るようになったという皮肉である。四首目を例に取ってもう少し詳しく分析すると、「胸深く抱きとめてしまった鶏」という形象が定型短歌という「場」におかれると、それはもはや字義的意味に解釈されることはなく、定型の場の作用の結果、本質的な多義性の海をたゆたうようになる。この形象を定まった岸に繋留することはできない。この鶏が字義どおりの鶏でないとするならば、それを何物かの〈喩〉として解釈するという定型の場の圧力が、読者としての私の解釈を誘導することになる。「抱きとめてしまった」という措辞からは、「そうするべきでなかった」という言外の意が感じられる。だから「胸深く抱きとめてしまった鶏」は、例えば「何物かへの禁断の愛情」の〈喩〉となり、ここに高柳好みのブラッドベリ風の設定を加味するならば、「詩歌が禁じられた国」で禁を犯してしまった伯父の物語を私がこの歌に読み取ることを妨げるものは何もないということになる。言うまでもないがこれは多様な読みの一例に過ぎないし、作者が意図した意味だというわけでもない。そう読めてしまうということである。

 『潮汐性母斑通信』にも様々な言葉遊びや語呂合わせ短歌が並んでいるが、長いあとがきが意外にマジで驚いた。高柳はそのなかで、生まれなかった自分の兄について語っている。生まれなかった兄とは次のようなことである。蕗子が生まれたとき、父の重信は男の子の名前しか用意していなかった。明らかに男子の誕生が期待されていたのである。蕗子はその事実を知ったとき、生まれ損ねた兄に負けたという敗北感と同時に、自分の存在に対する不確定感を抱いたという。蕗子はこの消化しきれない感情と折り合いをつけるために、自らが抱く存在の不確定感を非在の兄に押しつけ、兄を向こう側に葬ることによって自分の誕生の正当化を図るという解決法を見い出した。これが次のような歌となって現われる。

 てのひらに星揉みこめばはきくまのいちばん弱い兄はけらいに  『潮汐性母斑通信』

 花野 ああ倒れ込むとき兄の胸が凍りながら鳴るアコーディオン  同

 傍受せり 裏の世に兄は匿われ微吟する「二一天作ノ五」     同

 両親の全的存在承認を得ることができない子供の不全感と、それを想像上で解消するために考案された非在の兄という物語は、わかりやす過ぎるほどである。しかし、このトラウマが高柳の作歌の原動力となっていて、すべての歌がこのトラウマとの関係で読まれるべきだというような、俗流フロイトの単純な図式ではもちろんない。生まれ損ねた兄の影が揺曳する歌が散見されるということにすぎないのだが、「コトバ派」の歌人だと思っていた高柳に、このような一面があるのは意外と言えば意外である。

 最後に特に印象に残った歌をあげておこう。これらの歌には「言葉の戯れ」を遙かに超えて、短歌的意味が感じられるのである。

 いつの日か命取りとなるその音痴海図の上で爪切る船長       『ユモレスク』

 人類の長い余生の庭先に夢見心地に卵抱く鳥             同

 不倒翁みごと魚腹に葬られ 水の中ではおくれる喝采         同

 花を摘む花占いにみせかけてパパの昔の恋人ちぎる          同

 生涯を逆さに辿る長い夢終えた死者から海底を離れ         『回文兄弟』

 一度でも人のこころに触れたものは燃やせばわかるどーりーどーりー 『潮汐性母斑通信』

 忘れられた兄よ 母を泣く黒服に混じって一人まっぱだかの月     同

 穂波 このさきに心臓ひとつもなしと聴診器を胸から掴み去る     同

高柳蕗子のホームページへ

079:2004年11月 第4週 江田浩司
または、短歌表現の可能性を実験し続ける憂鬱な胎児

予言者の闇には時の星座あれ
       蒼き髪より蝶を発たしむ

    江田浩司『メランコリック・エンブリオ』(北冬舎)
 江田浩司の『メランコリック・エンブリオ』は問題歌集である。第一歌集でありながら、総計33句と903首を収録したその物量感がまず尋常でない。ふつう第一歌集を上梓するときには、それまでに書き溜めた歌のなかから類想歌を削り、取捨選択という自己選歌の過程を経て、歌数を絞って出版するものである。結社主宰みずからによる選歌のケースもあると聞く。この過程を経ることで完成度の低い歌を捨て、歌集の水準を高めるのである。しかるに江田の第一歌集には、たとえ類想歌が多くなろうともあえて捨てずに、とにかくまるごと提示したいという情念が感じられる。

 江田は1959年生まれで「未来」会員。栞文には、岡井隆、谷岡亜紀、藤原龍一郎が寄稿している。岡井は別格として、谷岡・藤原は江田の短歌世界を批評する歌人として、これ以上はないと言ってもいいくらい適任なのだが、そのふたりですら江田の短歌世界の多面性を扱いかねている、といった風情である。この歌集は6部構成を取っており、それぞれ傾向のはっきり異なる歌群から構成されている。順を追って見てみよう。

第一部

 憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる

 骨きしむ音にかあらん自己愛は蹌踉として汝にしずめり

 ゆうごりの霜の沙庭に翼おく一条の陽にさざんか散りぬ

 第一部には、江田が近代短歌の遺産を十分に咀嚼し継承していることを示すように、極めて上質の抒情を内包した歌が並んでいる。近代短歌だけではなく、古典和歌の技法をも自家薬籠中のものとしていることは、三首目「ゆうごりの霜の沙庭」を見ればわかる。「夕凝り」と漢字で書かず「ゆうごり」と仮名で書くことで古典臭を薄め、和歌言語を現代風に衣裳変えする試みも注目に値する。他にも「さらしい」(晒し井)、「なみくもの」(波雲の)、「あさはふる」(朝羽振る)などがあり、思いつきではなく計画的な試行であることがわかる。なかには「夕空の櫂こぎゆくは月草のかりなる命曳きゆくわれら」のように、現代では使用例の少ない「月草の」のような枕詞すら見られる。もし第一部に収録された歌だけを読んだならば、江田は古典和歌から近代短歌までの技法を継承する、歌壇のお覚え目出度い模範的歌人かと思われるほどである。

  ところが第二部になるとこの印象は一変し、江田は本来の反逆児の相貌を露わにする。

第二部

 処刑の朝目で射る楕円 崩れゆく思想笑いてしずみゆけり

 雲を喰う雲の苦しみ菜の花色にともす思想よ血まみれの鳥

 十三人目の使徒は革命を身籠れり祖国に向けて白き歯を剥き

 「思想」「革命」「形而上」「意味」などの生硬な漢語が多用されて、歌は一気に強い観念性の磁場を帯びる。それと同時に五七五七七の三十一音に収まらない破調の歌も多くなる。第二部のトーンをよく示すのは、「濡れた翼を持ちて被わんとぼろぼろな俺に跪座する妻よ」のような歌だろう。第一部では隠されていた一人称の「俺」が顔を出すが、それは観念に蚕食され思想的煩悶に身悶えする「俺」である。古典和歌風の予定調和的抒情は振り捨てられて、未消化な観念を吐き出すような歌が並ぶ。

 この傾向は第三部においてその頂点に達する。第三部は歌集の題名ともなった「メランコリック・エンブリオ」50首から始まっている。

第三部

 パラダイムから解き放たれし寒卵メタフォリカルな自慰に固執す

 難解な排卵 天体の運行に嗅ぐ少女の瞑想…………氾濫

 首を切る やはり僕の手、私生児を慰めるイコン、死にそうな馬

 一読してわかるように、近代短歌の技法は解体されその痕跡すら留めない。すべて破調の歌であり句切りすら不可能な語彙の連鎖となっている。第三部はおそらく江田の試みた最も実験的な部分であり、後述するがこの実験は現代詩の試みを抜きにしては理解できないだろう。

 第四部になると、あやうく解体されそうになった短歌の姿は元に復して、短歌的文脈で読める歌に戻る。

第四部

 肉感はそのままにして象形の淡き疼きをシーレ屠れり

 帰りゆく家がおぼろに意味を編み制度の馬は嘔吐激しき

 夜の落葉一枚が刻む民族を幻想しつつ楽は果てたり

 第四部に頻出するのは固有名である。スーチン、シーレ、パスキン、ルシアン・フロイド、デレク・ジャーマン、メイプルソープ、ジャクリーヌ・デュ・プレなど、いずれも重い芸術的宿命を背負った人たちであり、江田はこれらの芸術家に心を寄せることで自己の思想の試金石としているのだろう。

 次の第五部は一転して生活歌・境涯歌の世界となり、歌意をたやすく理解できる平明な歌が並んでおり、あまりの落差に驚くほどである。

第五部

 黒葡萄もぐように取る靴下に洗剤の香ははつか薫りし

 春霖の細かき粒を身にまといしつばめは命まかがやくかな

 つばくらよそぼ降る雨にしずくするおまえの視界にわれら抱き合う

 中学高校一貫校の教師をしているらしい江田の「父兄との押し問答をするうちにへそのあたりが痒くなりたる」のような職場詠すら散見され、歌が作られる場がはっきりと見える。

 第六部は「神々の手淫」と題された153首の連作である。

第六部

 黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声

 声からは人消えゆきてかなしくも逃散をする月の光の

 月の光燃える魚類の劇場の鰭の冷たさ冬の森呼ぶ

 結句の一部を次の歌の初句に取り込むしりとり形式の連作で、「寒晴れの光の中を歩みたる片耳の犬 わたしは飢える」から始まり、最後の「自慰をする葉脈のような日記から救われ難き過去は寒晴れ」で最初の歌に戻り、全体が円還構造をなす壮大なものである。力業であり、ジャブのように自在に言葉を繰り出す江田の能力は異能と言うほかはない。

 ふつう歌集を批評する場合、その歌人の資質を最もよく表わす歌を数首引き論評することで、その歌集が構築しようとした世界の特質を活写できる。しかし江田の場合には、作歌方法も、意味と韻律のバランスも、定型と破調の割合も、六つの部ごとに大きく異なる。どれが本当の歌人江田なのか。おそらくどれもが江田なのであり、その振幅の大きさと多面性をまるごと提示したところに、この歌集の問題性があるのである。

 では江田がこの歌集で試みた実験とは何だろうか。それは短歌における言語の役割を反転させようとしたことではないだろうか。

 小説のような散文と、俳句・短歌のような韻文とでは、素材たる言語の持つ機能が異なる。その違いは主として、言語機能全体のなかで占める「意味」の比重に関わると考えてよい。散文の言語は意味を伝達することが主たる任務であり、描写により意味を塗り重ねて行くことによって、作品世界を構築する。小説のような散文においては、「意味」は作品という建物を建てるレンガであり漆喰であり、小説はこの意味で「シニフィエの城郭」である。読者は小説の描写が分泌する小さな意味の積分を反復し、一巻を読了した時点で大きな意味を発見する。もちろん小説のなかにも、意味に還元されることに抵抗し、記憶に残る印象的な像はある。例えば『失われた時を求めて』の紅茶にマドレーヌを浸すシーンなどその典型だろう。しかし、その像は独立して存在しているのではなく、プルーストの記憶をめぐる物語の要としての意味を担う形で、小説全体の意味の一部として取り込まれ、その内部で機能する。

 一方、俳句・短歌などの韻文における言語は、言うまでもなく意味のみの伝達をその第一義としない。それは最短詩型の俳句を見ればすぐにわかることである。

 鬼百合が蜜ため朝の駅燃える  坪内稔典

 蜜を溜めた真っ赤な鬼百合が咲き乱れ、朝の駅をまるで火事の現場のように見せている。その描写自体は何か特定の意味を伝えようとしたものではない。ここでは咲き乱れる鬼百合を「燃える」と表現することで、読者の脳裏の網膜に投影される情景の「強度」が問題なのであり、そこに「蜜ため」が加わることで加算される秘密性とほのかなエロスが、一句の読みのすべてである。俳句は「形象性の文学」であり、一句が脳裏に結像するイメージの強度がそのまま「感性的な意味」であり、論理的な意味だけをそこから単離することはできない。短歌においてその役割を果たすのが「喩」であることは言うまでもない。

 青春のをはりを告ぐる鳥の屍(し)の掌にかくばかり鮮しきかな  小池光

 フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう  加藤治郎

 ここには鳥の死骸という〈物体〉と、「青春期の終わりを迎える戦き」という〈観念〉すなわち〈意味〉があり、一方が他方の「喩」となる関係がある。鳥の死骸そのものには意味はなく、また即時的物象として存在しているわけでもない。鳥の死骸は〈観念〉すなわち〈意味〉の「喩」となることで、この一首により最終的に感得される感性的意味作用に参加するのである。このように〈物体〉と〈観念〉とが互いに映し合うという相互関係が歌の世界を浮上させ、そこに形象化された感性的意味を作り上げる。その感性的意味は、日常言語の伝達する〈意味〉ではもはやない。大まかに言えばこれが短歌の語法であり、短歌における言語はこのような感性的意味の形象化をその職能とする。加藤治郎のように、意識的に短歌の語法の拡大を試みてきた歌人においても、同じことが言えるのである。

 江田の実験はこの物体と観念の互いに映し合うという関係を壊し、物体と観念を同じ地平に強引に並置し、そこに生じる〈物体の歪み〉、〈観念の引き攣れ〉から生じる歪んだ磁場を弾機として、己の短歌世界を立ち上げようとするものだと思われる。

 光の煮凝り虚偽の実験室に一羽の鳥が…………触る肋骨

 林檎に青空が落ちる 動かない木・考える時間・死にはしない

 ダ・ビンチ世界は曲がる、はじめに足がない霧の部屋にて

 一読してわかるように、これらの歌は結像力が極めて低い。読んでいて何かの情景を思い浮かべることもなく、全体としてひとつのイメージに収斂することもない。短歌が詠まれた場がまったく見えないことは言うまでもない。だから、栞で藤原龍一郎が言うように、「読者は言葉の孕んでいる熱量に圧倒されながら、混沌に意味を読み取る努力を続けなければならない」ということになり、結果として「頭が痺れる」わけである。読者にとって親切な歌の作り方とはとても言えないのだ。

 このような〈物体〉と〈観念〉の同じ地平での並置は、現代詩の手法であることにふと気づく。

   皇帝

 石の中に眼がある 憂愁と倦怠にとざされた眼がある
 その人は黒衣をきて私の戸口を過ぎる 冬の皇帝
 淋しい私の皇帝 ! 白皙の額に文明の影をうつし欧州の墓地まで
 歩いて行く 太陽を背中に浴びて あなたの自己処罰はいたいた
 しい                 
                 田村隆一『四千の昼と夜』

 このように何の前置きも場面設定もなく、いきなり〈物体〉と〈観念〉が混在するコトバの世界に引き込むのが現代詩の常套手法である。現代詩においては短歌と異なり、描写された物体と観念・意味との間に、互いを映し合う喩的関係は成立しない。それは日本語の現代詩が、本来の意味における韻文ではなく、言語の機能から見れば散文だというところに原因があるのだろう。

 三枝昂之は「一回性の〈意味〉の屹立」(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)という文章のなかで、清水昶の詩集『新しい記憶の果実』から「開花宣言」を選び、その一部を短歌として翻案改作し、何が変容するかを観察するという興味深い実験を試みている。その結果わかったことは、詩のなかで意味を発信している部分を短歌に移し替えると、その意味をそのまま意味として定着することが困難だということである。意味を担う一行は、短歌の韻律が形成する詩的秩序に放り込まれると、何物かの喩として解釈されることで一種の多義性のなかをたゆたうようになる。これが三枝の結論である。

 この実験結果を念頭において、再び江田の実験的短歌を見直してみると、江田はこのような歌のなかで、物体と観念とが互いに喩的関係を持つという短歌的な言語のあり方そのものに挑戦し、喩的関係を拒むように物体と観念を並置することで、一首に強い意味的磁場を形成することを目的としているということがわかるだろう。だからこれは現代詩の手法の短歌への導入なのであり、俳句・詩・短歌とさまざまな文芸ジャンルに幅広く精通している江田ならではの試みなのだとも言える。江田が現代詩にも通じていることは、「風呂桶を洗いて身たる幻はサフランを摘む僧になる俺」という歌をみればわかる。これは現代詩の金字塔にして難解な、吉岡実の『サフラン摘み』へのオマージュである。

 歌集題名の『メランコリック・エンブリオ』は「憂鬱なる胎児」という意味だという。それは作者の内部に生まれ育った得体の知れない生き物の謂であり、自己の内部への過剰なこだわりの象徴である。江田が従来の短歌的語法に満足せずこのような実験を試みたのは、内に巣くう「内なる他者」に言葉を与える器として、近代短歌の語法では十分ではないと感じたからに他ならない。しかしこの実験はまだ実験に終っていると見なさざるをえないようだ。作者自身があとがきに書いているように、「内部の他者」から「外部の他者」へと出会う通路を見つけるには、まだまだ江田は孤独な道を歩まねばならないようである。

078:2004年11月 第3週 冷蔵庫の歌

冷蔵庫内に霜ふり錐形の
     死の眠りもて熟るる苔桃

               塚本邦雄
 広く普及している家庭用電化製品のなかで家事に関係するものといえば、冷蔵庫・洗濯機・掃除機が代表的だろう。このうち短歌の題詠で登場することの多いのは冷蔵庫である。『岩波現代短歌辞典』も冷蔵庫のみを見出し語として立項している。洗濯機にも次のような秀歌はあるが、歌に詠まれることはずっと少ない。掃除機もたぶんあるのだろうが思いつかない。

 昏れどきの人らかへりみぬ店先に洗濯機はゆたかなる水を揉む 田谷鋭

 冷蔵庫も洗濯機も韻律的には5音なので、歌への収まりのよさという点でちがいはないのだから、この頻度の差は両者の喚起するイメージの差に起因すると考えてよい。また家事に関係する電化製品のなかで、冷蔵庫はいちばん男性に身近だということも理由のひとつだろう。掃除機など触ったことのない男でも、冷えたビールを取り出すために冷蔵庫は開けるのだ。

 昔の冷蔵庫は木製で内側に亜鉛板が張られており、いちばん上に氷を入れて冷やしていた。氷屋が玄関先を通りかかるのを呼び止めて氷を買う。氷屋は炎天下大きな鋸で氷を適当な大きさに切って売ってくれる。台所の木製の冷蔵庫は開けると独特の匂いがした。母が和服を着て割烹着姿だった時代の話である。

 イメージの豊かさと象徴性において、確かに冷蔵庫は電化製品のなかでは群を抜いている。言うまでもなく内部を低温に保ち食品を長期貯蔵するというのが冷蔵庫の目的なのだが、この目的のための形状と機能とが期せずして豊富なイメージの源泉となった。四角い形状と低温という環境は、棺桶との連想から死のイメージと結びつく。また低温貯蔵は動物の冬眠を思わせるところから、眠りや昏睡のイメージとも結合する。塚本邦雄の掲出歌はこのイメージを利用したものであり、「死の眠り」は死んだような深い眠りとも、深い眠りのような死とも解釈できるだろう。

 このように豊富なイメージを生み出す理由は、冷蔵庫に「内部性」があるという特徴に求めることができる。冷蔵庫にはドアがあり、ドアを閉めると「内部」は「外部」から遮断される。こうして形成された秘密の「内部性」は、中に何かが「隠されている」という対象把握を促しやすい。洗濯機や掃除機に欠けているのは、この「内部性」だと言ってよいだろう。

 さて冷蔵庫の内側には、冷凍庫・肉魚ケース・野菜ケース・ドア裏の瓶立てなど、使用目的に応じたさまざまな部分があるが、なぜか歌人たちはドア裏の卵ケースに注目することが多いようだ。

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆

 冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり  大滝和子

 はじめから孵らぬ卵の数もちて埋めむ冷蔵庫の扉のくぼみ  林和清

 架空家族の氷庫につねにうつろなる卵置場の十二個の穴  古谷智子

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘

 穂村の歌を除きこれらの歌は共通して、本来は命を育むはずの卵が無精卵として冷蔵庫に収まっているという事実に着目している。工場のような鶏舎で生産され運ばれて来る無精卵は、現代における生の無効化や虚しさの象徴である。なかで大滝の歌は、白い卵の整列を墓地に林立する墓碑に見立てている点に、類歌と少し異なる視点が感じられる。また古谷の歌は、卵置場にあるはずの卵がなく、空虚なくぼみだけが並んでいるという場面を捉えることで、見せかけだけの崩壊家族の家族的内実の不在を暗示している点がおもしろい。

 次にあげる歌は、冷蔵庫が何かを貯蔵する場所だという点に焦点を当てたものである。WWWとある歌は、『短歌、WWWを走る』(邑書林)の題詠「冷蔵庫」から引用した。

 たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて  島田幸典

 切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ  佐藤りえ

 冷蔵庫の薄暗がりに初恋のひとりをしまふ、食器らとともに  大辻隆弘 (WWW)

 アクリルの箱にきっちり詰め込まれ憎悪はそっと冷蔵庫の奥  五十嵐仁美 (WWW)

 腐らないように低温貯蔵するのが冷蔵庫の役割なのだが、歌人たちはそんな本来の目的とは関係なく、ずいぶんいろいろな物をしまうものだと感心する。冷蔵庫に物をしまうとき、私たちは扉を開けた冷蔵庫の前に跪くことがある。この姿勢で物をしまうと、まるで祭壇に捧げ物をしているようになる。島田の歌ではしまうのは梨であり、それ自体は日常ありふれたことだが、それを「たましいを預けるように」と表現したところに日常を超えた宗教的希求のようなものを感じさせる。こう表現されたとたん、冷蔵庫はあたかも霊安室のような相貌を呈するのである。佐藤の歌ではプリンスメロンだが、「冷蔵庫上段のひかりへ」という下句の表現に、光とキラキラ感にこだわる佐藤の面目が現われている。ふつうならば「光る冷蔵庫の上段へ」しまうのだが、それが「冷蔵庫上段のひかりへ」と表現されると、一句の意味の焦点は光そのものに移行する。意味の焦点のこのような微細なずれを断機として、日常のコトバは詩のコトバへと浮上する。こうして佐藤の歌にもまた、日常を超えたせつない希求が感じられることになる。大辻の歌の「初恋のひとり」を文字どおり人間だと解釈すると、かなりホラーになってしまう。確かにアメリカのジェネラル・エレクトリック社製の大型冷蔵庫ならば、人間ひとりを収納することもできるが、大辻の「初恋のひとり」は比喩と解釈すべきだろう。ただし、「食器らとともに」というのがひっかかる。食器をしまうのは食器棚であり、冷蔵庫に食器だけをしまうことはない。もちろん残り物の入った食器ごと冷蔵庫にしまうことはあるが、それだと初恋のひとり〔の記憶〕が残り物の入った食器と並ぶことになり、どうもまずい気がする。最後の五十嵐の歌では冷蔵庫を憎悪の隠し場所にしているようだが、歌のなかで「憎悪」とはっきり表現してしまうのは作歌技法から言ってよろしくない。短歌は表現されずに隠されたもので生きる詩型である。憎悪とははっきりと表現せず、憎悪を仮託した形象を冷蔵庫にしまうとすべきだろう。

 以上あげた歌は、冷蔵庫のなかに何かをしまうという発想から作られたものだが、冷蔵庫のなかにもとから何かが入っているという前提からの発想もありうる。例えば他人の家の冷蔵庫には何が入っているかわからない。引っ越しした家に前住者が冷蔵庫を置いていったとしたら、何が入っているか知れたものではないので、これはかなり不気味である。次の歌はこのような発想から作られたものだろう。

 干からびた肉といつしよに見つかつた古いともだち冷蔵庫の中  村本希理子 (WWW)

 冷蔵庫の奥になにやら居座って恨めしそうに私を見てる  丸山進 (WWW)

冷蔵庫は忘れたいものや隠しておきたいものを隠匿する場所であったり、何か不気味なものが居座っている場所であったりする。冷蔵庫の「内部性」が秘密や犯罪と通底するところから生まれたイメージであることはまちがいない。

 冷蔵庫を詠んだ歌を通観してひとつ興味深いと感じたことは、冷蔵庫の内部性を闇と捉えた歌と、光と捉えた歌におおきく二分されるということである。上にあげた歌でもすでに、島田はあさい闇、大辻は薄暗がりと「闇」系統なのにたいして、佐藤は「光」で対照的な捉え方を見せている。次の歌もそうだ。

 薔薇朽ちるまでの淫雨に次ぐ淫雨冷蔵庫から光は漏れて  嵯峨直樹

 真夜中に開けたらだめよ冷蔵庫は薄墨色の虹を吐くから 久哲 (WWW)

 冷蔵庫の扉をあける 仏壇はいつも暗くてどこか冷たい  西橋美保 (WWW)

 嵯峨の歌は今年の短歌研究新人賞受賞作から。雨に降り込められた暗い室内に漏れる冷蔵庫の光は、冷たい輝きながらもどこか救いを暗示する光のようにも見える。久哲の歌はよくわからないが、冷蔵庫の中では夜中に人知れず不思議なことが起きているというイメージと、内部の光から虹という連想が働いたものと思われる。西橋の歌は冷蔵庫と仏壇をイメージの世界で並置したものであり、死と闇系統の把握そのままである。

 冷蔵庫の内部性を「闇」と捉えるのは、おそらく自分が昼の世界にいて外から冷蔵庫を見ているからだろう。このとき、冷蔵庫の内部性には往々にして負の価値が付与され、内部性が外部性に転じたときに〈私〉が脅かされるか、〈私〉の隠しておきたい側面が露呈するという位相で捉えられている。これに対して内部性を「光」と捉えるのは、夜の暗い台所で冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいるからである。つまり、ここでは〈私〉は夜の世界にいて、冷蔵庫の中から漏れる光を憧憬している。内部性には正の価値が付与され、〈私〉の慰藉や救済を暗示するものとなる。どうやら歌人はこのどちらかのスタンスから冷蔵庫を眺めるようで、興味深い。

 なかには上にあげたものとは少しちがう歌もある。

 せつなさに変化してゆくピーナツバターは冷蔵庫の片隅で  佐藤りえ

 だめになった食品たちを眠らせて夏のしずかなる冷蔵庫   同

 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは  玲はるな

 「心配して言っているのさ嘘じゃない」冷蔵庫には真冬のキャベツ  村上きわみ

 佐藤はよほど好きなのか、冷蔵庫の歌をたくさん詠んでいる。冷蔵庫は低温で長期貯蔵を可能にはするが、食品が変質し腐敗することを止めることはできない。ただその過程を遅らせるだけである。この点に着目すれば、冷蔵庫は徒労と無力感の象徴となる。佐藤の二首で冷蔵庫が不毛性の象徴として詠われているのはこのためだろう。これに対して玲の歌は、恋人の都合のよい時にだけ声を掛けられ、それ以外の時は忘れられている自分を冬の製氷皿に擬したものであり、視点がユニークだと言える。村上の歌は少々わかりにくいが、上句の台詞と下句の事実描写が互いに裏切りの関係に置かれている点がポイントなのだろう。真冬は本来はキャベツが収穫できない時期である。だから冷蔵庫に納まっている「真冬のキャベツ」は、上句の台詞がその言明とは裏腹に嘘であることを暗示していると解釈できる。

 最後にまったく異なる発想からの歌をひとつあげよう。

 天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスに揺られとります  斉藤斎藤 (WWW)

 歌集『渡辺のわたし』で才気を見せた斉藤斎藤の歌である。「天然の冷蔵庫」とは、山の冷気や川べりの涼しい風を言うのがふつうである。窓を開け放した市バスに入る空気は、都市熱で暖められた空気であり、とても天然の冷蔵庫とは言えないのではないかという疑問が残りはするが、斉藤本人の父と自分との関係の複雑なねじれを歌集から読み取った者には、腑に落ちるところがあるかも知れない。冷蔵庫の題詠で冷蔵庫そのものを詠むのではなく、「天然の冷蔵庫だな」という科白を介した人間関係を詠んだところ、なかなかの才気と言えよう。

077:2004年11月 第2週 菊池 裕
または、都市的現実から分泌されるしかない〈私〉

睾丸に似たる蘭の実脆ければ
    スプーンで神を掬い難きか

     菊池裕『アンダーグラウンド』(ながらみ書房)
 菊池は1960年(昭和35年)生まれ。中部短歌会に所属し、『アンダーグラウンド』は2004年8月に刊行された第一歌集である。惜しまれて逝去した春日井建が跋文を寄せている。歌集に付き物の栞もなく、私は菊池個人についていかなる情報も持ち合わせていないので、こういう場合には歌集で展開された菊池の短歌世界にのみ焦点を当てて語るべきかと思う。

 「都市譚」「禁忌譚」「冥界譚」の三部構成から成る歌集のなかで中心を占めるのは、高層ビルの林立する現代の都市詠である。

 摩天楼内で整体師の指(おゆび)わたしの骨を鳴らし終えたり

 防犯用監視カメラの結露にもあなたが映り滴り落ちぬ

 チアノーゼ色の空から降ってくる着信音にとよむ地下街

 子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に

 朝なさなエントランスに佇つ妻よ霊安室のようにひんやり

 現代の都市詠というと、すぐに藤原龍一郎が頭に浮かぶが、菊池の歌は確かに藤原の歌と近縁種と見えるかもしれない。藤原はラジオ局ディレクターだが、菊池はTV番組制作にかかわっているらしいという職業の類似もこの連想を強める。

 湾岸のビルにはかなき霊棲みて屋上途上地上は冷雨  
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 二十四階よりくだる階段に夕潮騒と呼ぶべきかすか

 シルバーのケータイが夜の雨に濡れ拾得物ともならず壊れて

 しかし、菊池の歌と藤原の歌とは決定的に違っていることに注意すべきである。それは藤原の歌に頻出する固有名詞が菊池の歌にはほとんど見られないというような、表層的な差異ではもちろんない。作歌という行為を通じて実現される〈私〉の立ち上げ方がちがうのである。大きな枠組みで語れば、短歌が「私性の文学」であり、短歌においては何を語ろうとも歌の背後に隠然と存在する一人称的私に送り返されるということは確かに事実ではあるけれども、歌から〈私〉への回路は一様ではなく、また〈私〉の浮上の仕方もさまざまである。

 乱暴を承知で大雑把な言い方をすれば、藤原の都市詠は、鎮め難い情念を抱いて都市を彷徨う〈私〉の軋轢の叫びであり、浮遊する現代都市のなかで〈私〉の抱え込んだ情念の軋みが抒情の核である。

 「我、永久に渇きていたり」― 降りしきる強酸性の雨こそ慈悲ぞ
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 望郷の郷あらざれどわが詩歌の古典となせる『水の覇権』を

 いささかカッコ良すぎるが、藤原の短歌にはハードボイルド小説の定義である「現代の卑しい都市を行く騎士」という言葉を思わせるところがある。事実、藤原は次のような歌も作っているのであり、少なくとも主観的にはマーロウを希求しているのだ。

 ハードボイルド風日常を希求してついには慈悲に包まれた死を

 湾岸の駅に降り立ちマーロウのフィリップ・マーロウのような翳りを

 だから藤原の作品に現われる〈私〉は、無定形の現代都市に囲繞され、脳の快楽に至るまで都市の発する電波に浸食されながらも、抱え込んだ情念を抒情の核として都市と対峙する〈私〉である。

 ところが菊池の短歌から立ち上がる〈私〉は、これとはずいぶんちがった様相を呈している。菊池においては、〈私〉は都市のコンクリートから浸み出す何ものかとして、ガラスウォールの反射に一瞬煌めく何ものかとしてしか定義できない、不確かな存在なのだ。歌集表紙のデザインのちがいを、この〈私〉の位相の差の象徴と捉えることは、あながち牽強付会ではあるまい。藤原の『花束で殴る』の表紙写真は、夜の都会を川のように流れる車を写したもので、露光時間を長くしているため、車の照明は光の帯のように伸びているが、被写体を切り取る視点は固定していて揺るぎがない。都市は流れて行くが、私はひとつの地点に佇んでいるのである。一方、菊池の『アンダーグラウンド』の表紙も同じように夜の都会の写真である。人気のあまりない街角を撮影したもので、中央に女性が一人写っているが、輪郭が二重になってぼやけている。これは明らかに撮影した視点そのものが浮遊しているのである。このため同じ夜の都会の写真でありながら、菊池の表紙のほうがずっと不安定で浮遊感が強い。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく

 嘘っぽくなった私を検索す〈ブロードバンド・カフェ〉にこもりて

 私を模写する私みていしがついに描けぬ背景のわれ

 向こうからやってくるのは私の知らない私の潦(にわたずみ)

 「むらぎも」は内臓であると同時に「心」を導く枕詞であるから、一首目の〈私〉は内部性を喪失しているのである。二首目の〈私〉は内在的に感得されるべき存在実感が希薄化し、ためにインターネットの大海で自分を検索する。三首目ではモデルの〈私〉と描く〈私〉と背景の〈私〉というように、合わせ鏡に映ったように無限に増殖してゆく〈私〉が描かれている。四首目はもっと直接的であり、確固たる一人称として内部性を持つ〈私〉の不在そのものが主題である。

 山下雅人の『世紀末短歌読本』(邑書林)は、現代短歌を都市論の視点から読み解く試みで、短歌と都市の出会いが歴史的にも跡付けられている点が興味深い。山下によれば、戦後派歌人によって初めて都市が風景としてでなく、表現者の必然を担うものとして描かれたという。戦前の歌人にも都市を詠った例は確かにある。

 いそいそと広告灯も廻るなり春のみやこのあひびきの時  北原白秋

 しかしこれは都会を風物詩として短歌に取り込んだものであり、都会の風物は主観的な気分を表わすものとして描かれているという意味で、「述語的風景」だと山下は言う。これに対して戦後派歌人においては、都市空間そのものが詠うモチーフとして扱われており、そこで初めて都市は主体的に語られる「主語的風景」たりえたと山下は続けている。

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中  近藤芳美

 飾窓(ウインド)の紅き花らは気(いき)ごもり夜の歩道のゆきずりに見ゆ  佐藤佐太郎

 山下の言わんとするところはわかるが、戦後派歌人のこれらの歌においても、都市の風物は主観の投影であるという事情には、さほど変わりがないように感じられる。もちろん都市風景がより内面化され、単なる景色ではなく心象に転位しているというちがいは確かにある。都市を描くにあたって、戦前を第一世代、戦後派歌人を第二世代と仮に呼ぶならば、菊池などは途中をすっ飛ばして第五世代と呼んでもかまわないほど、都市と〈私〉の関係は変質している。「〈東京は人を殺す〉かあはあはと生きて寄りゆく春の欄干」と詠んだ川野里子などは、さしずめその中間の第三ないし第四世代だろう。1959年生まれの川野と1960年生まれの菊池とはほぼ同世代だが、都市体験の濃淡がこのような差を生むのだろう。

 山下はこの変質を次のように分析している。近代短歌においては生活実感が短歌表現の基盤であり、主体信仰がリアリズムを下支えしていた。しかし近代から戦後への変化の過程で、素朴な主体信仰は崩壊し、都市空間の方から〈私〉が分泌されてくるという逆説が生じた。この結果、現代においては生活実感は詠いにくいが、都市空間と自分の関わりを描くと、比較的リアルな感覚がつかめるというのである。これは聞く人によっては耳の痛い批評だろう。

 リアリズムを支えていた素朴な主体はおろか、戦後世代のもっと不安定な主体すらも、菊池の短歌には感じられない。山下が言うように、〈私〉は都市空間から滴る水のように分泌される何物かとして立ち現れて来る。だから菊池の短歌には、藤原の歌のような命令形がない。命令するべき主体が屹立せず、〈私〉は都市から分泌されるものとして受動的に把握されているからである。

 この変容の意味するところは小さくはない。例えばイスラム圏のように一神教が支配する地域では、日本人が自分は無宗教だと話すと驚かれると言う。神を信じることなくどうして〈私〉の統一性を維持することができるのか、一神教を信奉する人たちにはわからないのだ。〈私〉の統一性は人格神と対峙することによって、その存在を保証されるからである。日本においてこの神の役割を果たしてきたのは、多くの人の指摘するように自然と「世間」であろう。神道におけるご神体は、山や岩や滝などの自然物であることが多い。しかも、日本人は一神教において〈私〉が神と対峙するように、自然と対峙してきたわけではない。むしろ〈私〉を自然の一部と感じ、自己を自然に溶け込ませることによって〈私〉のありかを感じてきた。

 これは何を意味するかというと、〈私〉とは決してそれ自体として単独で定義されるような絶対概念ではなく、何かとの関係において定義される関係概念だということである。〈私〉は何物かとの関係を通してのみ〈私〉と呼べる。しかるに現代の私たちは都市的現実に囲繞されており、今まで〈私〉を成立させてきたもう一方の項である自然ははるか彼方に後退している。〈私〉がそれとの関係において定義される対立項を失った以上、〈私〉が希薄化し浮遊するのは無理からぬことである。菊池の短歌において〈私〉が都市空間から分泌される受動的な存在として描かれ、時には消失するように見えるのはそのためである。そしてまた菊池の歌にときどき神が登場するのも、同じ理由によると思えるのである。

 聖なればこそFUCKする人類に悲しみありしや否や神にも

 まったけく無風であれば風鈴は神の不在を鳴らしめ給え

076:2004年11月 第1週 里見佳保
または、自転車で道を行くリカ先生の初々しい短歌の世界

たましいの年はいまだおさなくて
     ふたり手をふる異国の船に

      里見佳保『リカ先生の夏』(角川書店)
 作者の名前は「サトミヨシホ」と読むらしいが、人にはよく「サトミカホ」と読まれるようだ。名字の「里」の字を「リ」、名前の「佳」の字を「カ」と読めば「リカ」になるから、リカ先生とは本人のことだろう。中学校で国語を教えている若い先生である。三枝昂之の指導を受けて「りとむ」に所属しており、1999年度角川短歌賞次席に選ばれている。三枝が跋文を寄せており、日頃は精緻な歌論を展開する鋭い論客の三枝も、愛弟子を世に送り出すやや甘い先生の顔をしているのが微笑ましい。

 短歌との出会いは人さまざまである。通っていた高校の教師に村木道彦がいたという田中槐のような羨ましい出会いもあれば、もっとひっそりした出会いもある。里見の場合は中学二年のときに友達が読んでいた『サラダ記念日』が短歌との出会いだという。生粋のサラダ世代である。三枝の跋文から推測すると、里見は1973年頃の生まれらしいから、『サラダ記念日』出版の年に14歳でちょうど計算が合う。これが正しければ、里見は玲はるな・佐藤真由美・佐藤りえたちと同年齢ということになる。しかし、里見の短歌はこれら若手歌人たちの作る短歌とは、少し肌合いがちがうのである。

 ラグビーのルールをわれに説く時は大統領のような口ぶり

 そう、あれは微熱もつほどの黄昏にはじめて聞いたアメリカの曲

 鉛筆の線消えかけた地図を手にあの海岸を再びなぞれ

 陽のあたる棚に残したテラヤマを閉じて始まるわが青春忌

 O・ヘンリー短編集を読み終えて立つ街角にパンの香りす

 コロッケを買う夕刻の横町にあなたの母の子守歌問う 

 ほぼ編年体だという歌集の始めの方から選んだ。一首目のような相聞にサラダの影響が濃厚に感じられる。注目されるのは一人称で、里見は「われ」を使っており、俵も「吾」だ。上に名前を挙げた玲はるな・佐藤真由美・佐藤りえたちは、一様に「わたし」を使っている。つまり、里見は短歌のコードを受け入れてその世界の約束事のなかで歌を作ろうとしているのに対して、玲たちは短歌のコードから離れた地点で言葉を詩にしようとしているのである。この差は大きい。だから里見の短歌を読むと、優等生の答案のように、よく書けてはいるが突出する個性に欠けるという印象を受ける。確かに佐藤真由美の「今すぐにキャラメルコーン買ってきてそうじゃなければ妻と別れて」のようなインパクト十分な歌と並べると、おとなしいという感じを受けることはやむを得ないだろう。掲載歌のような二句6音の字足らずすらあまりなく、前衛短歌の開発した強引な句跨り・句割れもなく、素直な定型であることもその印象を強めている。等身大の短歌と言うべきであり、これはこれでいいのだろう。

 『短歌研究』2004年11月号が、「現代短歌は変わったか 『サラダ記念日』以前・以後」という特集を組んでいるが、寄せられた文章の中では小池光のものがおもしろかった。小池は『サラダ記念日』の新しさは短歌に「ウラミ」が付着していないところであり、「ウラミ」をまったく内在しないところから発信された短歌を目の前に突きつけられて自分たちは動揺したのだと回顧している。確かに文学の根は様々な「ウラミ」である。先年物故したフランスの文芸評論家モーリス・ブランショは同じことを、「文学は manque (欠如) から生まれる」と表現した。青春の挫折・失恋・病気や死・貧困・戦争など、確かに人生は「ウラミ」の山であり涙の谷である。このような「ウラミ」を心中に抱えた〈私〉は、当然ながら世界と衝突する。その衝突と軋轢の軋みが文学となって発露する。近代文学はおおむねこのような構造になっていた。「ウラミ」を抱えた人は、その源を過去へと遡ろうとする。どうして自分と世界はこのようになってしまったのだろうと自問するからである。ここから生まれるのが自己の歴史性への意識で、近代文学とは歴史性の先端にいる〈私〉の文学であり、それは田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に至るまでいささかも変わっていない。しかるにサラダ以後の短歌は、「ウラミ」とその相関物であるところの歴史性を消去した。これが小池の文章のだいたいの趣旨に、私自身の言葉を少し付け加えたものである。ちなみに歴史性の消去とともに近代文学は終焉を迎えたのであり、これは柄谷行人の指摘によるところでもある。

 小池の主張にはおおむね賛成だが、若い歌人たちにまったく「ウラミ」がないかというと、そうとも言えないのではないか。若い歌人の歌には漠然とした「出口なし感覚」と「終末感」が感じられることが多い。

 盛塩が地震(ない)に崩れる。神々ももはや時間を使い果たした  生沼義朗

 轢死した猫の形態(かたち)に朧なるさまにわたしの死もおぼろなる  菊池裕

 バナナブレッドつついて語る虹の脚と世界の破滅の関係を  佐藤りえ

 グラスから矢車草は抜き取られわたしがしずかに毀れはじめる  ひぐらしひなつ

 髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた  嵯峨直樹

 最後の嵯峨は2004年度の短歌研究新人賞受賞者である。「生まれたらもう傷ついていた」と感じる〈私〉が見上げる空は「ペイルグレーの空」なのだ。ただしこの「出口なし感覚」と「終末感」は、〈私〉を世界と対峙させるほどに激しいものではなく、またその原因をこれと特定できるものでもなく、ややもすればそのままに自閉してしまうところが近代短歌の正体のはっきりした「ウラミ」と異なる点だろう。

 里見の短歌に話を戻すと、里見もまたサラダ以後世代の例に漏れず、歌に「ウラミ」がまったく付着していない。群馬県榛名町という田園地帯に生まれ育ち、東京の大学の国文科を出て故郷に戻り中学教師をしている里見は、バブル経済崩壊の精神的影響をまともにくらった都市生活者とは異なる青春を送ったようである。しかし里見もまた自分の短歌世界を浮上させる契機を発見する必要に迫られる。この点で注目されるのは、集中の「鈴廻(りんね)抄」連作だろう。

 鳥おらぬ鳥籠のなか月射して明治の頃のままの静寂

 時計屋の主が姫と呼んでいた人形時計買われゆく午後

 雪降るや一軒宿の柱には指名手配の老い知らぬ顔

 時が経つほどに花びら散らしゆく祖母のしめたる葉桜の帯

 大陸へ渡った祖父が鍵かけたままに残した革のトランク

 主題性の際立った連作であり、テーマは言うまでもなく時間の遡行である。それまでの日常に材を採った短歌から一歩踏み出して、一定量の虚構という劇物を混入してテーマを際立たせる手法を試みている。ここには寺山が華麗に駆使した〈虚構の私〉、前衛短歌の反・私性という主張が目指した〈私〉の方法論的拡大を継承しようとする姿勢がある。明治の静寂を若い里見が知るよしもないが、明治の静寂をかくもあらんと想像するところに、世界を対象として浮上させる梃子がある。時間というテーマを強く打ち出すことで、里見の短歌はそれまでのものとは異なる風貌を獲得している。またそれまであまり見られなかった句跨りを使っていることも注目される。

 里見はオノマトペにもひと工夫しているようだ。

 ちんちくと瓶に沈める青梅にむかし失くした鈴の音を聞く

 てぷてぷとシチュー煮えおりこんな夜はグリム童話のおおかみが来る

 ざいざいと鳴る杉林そのなかを縫い目のように水の音する

 美白液ぱぱぱやぱやと頬にあてふと思い出すみずいろの日々

 最後の「ぱぱぱやぱや」など出色であり、私は往年のザ・ピーナッツの唄などを思い出してしまった。

 最も印象に残った歌は次の三首である。

 病める子の枕のくぼみそのままに廃院となる重田小児科

 深々と春 額に音叉あてて識るわが内耳にも鈴一つあり

 この夜のねむり始めは黒傘を閉じゆくように閉じ、ゆくよう、に

 一首目は「枕のくぼみそのままに」という描写が生々しく、また「重田小児科」という固有名の使用が効果的で、物語性を強く感じさせる一首となっている。二首目は初句「深々と春」が7音という大胆な破調だが、一字空けが効果的に使われていて美しい歌である。確かに音叉を頭骨に当てると頭蓋で共鳴する音が聞こえるのであり、これは作り事ではない。もし「音叉の歌」という特集を組むことがあったら、ぜひ採り上げたい歌である。三首目は入眠時の様子を黒傘が閉じてゆくという比喩で詠ったものだが、結句のリフレイン「閉じ、ゆくよう、に」の切れ切れになった書き方が意識の遠のく様子を表わしていて、修辞に工夫がある。

 師の三枝の暖かい跋文をもらって第一歌集を上梓した里見が、「鈴廻抄」で試みたような主題性を今後どのように深めて自分の短歌世界を立ち上げてゆくのか、興味のあるところである。

文体はどのような〈私〉を押し上げるか──新鋭歌集の現在

 今回本号の特集で取り上げられている歌集を眺め渡すと、平成一六年現在における現代短歌の多様性をギュッと凝縮した感がある。私に与えられた役目は個々の歌集を取り上げて論じることではなく、全体の概観を示すという作業である。短歌の単なる一読者に過ぎない私にはいささか荷が重い役目なのだが,そのためには全体を貫くキーワードが必要だろう。ここでは「文体」をキーワードに選んでみたい。まず永田和宏が一九七九年に書いた『表現の吃水』のなかで提案した定義を見てみよう。

「(短歌における)文体とは、作品中に現われてくる〈私〉が、発話主体と、決して散文的・日常的な水準で重なるものではないということを保証する方程式である。あるいはそれは、日常的行為者としての〈私〉を、詩の構成要因たる〈私〉へと押し上げるための梃子である」

 日常から詩へと〈私〉を押し上げる梃子としての文体は、文体によって押し上げられる〈私〉という概念と不即不離の関係にある。日常から詩の虚空へ押し上げられた〈私〉は、短歌において日常と対立する項として機能する。同時に文体もまた、日常の言葉とは対立するものでなくてはならない。この〈対立項〉としての文体が、かつては定型であり韻律であり文語であった。このような文体の定義は、四半世紀を経た今日でもまだ有効なのだろうか。

 本誌第三号の枡野浩一と穂村弘の対談「ぼくたちのいる場所」で、枡野が強調しているのは既存の短歌のわかりにくさである。枡野は「既存の短歌のほとんどは一般の場所に来たら通じない」と断じ、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌をつくりたい」と発言している。これは短歌の文体を日常の地平に流し込んでやるということであり、ある意味で永田の掲げる〈対立〉のフラット化をめざしているのである。

 一方藤原龍一郎は『短歌の引力』で、短歌にしばしば見られる「わかりにくさ」は、言葉の意味が平板でないことに起因し、そのままの意味をたどろうとすると非日常の壁にはね返されるからだとし、「作者の真意にできるかぎり近づこうとするためには言葉の屈折率を丁寧にたどって、その詩歌としての韻律や結像力や自意識の座標を感受し、それを想像力でみずから内部に構築する」ことが必要だと述べている。的確な分析だと思うが、キャッチーな短歌を目指している枡野なら「そんな態度には愛がない」と言うだろう。

 今回の特集で取り上げられた歌人たちは、永田の〈対立〉という軸と、枡野の〈フラット化〉という軸のあいだで、さまざまに揺れ動いているように見える。

 〈対立〉の文体を最も感じさせるのは、六七年生まれの高島裕だろう。文語定型旧仮名という表現面での完全武装もさることながら、アナキスト蜂起による首都赤変を幻視するという思想レベルでの非日常性が際立っている。

 光体に目を灼かれたる夏なれどゆふぐれ重き前線を越ゆ 『旧制度』

 撃ち堕とすべきもろもろを見据ゑつつ今朝くれなゐの橋をわたらな

 錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』、目黒哲朗『CANNABIS』、横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』なども、永田的意味での〈対立〉の文体を自らの短歌の基軸としている。これらの歌から文体を通して浮上する〈私〉は、朝起きて歯を磨く日常的行為者の私ではなく、短歌のなかで再構築された詩的主体としての非日常の〈私〉である。

 弥生町四丁目裏 純白の魚のひとたび跳ねるを見たり 錦見映理子

 薔薇の花散る無秩序が美しい町ゆゑわれの消息を問ふな 目黒哲朗 

 冬の水押す櫂おもし目を上げて離るべき岸われにあるなり 横山未来子

 しかしこのような文体を採る歌人は、八十年代の終わりから九十年代の初めくらいに短歌を作り始めた人までのようだ。年代的に言えば、横山未来子は七二年生まれで、玲はる名・佐藤真由美・佐藤りえは七三年生まれだから一歳しかちがわないが、この辺に目に見えないフォッサマグナがあるらしい。文体は急激にフラットな地平に移行している。

 3月に生まれたけれどなにひとつ欠けていないの 拍手しないで
               玲はる名『たった今覚えたものを』

 泣いたぶんキレイになれる星生まれまだ泣き方が足りないらしい
               佐藤真由美『きっと恋のせい』

 食べ終えたお皿持ち去られた後の泣きそうに広いテーブルを見て
               佐藤りえ『フラジャイル』

 この差はどこから来るのだろうか。それはたぶん「言葉にリアルを感じる」感受性が変容しつつあるのだ。文語定型という非日常的文体は、約束事による虚構の文体である。そのような非日常的文体に日常的思いを載せるには、想像力の河を遡上し、比喩という橋を渡らなくてはならない。その遡行の長い距離がもうすでに「リアルでないもの」と感じられてしまうのだろう。またこのような対立的文体によって押し上げられた非日常的〈私〉もまた、これらの歌人には「リアルでないもの」と感じられるのである。

 確かに、口語にしか載らないような思いというものもある。加藤治郎は、「四年前、原っぱだったねとうなずきあう 僕らに特に思いはなくて」という早坂類の歌を引いて、淡い空虚な感じやちょっとさみしい感じのような都市生活者の気分は、文語ガチガチの定型では引き出せないと指摘している(『現代短歌の全景』)。

 しかし、永田的意味での〈対立〉の文体と〈フラットな〉文体は、決して文語と口語の差に還元されるわけではない。口語を用いながらも〈対立〉の文体を実現することはできる。例えば次のような歌人たちはそれを十分に実現していると、私には思えるのだ。

 骨と骨つないでたどるゆるやかにともにこわれてゆく約束を 
             ひぐらしひなつ『きりんのうた。』

 膝がしら並べていたねゆるしあう術もないまま蝶をとばせて

 夕暮れの車道に空から落ちてきてその鳥の名をだれもいえない
                盛田志保子『木曜日』

 人生にあなたが見えず中心に向かって冷えてゆく御影石 

 これらの歌は口語だが、注意深く選ばれた言葉の連奏のかなたから浮上する〈私〉は、日常的行為者としての〈私〉ではなく、文体を梃子として非日常的な詩の水準へと引き上げられた〈私〉である。加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』の、「そんなわけないけどあたし自分だけはずっと16だと思ってた」のような歌と比べれば、その〈私〉の押し上げられた水準の差は明らかだろう。

 一九七三年生まれの人が成人を迎えたのは九三年だから、思春期をバブル経済のただ中で過ごし、バブル崩壊とともに成人したことになる。この世代の歌人に特徴的なのは、短歌のあちこちに漂う「漠然とした終末感」「出口なし感覚」である。

 ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている 
                佐藤りえ『フラジャイル』

 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ 
                生沼義朗『水は襤褸に』

 ソ連邦解体くらいまではかろうじて命脈を保っていた〈大きな物語〉は、九十年代には完全に失効した。私たちの手に残されているのはもはや〈小さな日常〉でしかない。しかし、〈小さな日常〉は際限なく断片化するため、共有することの難しい資源である。今の若い歌人たちが〈対立の文体〉でなく、〈フラット化された文体〉を志向し、〈日常的私〉に「リアルなもの」を探そうとしているのは,ここに理由があるのではなかろうか。

 そんななかで異色と言えるのは、黒瀬珂瀾と石川美南の二人である。

 わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を 
                 黒瀬珂瀾『黒燿宮』

 茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして 
                 石川美南『砂の降る教室』

 黒瀬の繰り広げるペダンティックな耽美的世界では、〈私〉は日常的地平に矮小化されるどころか時に誇大にすら増幅され、黒瀬の周到な戦略を感じさせる。また石川の短歌を貫く「世界を異化する視線」は、〈大きな物語〉が失効した現代にあって、世界に対して非日常的〈私〉を立ち上げるひとつの方法論を示しているようで、注目されるのである。



『短歌ヴァーサス』5号(風媒社)2004年10月8日発行

075:2004年10月 第4週 小笠原和幸
または、「生の目標は死である」と思い定めた歌の数々

一切は烏有に帰する悦びへ
     火は立ち上がる逝く秋の野に

        小笠原和幸『テネシーワルツ』
 邑書林刊行の「セレクション歌人」叢書で、初めて小笠原和幸の名を知り、その短歌を読む機会を得た。第一歌集『馬の骨』、第二歌集『テネシーワルツ』抄、第三歌集『春秋雑記』完本が収録されている。「セレクション歌人」叢書は、藤原龍一郎と谷岡亜紀がプロデュースしているので、叢書の志向する傾向が明確だが、叢書収録の歌人の一人として小笠原を選ぶという選択は、なるほどと得心させるものがある。

 「セレクション歌人」叢書のひとつの特徴は、歌人自らの手になる略歴が巻末に付されているという点である。短歌には経歴からしか明らかにならないようなものもあるため、これが意外におもしろい。殊に小笠原は今まで上梓してきた歌集では、その経歴を明かさなかったようなのでなおさらである。「不確カナ記憶」30首で1984年に短歌研究新人賞を受賞しているが、その後は賞に応募するも連戦連敗だったようだ。1990年に第一歌集『馬の骨』を上梓するが、反響はまったくなく、未だにダンボール箱に初版300部の残部が残っているというのが意外である。というのも、小笠原の短歌は一読すれば強い印象を受け、忘れることのできないざらつきを心に残すからである。

 1956年生まれの小笠原の短歌に大きな影を落しているのは、東北岩手に生を受けたという「風土性」、4歳の時に生まれた妹がその年に事故死し、10歳のときに母親が病死するという、家庭内に充満する「死」、そして父の再婚により家庭に継母が住むようになるという「家族性」である。ここから容易に想像できるように、小笠原の短歌には濃密な「物語性」がこめられている。「東北の風土性」と「物語性」とが神社の狛犬のように左右に並ぶと、いやでも寺山修司の名が頭に浮かぶが、事実小笠原は高校生のときに寺山の『書を捨てよ、街へ出よう』に出会って、すっかりヤラレテしまう。めでたく寺山病の患者となり、東北を出奔してほぼ10年近く各地を転々とする。短歌を読むときにまず作者の経歴から入るというのはもちろん邪道なのだが、小笠原のように自らの歌の中に濃密な物語性を塗り込める歌人の場合には、住宅顕信のようなケースとはまたちがった意味で、いやでも経歴もまた短歌の一部となってしまうことを避けるのがむずかしい。歌の屹立を求める作者はこれを嫌うだろうが、少なくとも読者の側から見ればそう言える。

 亡母と継母ふたつ血筋は骨肉の果てを草葉の陰のどの位置

 三界ニ頸枷四人アリナガラ心ハ別ノ場所ニ置ク術

 僻村の秋晴れを行く霊柩車死にたき者の死にたる噂

 これの世に畜生として馬の目のすずしや馬の骨となるまで

 穢土浄土秋の畑に火を焚けば炎(ほむら)へだてて真向かふ父子(おやこ)

第一歌集『馬の骨』から引用した。ちなみに「亡母」も「継母」も「ハハ」と読ませる。音は同じだが漢字は違う。同じに見えて非なる母である。難解な所はないので一首ごとの解説は不要だろうが、家のなかに亡母と継母と父と私が暮すという環境での、作者の心の置きどころが読みとれる。端的に言えば家庭という「修羅」である。この感情は後に、「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立つてゐる」という、より短歌的に練れた秀歌となって結実するのだが、『馬の骨』では未だストレートに表現されているというべきか。語法上の特徴としては、「草葉」とか「三界」とか「穢土浄土」、また他の歌では「現当二世」などという仏教用語がよく使われている。こういう用語はいわゆる「手垢のついた言葉」なので、下手に使うと寺の門前に張られている今週の標語のようになるのだが、小笠原はそのことを熟知しつつも歌のなかでよく生かしている。四首目に見られるのは、人間のように修羅を生きる運命から自由な動物の生死の簡潔さへの憧憬である。このような眼差しは、東北の寒村に生まれて農業を営む父を持つという出自なくしては得ることがむずかしい。都市化の一途をたどっている現代短歌の現状で、このような眼差しは奇貨とすべきだろう。

 第一歌集『馬の骨』ですでに明滅しており、第二歌集『テネシーワルツ』で炸裂するのは、「人の生とはすべからく死へと至る道にすぎない」と断ずる人生観である。

 鈍牛が乾草を食む鈍重に生を咀嚼し死を消化する

 方形の卓に三人(みたり)が坐するまま我ら泉下の者となるべし

 よく冷えた西瓜四半分皿に置くいづれ一人の生き死にである

 生キ死ニニ意味無シソレハソレデイイノダガ蒼穹ヘ号砲ガ鳴ル

 この人生観はヨーロッパの文学・絵画でよく見られる Memento Mori「死を思え」というテーマと一見似ているようだが、実はだいぶちがう。「生とは徒労であり、人は生まれて飯を食い、子を成して死ぬだけである」という即物的無常観は、やはり仏教の国に生を受けた者ならではのものだろう。その文学的類縁種を探せば、おそらく深沢七郎の名があがるにちがいない。『楢山節考』「月のアペニン山脈」『笛吹川』などで深沢が執拗に表現したのも、このような即物的な東洋的無常観であった。深沢もまた、故郷山梨の土俗性を自分の文学の糧としていた点も、岩手出身の小笠原と共通するかもしれない。

 第二歌集『テネシーワルツ』ではかなり激烈に表現されているこの人生観は、第三歌集『春秋雑記』になるともう少し穏やかな諦観の風情を漂わせ始める。

 あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく

 知己の死を話柄としつつ老父母の朝餉そのままとどこほりなし

 食卓に卵(らん)ひとつあり一日のそしてすべての始まりとして

 しらほのねとひとかたまりとなりしかばすなはち立つる物質の音

 蹶然と土筆出てくる生まれてくるこの世のことは承知の上だ

 木に残る桃が順次に落下してしづかに腐る真昼の家郷

 「生には意味がない」と感じつつもそのことに煩悶していた年代を過ぎ、作者は意味のない生をとにかくお迎えが来るまでは生きるという思いに着地したかのようである。

 『新潮』2004年6月号で、車谷長吉が小笠原の歌評を寄稿している。車谷長吉といえば『赤目四十八瀧心中未遂』などの著者で、最後の私小説作家といわれている人である。車谷はこの文章のなかで、せめて文士や歌人は「生の目的は死であると覚悟したところで、文学に対処してほしい」と信条を披瀝して、小笠原はその覚悟がある近年珍しい人だと誉めている。続けて「生の目的は死である」と思い定めて生きるのはさぞかし辛かろうが、そういう人は「物のあわれ」を知る人だと断じ、それが真の歌人の運命であると結んでいる。車谷と言えば「文学の鬼」である。「文学の鬼」とは、全生活を文学に捧げ尽くし、そのためには女房を苦界に沈めることも厭わない人をいう。ちなみに車谷の奥さんは詩人高橋順子で、別に苦界に身を沈めているわけではないが。その車谷が認めたのだから、小笠原もまた「文学の鬼」なのである。短歌の世界で文学の鬼というと、穂村弘のような短歌が認められるようならば、自分は東京は青山墓地の茂吉先生の墓前で割腹すると言った石田比呂志や、「無名鬼」を主宰し自刃して果てた村上一郎などが頭に浮かぶ。私は好きで短歌を読んでいるだけなので、こういう人たちが怖くてならない。いきなり面と向かって、「お前には短歌に命を捧げる覚悟があるのか !」などと詰問されたら、「いえ、ありません、すみません」とひたすら謝って赦しを乞うしかない。

 小笠原の短歌にも似たような雰囲気が漂っているので、作者のこういう文学に対する姿勢が肌に合わない人は、何首も読むと心にアトピー反応を起こすかもしれない。心を大根おろしにかけられているような気がすることもある。そういう人は第三歌集『春秋雑記』になると多く見られる次のような、静かに覚悟を詠う歌を読むのがよろしい。

 しづまれる皿四枚が打ち合ひて音をたてたり小さき地震(なゐ)に

 この世のこと隈なく余すところなく暴いて夏の朝日が昇る

 みづからを嚆矢となして明けなづむ沍寒の空へ一羽飛び立つ

 躓いたお前をこえてゆくものは秋の終りの風のみならず

 「セレクション歌人」叢書『小笠原和幸集』に収録された歌論を見ると、歯に衣着せぬ物言いの人のようだ。特定の短歌の師もなく結社にも所属しない小笠原は、まさに孤高の人の名がふさわしい。おもしろい歌人であり、短歌界はその成果を正当に評価すべきだろう。