087:2005年1月 第3週 照屋眞理子
または、私は夢見ている私が見る夢か

覚めてまたわが目とならむ双眼を
     しづかに濡らし今朝秋の水

         照屋眞理子『抽象の薔薇』
 不思議な歌である。「このふたつの眼は目覚めたときにまた私の目となる」という。この不思議さは、当然次のような疑問を生み出す。では私が眠っているあいだ、この目は誰の目だったのか。それは私ではない誰かの目であり、夢を見ていた他者の目である。うつつの世を生きる私にとって、夜な夜な訪れる夢は他界であり、他界からうつし世に帰還したとき、この目はふたたび私の目となり、現実を見る目となるのである。この一首は、存在への理知的眼差しという照屋の短歌世界の特質をよく象徴している。

 照屋眞理子は1951年(昭和26年)生まれで、歌誌「玲瓏」所属。第一歌集『夢の岸』に続き、『抽象の薔薇』は2004年に上梓された第二歌集である。俳句もよくし『月の書架』という句集があるそうだ。塚本邦雄麾下に犇めく才人の一人だから措辞の巧みさは当然として、栞に文章を寄せた尾崎まゆみはもっと驚くエピソードを伝えている。照屋が初めて作り「サンデー毎日」の短歌欄に投稿したのが「二人には二人の孤独休息の戦士に揺るる夜の濃紫陽花」という歌で、二度目に投稿した「檻のうちを豹は歩めりひたすらに見らるるための暗き意志もて」が「塚本邦雄賞」を射止めたというのである。照屋に習作の時期はなく、最初から歌人照屋眞理子として出現したことになる。塚本はその才能を愛でて、「照る月に屋根もしろがね眞珠(まだま)なす理外の花を子らは夢みつ」という照屋の名前を折り込んだ折り句を作って贈ったという。

 こういうことはあるものだ。私は以前にFMラジオで、歌手・鬼束ちひろがまだ宮崎で高校生の頃、自宅のラジカセで作り放送局に送りつけたデモテープを聴いたことがある。そのテープから流れて来たのは、まぎれもなく鬼束ちひろの歌の世界だった。鬼束は徐々に自分の世界を獲得したのではなく、最初から100%鬼束ちひろだったのだ。才能とはこういうものである。

 『抽象の薔薇』を通読して、私は韻文を読む楽しみを満喫した。私が満喫したのは「歌のしらべ」である。「短歌とは究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(岡井隆『朝狩』序)のは事実だが、その事実を確かめることのできないものも現代短歌のなかにはある。しかし照屋の短歌は、読む者の心のなかに韻文のリズムを作り出す。そのリズムに乗せて、無のかなたから意味が運ばれて来る。それが心地よい。何首か引用してみよう。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

 五首目の「空虚(むなしぞら)」など、「わが恋は空(むな)しき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(古今集恋一)を連想させる。

 照屋の短歌を読んであらためて思い知らされるのは、「短歌とは五七五七七の三十一文字ではない」ということである。もっと正確に言うと、「五七五七七の三十一文字」は短歌という韻文形式の必要条件ではあっても十分条件ではない。律の韻文がやむなく形を取ったのが「五七五七七の三十一文字」なのであって、「五七五七七の三十一文字」が初期条件として存在していたわけではない。この形式が日本語の音数律からしていかに不自然な形式であるかは、岡井隆が『現代短歌入門』で縷々と述べているのでよく知られたことだろう。

 短歌としての必要条件しか満たしていない歌と、十分条件まで満たした歌は、並べてみればそのちがいがすぐにわかる。照屋はもちろん後者であり、前者の見本としては例えば次のような歌がある。

 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一

 ローソンに足りないものをだれひとり思い出せない閉店時間

 奥村晃作は「マスノ短歌はなぜ厳密に三十一音で、字余りが起こらないのか」という興味深い疑問を投げかけた(『短歌ヴァーサス』1号)。奥村はこの問いに答えていないが、その答はかんたんで、もし字余りを起こすと、マスノ短歌はもはや「短歌」として読むことができなくなるからである。短歌の中に固有の韻律が感じられるときには、字余りや字足らずの破調は短歌形式にとって障害にはならない。五七五七七を墨守していなくても、韻律が全体をまとめ引き締める役割を果たすので、歌はばらばらに解体することを免れるからである。このとき歌は五七五七七という「外在的制約」によってまとまるのではなく、韻律という「内在的要因」によって凝集する。マスノ短歌にはこの内在的韻律がない。だから五七五七七が絶対に譲ることのできない最後の一線になる。マジノ線のようにここを突破されたら総崩れになるのである。「五七五七七の三十一文字」とは、指を折りながら音数を数える「数合わせ」のパズルではない。古今の名歌に字余り字足らずが多いこともよく知られたことである。

 ここに枡野の短歌を引いたことは本人の不名誉にはならないだろう。枡野は意図的に短歌固有の韻律を消し去って、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌を作りたい」と考えているからである。それはスーパーフラットなキャッチコピーのような短歌である。そのような短歌にとって短歌固有の韻律は、歌の内部に入り込むことを過度にうながすので、すみやかな意味の伝達を阻害し邪魔になるのだろう。

 さて、照屋の短歌に話を戻すと、際立った特徴がふたつある。「存在にたいする理知的懐疑」と、その結果として生まれる「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」である。前者を示しているのは例えば次のような歌である。

 皮膚一枚のうちそと淡く暮れゆくをいづれ空とふいづれを虚とふ

 ここにゐる! ここにゐるとき本当にわたしはかしこにゐないのだらうか

 手、足、首、骨、血潮、いつたいいくつの言葉で出来てゐるか「わたし」は

 けふはもう私は私を早仕舞してさてここに居るのは誰

 〈私〉の内と外は皮膚一枚で区切られているが、その外部と内部のどちらが虚でありどちらが実であるか、これが一首目の問いかけである。仮に私の感じる生々しい実感こそ真と観ずれば、外的世界は流転する現象世界にすぎない。しかし私の実感を外的世界の刺激が投射されたものと見れば、〈私〉は様々な刺激が流れ込む空虚な「場」にすぎなくなる。二首目は現実世界に暮らす〈私〉とは別に、もうひとりの〈私〉がいるかもしれないという。三首目は、〈私〉は実は「言葉」で出来ているのであり、もし言葉を失ったら〈私〉は〈私〉であり続けられるのだろうかという疑問だろう。

 これは言うところの「存在の不安」だろうか。いやそうではあるまい。照屋の短歌においては、〈私〉の実体性や唯一性や一貫性にたいする懐疑が繰り返し提示されているが、そのような疑いを抱く〈私〉は確固として存在しているからである。「疑う〈私〉」の存在は疑えぬとは、まさしくデカルトである。この一点において照屋の存在懐疑は、例えば次のような歌に見られる現代社会における人間存在の希薄感とは一線を画している。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく  菊池裕

 定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると  中澤系

 存在にたいする懐疑は「入れ子構造の世界観」を生み出す。例えば次のような歌である。

 夢に鳥となりて夢見る人間(ひと)たりしむかしの夢のうすきまなぶた

 名付くれば消ゆるばかりをなべてなべて在りて在らざる夢の内外(うちそと)

 薄目して夢が私を見つつあらししばしを水に魚となりゐつ

 わが泪もて君をのごはむ水底の魚の睡りに降る雨のごと

 照屋の第一歌集の題名が『夢の岸』であったことからもわかるように、集中に「夢」がよく出て来る。またこれが「私が眠って夢を見ている」というような単純な構造ではない。一首目、「夢のなかで鳥になる」のはよくあることである。しかしこの一首は「夢のなかで鳥になった人間が、その世界でまた夢を見ている」とも読める。また三首目では「私が夢を見る」ではなく、「夢が私を見る」と主客転倒が起きている。四首目で水底で眠る魚はどうやら夢を見ているのだが、その夢のなかでは雨が降っている。魚の外側には水があり、魚の見る夢のなかにも水があるという構造である。私はこの歌を読んで良寛の作と伝えられている次の歌を思い出した。この歌は仏教の宇宙観を表わしているそうだ。

 あわ雪の中に顕ちたる三千大世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

 照屋の歌が単に現実を生きる〈私〉を詠うのではなく、〈私〉が〈私〉であることの懐疑を弾機として入れ子構造の複雑な世界を立ち上げていることが、照屋の歌に奥行きと広がりを与えている。読者は照屋の歌を読むときに、迷路を辿ってちがう世界にふっと出たような、あるいはジェットコースターに乗せられて上下の感覚をなくしたような、酩酊と昂奮を味わうのである。

 まだ言い残したことは多い。歌に詠み込まれた「原口統三」「藤田敏八」「若松孝二」「プロコル・ハルム」などの固有名詞は、時代を共有した者としては懐かしい。また「摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声」は、平成8年に49歳の若さで他界した俳人摂津幸彦への挽歌だろう。摂津は次のような秀句を残している。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ
 少年の窓やはらかき枇杷の花

 つい先日も同じく俳人の田中裕明が45歳の若さで鬼籍に入ったのも惜しまれる。俳句をたしなむと長生きするのではなかったろうか。これに限らず『抽象の薔薇』には死者を思う歌が多い。

 死者に死者のつれづれあらむときをりを帽子目深に白日を来る

 八月は死者の見る夢こぼれては陽の揚羽月のおほみずあを

 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと

 死んでしまつたあなたと忘れてゐた私と風化したのはどちらか 桟橋に腰掛けて

 最後は珍しく大幅な破調の歌だが、死者は記憶のなかで永遠に風化せず、むしろ風化してゆくのは生きている私たちの方だという認識は苦い。しかし死者を詠うときも、照屋は過度の湿っぽさや暗さに流れることがない。句集『月の書架』所収の「いつかカランと骨になる日よ風の秋」という句が示しているように、どこか乾いた思い切りのよさがある。

 最後に言わずもがなのことを一言述べてみたい。見て来たように照屋の歌はいずれもしらべの美しい歌なのだが、例えば加藤治郎の次のような歌を見てどう思うだろうか。

 いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎 『マイ・ロマンサー』

 「定型の波打ち際」に身を浸して、常に短歌形式の拡大を目指してきた加藤が欲する汚い歌というのは、文字通り汚いという意味ではなく、古典和歌から近代短歌の革新を経由しても大きく変わることのなかった短歌的韻律と短歌的抒情からはみ出そうとする歌というほどの意味であろう。定型という形式との格闘は歌人の宿命である。照屋が完成させた自分の韻律豊かな定型短歌を、今後どのように展開してゆくのか、興味のあるところである。

086:2005年1月 第2週 成瀬 有
または、岬の思想

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなし
        サンチョ・パンサは降る花見上ぐ

           成瀬有『遊べ、櫻の園へ』

 成瀬有の代表歌となると、どうしてもこの一首を挙げることになる。『短歌WAVE』2003年夏号の特集でも、成瀬はこの歌を代表歌三首のひとつに選んでいる。自分でも気に入っているものと思われる。成瀬が選んだ残りは次の二首である。

 水界の峠は越えよ舞ふ白きひとひらの身のかなしくば、鳥

 思ひみる人のはるけさおもかげはしづけき秋のひかりをまとふ

 上の歌には成瀬の短歌世界を構成するキーワードのひとつ「峠」が含まれており、掲出歌のどこか物憂げな調子から一転して、強い呼びかけを含むトーンの高い歌である。

 さて掲出歌だが、初句六音で三句も六音の増音なのに破調感は余りない。この歌についてよく指摘されるのは、上三句と下二句の切れにおける視点の入れ替わりだろう。上三句ではサンチョ・パンサは思う対象であり、主体はあくまで表現されていない〈私〉である。ところが下二句の主体はいつのまにかサンチョ・パンサにスイッチされている。上三句では〈私〉が「何かかなし」と感じているが、下三句ではあたかも〈私〉がサンチョ・パンサに成り代ったかのように、漠然とした悲しみを抱きながら櫻の花を見ているのである。

 成瀬は1942年(昭和17年)生まれ。國學院大學で岡野弘彦の知遇を得て作歌を初めている。第一歌集『遊べ、櫻の園へ』は 1976年に、角川書店の「新鋭歌人叢書」のうちの一巻として上梓された。ちなみにこの「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』、下村光男『少年伝』である。篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したことはよく知られている。この表現は、現実や時代と格闘し対峙することなく、自己の内面に沈潜する内向的傾向をさしたものであり、篠は当時30代の若手男性歌人たちの現実への関わりの淡さ、社会性・歴史性の後退、孤独感の深まりに対して警鐘を鳴らしたのである。これに替わって篠が称揚したのは、72年に『森のやうに獣のやうに』でデビューした河野裕子に見られた「体性感覚」である。この「体性感覚」はやがて、80年代に活躍する女性歌人によって歌のなかに肉化されることになる。このあたりから短歌シーンは大きく舵を切り、女性歌人の活躍が目立つようになるのである。

 『遊べ、櫻の園へ』から何首か引用してみよう。

 夜(よ)の雨の気配なぎ来つ樹々ふかくひそみて鳥も息づくらむか

 日の夕べ珈琲の香のたちくるをかみしみにつつ街に入り来(く)も

 このたゆき心は遺(や)らむ歩道橋に眼つぶりて聞く衢(ちまた)のとよみを

 つぶやくは夜(よ)の鳥かわれか生くるなればこの遺(や)りがたきむなしさは来つ

 玻璃窓に雨滴いくすぢもかがよひて鋭(と)く垂るる夜(よ)をひとりわが醒む

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し昏れたり

 集中には「夜」「雨」「窓」「靄」「懈(たゆ)し」「佇む」「見てゐる」といった単語が頻出する。使用された単語の偏りはそのまま、作者成瀬の心の傾きである。これを繋げると〈私〉は、「雨の夜に言いようのない倦怠感を心に抱いて佇み、暗い窓の外に流れる靄を見ている」となるが、これはそのまま成瀬の作品世界の正確な描写になっている。何ゆえのここまで深い倦怠感なのだろうか。もちろん作者の持って生まれた性向もあるだろうが、作品が作られた時代の空気もまたそこに反映しているにちがいない。『遊べ、櫻の園へ』の後記には、「ここ二年間ほどの作品を中心にして、制作時に関係なく新たに構成した」とあるから、1973年頃から二年間の歌作ということになる。この時期、60年代後半に昂揚した学生運動はすでに終息し、72年には連合赤軍浅間山荘事件が起こり世間を震撼させる。73年に第一次石油ショックが起こり、74年には戦後初めて経済成長がマイナスになる。つまり社会主義革命の理想は同志リンチ事件という結末を迎え、信じられる大きな物語は終焉する。それと同時に日本経済が高度成長から不況に転じた時期に当たる。成瀬の歌に漂う深い倦怠感と無力感は、このような時代の空気を背景としていると考えられる。

 『遊べ、櫻の園へ』には、詩人の吉増剛造が解説を寄せている。吉増は成瀬の短歌世界を、「ほとんど地上すれすれのところを飛ぶつばめ」のようであり、葛原妙子や宮柊二のような魔力を発する凸型ではなく、「ゆるやかな凹型の地形を見せている」と評している。詩人の感受性は的確であり、「身を沈める姿にさらに想像的な凹みをもたらす言葉」という評言もまた、成瀬の短歌の傾向をよく言い当てていると言える。

 作歌上の特徴としては、「歌が歌でありうるのは結局その持つ音楽性をおいて他にはない」と後記にあるように、文語定型の韻律を重んじた作歌になっている。前衛短歌は「奴隷の韻律」から逃れるために、句割れ・句跨りによる短歌的韻律の解体を志向したが、成瀬は釈迢空 (折口信夫) から岡野弘彦へと続く系譜につならる歌人なので、前衛短歌の方向性とは逆に、万葉集から綿々と続く短歌的韻律を信じ、それに賭けているのである。現代歌人は多かれ少なかれ前衛短歌の影響を受けているものだが、成瀬はその中にあって数少ない例外と言えるかもしれない。そのためもあって、やや古風な歌という印象を受けるのもまた事実なのである。『遊べ、櫻の園へ』の二年前の1974年には、村木道彦の『天唇』が刊行されており、同じく青年の漠然とした憂愁を詠っても、村木の歌は明確に口語ライトヴァースの方向を向いている。両者を並べて見れば、その歌ことばの質感の違いは歴然とする。

 疲れたるまなこもてみよガラス戸の水一滴のなかのゆうぐれ  村木道彦

 歩めるはこの憂さを遣らはむのみなるか花すさぶ風に吹かれまぎるる  成瀬有

 村木の歌をあらためて読むと、同じ青春の倦怠でも豊かな時代に生きる青年の憂愁を先取りしているようで、80年代になって盛んになるどこか底抜けに明るい口語短歌の出現を予言しているようですらある。これに対して成瀬の倦怠感はもっと内向が深く、臓腑に沈むものがある。

 成瀬の反前衛・反近代の傾向は、第二歌集『流されスワン』(1982年)ではさらに自覚的な形を取る。たとえばこんな風である。

 哭(ね)に泣けるけものながらにわが在(あ)らむきよき初源(はじめ)を常見むがため

 など裂ける目と問ふをとめにたはれしがほとりと朽ちるごと老いし身や

 夜の山のとよみ切れぎれの夢に聞こゆ悲にかなしめるをぐなのこゑか

 『流されスワン』の冒頭は、ヤマトタケルと「ひめ」との対話による歌劇の形を採っており、このような構成においても特異な歌集と言える。題名の「スワン」とは、白鳥に姿を変えたヤマトタケルのことだと知れる。『遊べ、櫻の園へ』では青年の捉えようのない倦怠感を低い韻律で詠った成瀬は、『流されスワン』に至って心を古代に飛ばしてより強靱な韻律を求めようとしたと考えられる。実際、『遊べ、櫻の園へ』の流れるようなつぶやくような韻律は、『流されスワン』ではずっとハイトーンの韻律へと変化している。

 ふかぶかと闇し垂るれば焚く火すらこゑに荒(すさ)びを放たむものを

 吹く雪のくらき明りにそそりたちしづみゆきつついま都市は荒野(あらの)

 時代意志といへるはげしきに会はむと行く夢ぬちの男 怒号(おらび)つつ―嗚呼 

 そして今まではなかった次のような時代や政治を詠った歌も、歌集の終りに配置されている。

 すべもなくもの懈き身を歩まする昭和末期のキホーテひとり

 かの夏の空の青きを言ひ継ぎしのみに果てたるらしも「戦後」は

 かの夏に失ひしものはた得しものを統(す)べ得ずてまつりはてたるはいつ

 残照にほのか明るむ道を来て分たず わが経(ふ)る時代(とき)、戦後以後

 「かの夏」とはもちろん先の大戦が終った夏である。これらの歌を収録した章の始めには、戦後の社会事件が詞書のように列挙されている。成瀬が短歌を時代をで向き合わせようとしたことは明らかだ。篠に「微視的観念の小世界」と評され、時代や現実との関わりの希薄さを批判された内向の世代のひとりである成瀬は、『流されスワン』で遙か古代へと心を通わせると同時に、これらの歌ではっきりと戦後の時代批判を展開している。それは『遊べ、櫻の園へ』では従者としての傍観者サンチョ・パンサの立場にあった自分が、主人公のドン・キホーテへと変化していることからもわかる。

 記紀古代へと心を飛翔させ時代を遡行する精神と、戦後日本の社会と人心の荒廃を批判する精神とは、実はひとつにして不可分であることに注意しよう。成瀬は古代への遡行と呪術的韻律の獲得をめざしたとき、はっきりと反近代の精神として自己を規定した。そして古代の人々の精神のあり様に身を沿わせたとき、戦後日本を逆光のように照射する視座を獲得したのである。

 『遊べ、櫻の園へ』に「岬にて」と題された章がある。そこには次のような歌がすでに見られる。

 みんなみの洋(わた)の青澄む想ひ持ちて醒めをり今宵鳥啼き渡る

 浜木綿の葉むらの蒼く漂へる死にたるもののひくく哭くこゑ

 南洋の海の青さは古代への憧憬であり、海から聞こえて来る死者の声は過去の呼び声である。成瀬が獲得したのは「岬の思想」なのだ。岬は陸の突端にあり海を望む位置にある。岬から振り返れば、海の視点で陸が見える。岬は反近代の拠点として低く屹立するのである。

 最後に成瀬の近作をいくつかあげておこう。角川『短歌』2004年6月号所収の「鎮花祭」と題された連作である。

 咲きそむる並木の桜ほのぼのとかかる世をすら花明かり美(は)し

 あれは確か幼くて聞くあるはずのなき出で立ちを送る声、声

 かの神もこの神も千年を飽くなくてかかる殺戮を許す不思議

 散りいそぐ花ほうほうと人の世は夕べ中空(なかぞら)とろりと澱む

 「出で立ちを送る声」は出征兵士を見送る声、「かかる殺戮」はイラク戦争を踏まえての歌である。ここにはもう『遊べ、櫻の園へ』のやり場のない倦怠感は影も形もない。人の世を見つめる覚めた眼差しがあるだけだ。

085:2005年1月 第1週 井辻朱美
または、結晶世界は時間の腐食を受けないか

きたる世も吹かれておらんコリオリの
        力にひずむ地球の風に

           井辻朱美『コリオリの風』
 コリオリ (Coriolis)とは19世紀のフランスの科学者。物理学ではコリオリの力で知られている。コリオリの力とは、本当は自転運動による回転系である地球を、あたかも静止系であるかのように見なすとき働く見かけ上の力をいう。コリオリの力は地球上のすべての物体に働き、極で最大で赤道ではゼロとなる。うんと長い紐に重りをつけて高い天井から吊し、南北方向に振り子運動をさせると、細長く切ったピザのような振り子面は、横方向に力を受けていないのにゆっくりと回転する。これが「フーコーの振り子」であり、コリオリの力を実際に確かめることのできる装置として知られている。ずっと前にTVでこれを利用したいたずらを見たことがある。アフリカの赤道地帯で、赤道から1m北に水を張った洗面器をおき、水の上に細い木切れを浮かべる。すると木切れはゆっくり回転する。今度は赤道から1m南に洗面器を置くと、木切れは逆方向に回転するというものである。確かにコリオリの力は北半球と南半球では逆方向に働くが、赤道付近ではその力はゼロなので、これはもちろん巧妙ないたずらなのである。掲出歌では来世においてもコリオリの力を受けて風が吹くのだろうと詠まれており、このように地球時間という壮大なスケールで世界を見るその見方が井辻の独壇場である。

 井辻は1955年(昭和30年)生まれ。東京大学理学部で人類学を学んでいるので、もともとは理系の人であり、歌のなかで自然史や古生物学や遺伝学などの用語が頻出するのは、この経歴に由来する。大学院は教養学部の比較文学科に進学しており、私と同様いわゆる「文転」をしていることになる。ちなみに文科系から理科系への転身は稀なため、これと対になるべき「理転」という言葉はない。1978年に「水の中のフリュート」で短歌研究新人賞受賞。「かばん」を活動の場としており、第一歌集『地球追放』以下現在までに5冊の歌集がある。また井辻はファンタジーの作歌・翻訳家としても知られていて、現在は白百合女子大学児童文学科の教員でもある。

 私事で恐縮だが、『コリオリの風』は私が初めて買った歌集なので記憶が鮮明だ。当時私には本の購入年月日を書き込んでおくという習慣があった。書き込みによれば、『コリオリの風』を買ったのは1993年5月11日である。初版が同年の1月11日だから、初版が世に出てちょうど4ケ月目に買い求めたことになる。京都の丸善書店で購入し、その足で三条堺町のイノダコーヒーに行き、レトロ感溢れる店内で香り高いコーヒーを飲みながら読み始めたことをよく覚えている。

 『コリオリの風』は河出書房新社刊行の「〔同時代〕の女性歌集」シリーズの一巻であり、このシリーズでは干場しおり『天使がきらり』、俵万智『かぜのてのひら』、早坂類『風の吹く日にベランダにいる』などが出版されている。「〔同時代〕の女性歌集」と銘打ったのは、明らかに1987年のサラダ現象を意識してのことだろう。そのころは女性歌人による口語短歌が歌壇内部のみならず、広く一般社会の注目を浴びたので、大手出版社でこのような企画が立てられたものと思われる。このような企画自体が今から見れば隔世の感があるが、シリーズに納められた歌集に一貫して流れるライトな感覚も、時代の空気を反映している。

 さて井辻の歌だが、上にもすでに述べたように、空間的には地球を遙かに超えた宇宙空間を舞台とし、時間的にはジュラ紀から現代を通り越して遙か未来にまで拡がるという、実に壮大なスケールで展開する。

 杳(とお)い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片 『コリオリの風』

 瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき

 あかつきの星メアリー西風に吹かれていくたび地球をめぐる

 シリウスをわが星となしたるはじめより帆柱の上に凍れるつらら

 次の歌の舞台は現実の世界ではなく、ファンタジーの王国である。

 われもまた異土の木の卓打ちながら来む世の綺羅のものがたりせむ 『水晶散歩』

 〈嗚呼エアレンデルあかるき天使〉かの世より隔世遺伝のことばをつたふ

 しっくい壁に黒き木骨が食いこみてルーン文字のごときに夕映え

 夏の緒のごとき長髪なびかせて嵐が丘をおりくるたましひ

 管見の限りでは井辻の短歌が短歌界で取り上げられ批評されることは少ないが、それは結社系歌人ではなく同人誌に拠っているからとか、ファンタジー作家と二足のわらじを履いているからなどというつまらない理由からではなく、井辻の短歌が批評しにくいからだろう。岡井隆は『現代百人一首』(朝日出版社)で井辻を取り上げて、その歌の近づきにくさは「ファンタジー小説とよく似た自閉的な完結感」から来ると断じている。確かにその通りで、井辻の作る歌の世界は作者の〈私〉からも読者の私からも遠い白鳥座のかなたにあり、美術館の壁に飾られた一幅の絵画を遠くから鑑賞するごとくに味わうしかなく、読者の側から歌の中に感情移入したり、歌の中に作者の〈私〉を見いだして共感したりという読み方が不可能なのである。

 たとえば次のような近代短歌の文脈内で作られた歌と較べてみれば、そのちがいは一目瞭然である。

 あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり  小野茂樹

 しぐれ降る夜半に思へば地球といふわが棲む蒼き水球かなし  島田修二


 小野の歌には、自分より先に結婚した友人を前にしての心の動揺と、傘の内すなわち心の中が露わになる含羞を自覚する〈私〉が確かにいて、読者は反発するにせよ共感するにせよ、歌に顕れた〈私〉との心理的距離を測らざるをえない。島田の歌はもっと直接的訴えを含んでいて、しぐれの降りしきる夜半の孤独な物思いから浮かび上がるのは暗い想念に沈む中年の〈私〉である。このように「近代短歌は自己の表現である」というテーゼが有効な歌においては、〈私〉の位置取りや世界に対する距離や、それを短歌に組み上げてゆく技法などが、短歌的批評の対象となる。しかしすでに述べたように、井辻の歌にはこのような短歌と〈私〉との関係性が不在であるため、近代短歌のテーゼを前提とした批評が不可能なのである。

 このことは井辻の歌の作り方にも反映している。一例をあげると、「いづくなるカカオの色の手のために水よりのぼる蓮の王笏」に代表されるように、上句と下句とがなめらかに連続して一首をなしており、上句と下句とが対立し反照し合うということがない。短歌の語法が「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)であり、「事物の叙述と心情の叙述の対応の中から世界を一回性の意味によって屹立させる」(三枝昂之)ことを目標とするのなら、歌をふたつの区分する「切れ」がなくてはならない。しかるに井辻の歌には上に見たように「切れ」がなく、一首全体があたかも一幅の絵であるかのように我々の前に提示されている。このため〈私〉という隘路を辿って歌の中に入り込むことができず、「近づきにくい」という印象を与えるのだろう。入れる人はスッと入れるのだろうが、入れない人は永遠に接近を拒まれる。そのような構造になっていると思われる。

 もうひとつ歌集を通読して気づくのは、井辻の作品世界に変化がないことである。第一歌集『地球追放』から第五歌集『水晶散歩』に至るまで、次に挙げた抽出歌が示しているように、実に一貫していて揺るぎがない。

 宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械(メカ)はうたひつつつあり 『地球追放』

 竜骨という名なつかしいずれの世に船と呼ばれて海にかえらむ     『水族』

 水球にただよう子エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった   『吟遊詩人』

 アキテーヌはまだ見ぬ故郷いくたびか森ふきぬけし藍のたましい    『コリオリの風』

 ゆたゆたと泡盛りあがるグリーンティー宇宙樹より来るみどりの時間  『水晶散歩』

歌人の歩みは歌集ごとに異なった趣を見せるのがふつうであり、なかには小池光のように初期歌集の世界を自分の手で壊してしまい、その瓦礫のなかから新たな世界を拓こうとする人もいる。井辻の作品世界に目立った変化が訪れないのは、作者が現実世界の住人であるよりは、ファンタジーの世界の住人であるためだろう。ファンタジーの世界は想像力が作り出した世界であり、鉱物結晶のように硬く閉ざされていて経年変化せず劣化することもない。想像力は時間の腐食を受けないのだ。

 しかし、と私は考えてしまう。ダイヤモンドの結晶のように腐食劣化しないということは、それ以上深化することもないということだ。私たちは現実の出来事に出会い傷つき、別れや挫折を経験して、たましいの奥行きが深くなる。その深化は短歌に反映されるはずだ。また、縁起でもないことを言うようで恐縮だが、結晶世界にもやがては死の影がさす。古代の箴言の言うごとく「われアルカディアにもあり」である。そのときもなお井辻は〈私〉の不在の歌を作り続けるのだろうか。井辻が次のような絶唱を作るときは訪れるのだろうか。

 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅  小中英之

 飲むみづの身にあまくしてたましひはいづくみ山のいづみさまよふ  上田三四二

 生きがたき此の生の果てに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり  岡井 隆

 いや、それまでは井辻の繰り広げる硬質であくまで透明なかなたの世界を楽しんでおくことにしよう。最後に井辻の想像力がツボにはまったときに生まれる美しい歌をいくつかあげておこう。

 大唇犀(だいしんさい)しずかに足を曲げるとき松花江(スンガリ)の水つめたかりけり

 ビッグバンの光ほろほろ海に降りぼくらは終わりだけを待っていた

 一本の樹木が水を吸い上げて空となるべく鳴りはじめたり

 中国の茶器の白さが浮かぶ闇ここ出でていづれの煉獄の門

 オルゴールがかなでるときはどの曲もたましひばかりの終(つひ)のかがやき

084:2004年12月 第5週 江畑實とレモンの歌
または、青春の光芒はレモンの果皮の輝きのなかに

下宿までいだく袋の底にして
     發火點いま過ぎたり檸檬

         江畑 實『檸檬列島』
 江畑の短歌を論じるとき、歌集題にもなったこの歌をどうしても外すわけにはいくまい。季刊現代短歌『雁』55号の「わたしの代表歌」でも、歌人本人がこの一首を自らの代表歌としている。この歌はもちろん、梶井基次郎が大正12年に発表した短編小説『檸檬』の本歌取りである。小説の主人公は、京都は寺町通りに現在も営業を続ける果実店八百卯で檸檬一顆を購い、当時は寺町通りにあった丸善の本の上に密かに置き、立ち去った後にその爆発を夢想するという小説である。江畑の歌はその骨格と精神を継承してはいるが、発火点を過ぎた時限爆弾のように抱える檸檬は爆発せず、若者の不全感が色濃くなっている。塚本邦雄はこの歌を『現代百歌園』で取り上げて、「いつ突然爆発して、彼を、あるいは世界を変貌させるか、あるいは半永久的に、「不発」のまま、可能性を保留し続けるか、予断を許さない」と書いた。それはこの歌に込められた青春の夢想と鬱屈の行く先のことであると同時に、第一歌集『檸檬列島』でデビューした若き歌人江畑の未来のことでもあっただろう。

 江畑は1954年(昭和29年)生まれ。1983年(昭和58年)に「血統樹林」で角川短歌賞を受賞し、第一歌集『檸檬列島』はその翌年の刊行である。巻末の後記によれば、作歌を始めた23歳から29歳までの短歌を収録しているという。もともと詩を書いていたが、塚本邦雄の前衛短歌に傾倒し短歌を作り始めたようだ。高安国世の主宰する「塔」に所属したのち、1986年の歌誌「玲瓏」創刊から6年間編集長を務めている。「塔」は遠くアララギの流れをくむ歌派なので、「塔」から「玲瓏」へという経歴はちょっと不思議な気もする。

 塚本の短歌に傾倒して作歌を始めたとあって、『檸檬列島』が圧倒的な塚本の影響下にあるのは当然のことである。例えば次のような歌がある。

 うつむきし瞬時踏繪のイエス見ゆ色盲檢査紙の極彩に

 冩さるるときはカメラの暗闇に笑みつつわれの逆磔

 公園の眞晝縄跳びせる圓のなかに老婆とならむ少女は

 一首目の「踏繪」「色盲檢査紙」や、二首目の「逆磔」はいかにも塚本好みの語彙であり、三首目は言うまでもなく「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」と呼応している。縄跳びの円から出られない少女は、やがて老婆となるのであろう。塚本という巨人の発する磁場はかくも強力で、そばに近づく人を自らの磁性に染め上げるのだ。考えて見れば怖ろしいことである。塚本に引き寄せられた人の永遠の課題は、その引力圏からいかにして脱出するかである。

 この歌集は青春歌集であり、いかにも青春の光と影の揺曳する次のような歌がある。

 かがまりて澤の水飮むわかものの背に夭折の翼透き見ゆ

 友の名を呼びあやまりて眞二つに切らるる林檎ほどの含羞

 霜月の風にみだるる韻律をもてわれは詩の友をうらぎる

 ほほゑみに死の影させり青年がふいに繪日傘さしかけられて

 夭折へのほのかな憧れ、同世代の友人との微妙な関係、死への畏れと表裏一体をなす憧憬、これらは誰しも青春期に通過する心の波風であり、こういう主題が文語旧字体の端正な定型で詠われるとき、あらためて短歌という韻文は青春と相性がよい形式であることを痛感する。青春の光芒が一瞬のことであればこそ、このような歌はその短い時期にしか作ることができない歌であり、後に残されたときにもう手の届かない光を放つ。失われたものはなべて美しい。錯覚もまた青春の一属性として許される。江畑が第一歌集を上梓した80年代前半は、まだ「青春歌」という形容が実質を伴って生きていた時代なのだ。現代の若い歌人たちは、このような「青春歌」を作ることができるだろうか。この問は言わずと知れた修辞的疑問文であり、答は明らかである。

 江畑は塚本から句割れ・句跨りの前衛短歌語法を受け継いだに留まらず、主題の選択措定においても前衛短歌の手法を採用している。

 消息立ちし父ありいまも薄氷(うすらひ)をわたるあらうら熱きたびびと

 春晝の母の逐電まないたに水母(くらげ)がなかばまできざまれて

 一首めの「消息立ちし父」を必ずしも〈私〉の父と解釈する必要はないが、仮にそう取ったとしても作者自身の父親が蒸発したわけではない。二首目の逐電した母についても同じことである。これは寺山修司が当時の歌壇からさんざん批判された〈虚構の私〉の措定による「私性の拡大」の一例であり、この手法により江畑の主題選択は矮小化された生活者の〈私〉の視界に映るものに留まらず、想像・観念の世界に遊んで自在である。

 終末へ世界は熟るる鮮烈に割れて石榴のごとし地球儀

 食卓の銀器するどしわが父は転生せしや冬のローマに

 江畑の拡大された〈私〉が万物形象にいかなるものを視て、歌を立ち上げるか。それをよく示しているのが次のような歌だと思われる。

 摩滅せしきのふの音盤(デイスク)厭きはててただにめぐれる渦に薔薇おく

 鋭きひかり射し入る眞夏わが部屋の死假面(デス・マスク)一塊の殘雪

 炎天下よりさしのぞく氷柱の心(しん)に幽閉されゐたる百合

 一首目、レコードに聴き飽きるというのは日常の出来事だが、江畑は空しく回転するレコードに薔薇を置くのである。もちろんこれは現実の薔薇ではなく、中井英夫が「虚空を一閃して薔薇を掴み出す」と言った薔薇であり、これが江畑の美学の象徴と言ってよい。これを「キザだ」「わざとらしい」と感じるか、それとも「カッコいい」と感じるかで感性が二種類に分かれる。現代の短歌は日常化傾向が著しいので、前者の受け取りかたをする方が多いかもしれない。二首目、真夏の部屋に残雪があるというのもいかにも非現実的な設定だが、それを自分のデス・マスクと捉える眼差しに、目に見える日常現実を超える幻視のまなざしがある。三首目の氷柱の百合もまた同様であり、豪華な結婚披露宴に飾られそうなオブジェだが、もちろん江畑が詠んでいるのは非在の百合なのである。

 生活者の平板な現実から歌の世界に飛翔するにはどうすればよいか。江畑が後記で記しているように、それは「言葉のもつ力」による他はないと感じるところに、「コトバ派」歌人の面目がある。言葉で世界を立ち上げるには、剛腕の修辞が必要である。江畑が、そして前衛短歌の多くの歌人が拠ったのは、修辞学で言うところの撞着語法(oxymoron オクシモロン) である。撞着語法とは修辞学の技法のひとつで、「熱い氷」「輝く闇」のように、語義的に相反する語を組み合わせることをいう。

 天の底群青に澄み若武者の凧がはらめる寒の熱風

 舌頭(ぜつとう)に炎(ほむら)だちたり削り氷(ひ)のにがみ清少納言に捧ぐ

 沸點の水の眞中にひえびえとニクロム線の眞紅の螺旋

 一首目の「寒の熱風」、二首目の「炎だち」と「氷」、三首目の「沸點の水」と「ひえびえと」がこれに相当する。撞着語法は俳句でいう「二物衝撃」とよく似た効果を生む。「熱い氷」や「輝く闇」は語義矛盾であり、この世に存在しないものである。存在しえないものを敢て言い立てるのは、そこに現実には有り得ない虚構世界を浮上させるために他ならない。「炎だつ氷」はその内包する矛盾を弾機として、現実世界の対象を指向する記号であることを停止し、虚空間を指し示す記号へと転化するのである。こうして立ち上げられた虚空間は、作者の美学と観念を存分に投影する暗幕として働くのである。

 江畑はその後、第二歌集『梨の形の詩学』(1988年)、第三歌集『デッド・フォーカス』(1998年)を上梓しており、近々「セレクション歌人」シリーズから「江畑實集」が刊行予定である。私は古書店で『檸檬列島』を見つけて読んだだけで、第二歌集・第三歌集は未読であるので、第一歌集以後の江畑の歩みを知らない。

 『現代短歌200人20首』(邑書林)に江畑は、すべて未収録の歌を寄せている。ちなみに村木道彦も同じ態度を取った。そこには自己模倣に陥るまいとする果敢な試みが看取される。

 高層のビジネス街と呼ばれゐし廃墟のあたり蜃気楼顕つ

 ゆふぞらに思ひゑがけりきらきらとひとを轢くうつくしき車輪

 二十一世紀廃品処理場のすみに累(かさ)なるクローンの死屍

 一見してわかるように、第一歌集に濃厚だった耽美的傾向はずいぶん薄らいでいる。どうやらこの世界は自己の美学だけで塗りつぶすには、あまりに世紀末的様相を深めているようでもある。また角川『短歌』2004年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」には、「時の泡」と題した次のような近作を寄せている。テーマは三島由紀夫事件と仏教にいう唯識のようだが、私にはよくわからない。

 逡巡の足許くきやかに映す月のいづこに豊饒の海

 血まなこに殿上人を競はせし皇位 めくらむばかりの虚構

 壮大なる虚無の肌(はだへ)に触れさしめ唯識は人を行為へ誘(おび)く

 さて、「レモンの歌」である。江畑は掲出歌以外にも、次のようなレモンの歌を詠んでいる。

  陽溜りに重ねし書物そこに置くわが曝涼の不発の檸檬

  檸檬切るしづくたちまち傷に沁む指より生命(いのち)かけめぐる戀

 レモンは果物のなかでもとりわけ象徴性が高い。その紡錘形の形状、手の中に収まる大きさ、ポスターカラーで塗ったような鮮やかな黄色、強い香気と鮮烈な酸味などがその理由であり、また昔から輸入果物である点もモダンな雰囲気を醸し出している。小池光は『現代歌まくら』(五柳書院)の「レモン」の項では、次の歌を引用している。

 泥濘にレモン沈める夕ぐれの心のなかに塔は直(すぐ)立つ  百々登美子

 催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり  道浦母都子

 竪穴に落ちたのか俺が穴なのかレモンの皮をここに捨てるな  吉川宏志

 百々の歌では、泥濘に沈んでもその鮮やかな色を失わないレモンが、汚れることのないものの象徴である。その昔、機動隊の催涙ガスを浴びたとき、レモン汁が効果的だと信じられていた。たとえそれが俗信に過ぎないとしても、レモンの青春性は学生運動に相応しい小道具だったのである。吉川の歌では、レモンの皮が突然頭上から降って来た情景が詠まれている。とぼけたような諧謔味があると同時に、深遠な問も潜んでいそうな奇妙な味わいの歌である。この他にもレモンは多く歌に詠まれている。

 檸檬搾り終えんとしつつ、轟きてちかき戦前・遙けき戦後  岡井隆

 わが指の触れしレモンはいく時もなくて腐りぬ円卓のうえ  佐伯裕子

 あばかれてゆくかも知れぬ愛ゆえにレモン一顆を掌にのせており  江田浩司

 早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  葛原妙子

 一顆のレモン滴るを受くる玻璃の皿てのひらにあるは薄ら氷に似る  同

 裁られたるレモンの香り明るめばしばらくののち戻り来る夜  横山未来子

 あるときは明るさと青春性の象徴であり、またあるときは悔恨と腐食の象徴である。このようにさまざまな意味を読み込むことができるという点が、まさにレモンの象徴性の高さの所以なのだろう。ちなみにレモンは南イタリアに行くと街路樹になっていて、日本のものより二回りほど大きなゴツゴツした実がその辺にいくらでも実っている。ヨーロッパ人にとってレモンは、太陽と南国と情熱の代名詞である。短歌においてあまりそのような意味づけが見られないのは、やはり日本人にとって実っているところを見たことのない輸入果物であり、その由来ではなく視覚・味覚の印象のみが鮮烈に訴えかけたからだろう。

083:2004年12月 第4週 大口玲子
または、助走なしの全力疾走短歌は傷ついて

夕映えに逆らふごとく耐へゐるか
  君の眼に棲む水鶏(くひな)を放て

         大口玲子『海量』
 歌人の輩出数において早稲田大学は群を抜いている。篠弘、藤原龍一郎福島泰樹、三枝昂之、小島ゆかり、俵万智など数え切れないほどである。大口もまた早稲田大学文学部に入学し、佐佐木幸綱の「心の花」に入会した歌人である。1998年に「ナショナリズムの夕立」で角川短歌賞を受賞、第一歌集『海量』で現代歌人協会賞を受賞するという華々しいデビューを果たしている。大口は1969年生まれだから、角川短歌賞受賞はまだ19歳の大学在学中である。続く第二歌集『東北』では、第一回前川佐美雄賞を受賞している。ちなみに『海量』は「ハイリャン」と読み、中国語で大酒飲みのことを言う。早稲田大学卒業後、日本語教師になり、中国に赴任した経験から出た題名である。これまたちなみに作者の名前は「おおくち りょうこ」と読むのが正しい。

 『海量』の解説で佐佐木幸綱が書いていることだが、大口は高校時代剣道少女であり、早稲田では「思惟の森の会」という農業経験を通じて農家の人たちと交流するサークルの熱心なメンバーであったという。もともとアウトドア派なのである。『海量』にはこのような自然と人間との触れ合いから生まれた歌が多く見られ、それが大口の短歌の特色ともなっていることは、誰しも認めるところであろう。

 精神の青葉若葉を揺らしつつ山頂までの下見を終へつ

 チェーンソーでいつしんに樹木切りながら我は快楽の底にしゐたり

 下草を刈りすすむ人の広き背をときどき隠す木々の骨格

 中国で日本語教師として働いていたときや、外国から来た留学生に日本語を教えるときの心の屈折を詠んだ歌もまた、大口の個性を示す歌として引用されることが多い。

 起立して中国国歌を聞きおれば剥かれゆく蜜柑のごとき我かも

 答へられぬ学生に深く立ち入れば星選ぶやうに助詞選びをり

 日本語で君の心を区切りたればその曖昧さを君は指弾す

 二ヶ月だけ若い恋人との相聞も、若く傷つきやすい青春の恋愛歌としての清新さに満ちている。恋人はどうやら新聞記者らしい。

 たつた二か月若かりき君は若きまま今も我が名を呼び捨てにして

 かぎりなく遠くなりゆくものとして喉仏ふるふさまを見てをり

 くちびるを押し開かるるごと苦し雨夜ひとりの名前を呼べば

 しかし大口の個性の強さはむしろ飲食と飲酒の歌にある。私は次のような歌をとてもおもしろく読んだ。

 南湖の量、否、海の量の酒を飲み語らむと逢ふ夕暮れはよし

 空腹を抱へ山より戻り来しゆふべゆふべのどんぶり飯よ

 言葉より深く信ずるスヂ肉をながくながく煮て犬とわけ合ふ

 作者の名を隠して提示したら、誰も女性歌人の歌とは思わないだろう。大口の個性はこのように、手弱女振りとか纏綿たる情緒といった、伝統的に女歌の特色とされて来た枠組みを自在に跳び越えて、自己と現実の向き合う様を大胆かつ細心に詠うところにあると思われる。

 ところが私は第一歌集『海量』をおもしろく読みながらも、心のどこかで解決のつかないような居心地の悪さというか、不安定感を感じていた。ネット検索で前川佐美雄賞の選考評を見つけ、審査員のひとり三枝昂之の「助走なしの全力疾走」という大口評を読んだとき、なるほどと腑に落ちるところがあった。大口の短歌は、方法論なしの全力疾走体当たりなのである。ここで方法論というのは、作歌にあたっての技術的方法論という意味もあるが、むしろ〈私〉と短歌と現実のあいだの距離の取り方という、生き方にかかわる部分が大きい。

 やめてゆく学生の前で鳥のごとく我は日本語を啄み泣けり

 炎昼に母語は汗して立つものを樹皮剥ぐごとき剥奪思ふ

 「助走なしの全力疾走」に由来する振幅の大きさがこのような歌を生み出すのだが、トレーナーの指導なしで練習しすぎる高校野球の投手が肩を壊しがちなように、方法論のない全力疾走は体のどこかに無理が来る危険性を孕んでいる。

 その予感は第二歌集『東北』で不幸にも的中する。大口は結婚して東北に移り住むのだが、抑うつ状態を発症して入院を繰り返すようになる。歌集前半には新天地に住む新しい経験を詠んだ歌が並んでいるが、次第に歌に孤独の影が深くなるのである。

 こともなげに桜花を散らす風に吹かれ孤独の砂ぶくろわれにあり

 約束を一つも持たず人と居てわれはもうじき三十歳になる

 分析し尽くされわが精神は秋青空に透きて見えざる

この歌集の圧巻は何と言っても、抑うつ状態で入院中に詠んだとおぼしき次のような歌を収めた連作である。

 夜ごと泣く妻とはなりて 東京が怖い。短歌が、点滴が怖い

 はさみ、シェーパー取り上げられてもまだ我は刃物秘め持つ気がしてならず

 ミカちやんが突然壊れガラス割るかくもあつけなく人は壊るる

 遠山光栄「脳病院にて」どのやうに歌書き留めてゐしかと思ふ

 やすやすと我は壊れずマットレスと便器だけの保護室を見学す

 短歌技法という観点から見れば、直截でストレートに過ぎる歌がある。第一首など短歌になっていない叫びのようなものである。これらの歌において、大口の〈私〉はひりひりと剥き出しの肌でまさに現実と肉薄していると言えるだろう。しかし、こういう歌は読む方もつらい。

 『東北』後半にはあまり広がりのない歌が多い。好きな歌につける付箋は『海量』後半にはたくさん付いたが、『東北』後半に至って少なくなるのは読んでいて淋しい。『海量』巻末の連作「ほたる放生」や、『東北』の「ヒロシマ私の恋人」に見られるような、主題意識と方法論の明確な歌においても大口は才を見せているが、「助走なしの全力疾走」だけでなく、このような方向をもう少し意識的に押し進めていればと考えてしまうのである。

 つらぬきて沢流るると思ふまで重ねたる胸に螢をつぶす

 夏至の日の思ひ撓めりほたるほたる螢の水をゆふべ飲みにき

 惜しみつつ振り落としたるほたる地に息づくやうに明滅しをり

 区別できぬふたついのちと思ふまで抱かるるたび灰にまみれて

 水は死者を映せるかいま簡潔に肉の輪郭不確かに浮く

 真夏汗して人を抱き敷き立秋の向かうに燃ゆる都市の名を呼ぶ

082:2004年12月 第3週 吉岡生夫
または、ユーモアを錫杖として中年を生きる草食獣

ワン・タッチの傘をひろげてゆかむかな
        男の花道には遠けれど

        吉岡生夫『勇怯篇 草食獣・そのIII
 傘を片手でひと振りして広げ、折からの雨にかざして退場する。背で泣いてる唐獅子牡丹。歌舞伎にもこういうシーンはありそうだが、この場合は東映ヤクザ映画の高倉健かもしれない。傘はもちろん蛇の目傘で、表は真っ赤に塗られているのがよい。男のカッコよさと孤独が滲み出るシーンで、観客はここでグッとくる。しかし掲出歌はそんなカッコよさからはほど遠く、広げる傘はスーパーで千円で売られているワン・タッチ傘である。高倉健の男の花道がカッコよければよいほど、それとはほど遠い中年男の自分の現実との落差が際立つ。掲出歌はその落差をかすかなユーモアをまぶしつつ冷静に見つめている。昂揚して詠い上げるような調子はどこにもない。これが吉岡の歌の基本的なトーンである。

 吉岡生夫は1951年 (昭和26年) 生まれで「短歌人」に所属。新人賞などの華々しい受賞歴はなく、私は邑書林の「セレクション歌人」シリーズで初めてその名を知り歌を読んだ。「セレクション歌人」は藤原龍一郎と谷岡亜紀の責任編集で、もしこの二人がその任になければ吉岡に一巻が当てられることはなかったかも知れない。谷岡は1959年生まれで今年45歳、藤原は1952年生まれで52歳、吉岡は53歳である。みんな立派な中年男だ。青春の抒情は短歌のしらべに載せやすいが、髪が薄くなり腹の出た中年男が短歌を作るのはなかなか難しい。もうキラキラした青春は詠えないが、かといって老境の枯淡からはほど遠い。マイホームの住宅ローンは背中に重く、職場では中間管理職という板挟みの立場である。作り出された短歌には日常の疲労感と人生の苦みが添加される。イチゴのショートケーキが大好きなお子さまにはその味わいがまだわからない大人の味の短歌となる。

 第一歌集『草食獣』、第二歌集『続 草食獣』、第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』、第四歌集『草食獣 第四篇』、第五歌集『草食獣 第五篇』と並べればわかるように、すべての歌集の題名は「草食獣」となっていて、これはいささか異例なことだろう。この題名の由来は次の歌に明らかである。

 ガリヴァを絵本でよみし頃おもひ草食人種といふを念(おも)へり

 草食人種とは、スウィフトの『ガリバー旅行記』に登場する馬の姿をした人種フイヌムのことである。『草食獣』という歌集題は吉岡本人の発案ではなく、「短歌人」の先輩歌人である小池光がとある酒席で示唆したものだという。「草食人種」は動物を殺して食べ血を流すことのない平和的な種という、肯定的な意味合いを帯びて使われている。しかし、命名の理由はそれだけではなく、作者本人があとがきで次のように書いている。

「加えて、自らの手を血で汚すことのなかった潔癖さと引き換えに、なんら、この現実世界とかかわりをもたなかったのだ、という、いわば緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさを記念して、とでもいっておいた方が妥当なようである」

 第一歌集刊行時に28歳だった吉岡が抱いた「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」とは何だったのだろうか。吉岡の父は警察官であり、鑑識業務に従事していて1971年に殉職している。

 公務死をとげて勝ちたる亡父のためわれのてにある一輪の菊

 ステージの父の遺影のまつられてあるところまで行かねばならぬ

 父とわが呼びたる骨をひろはむとするに殺めしごとく崩れつ

 警官を犬と呼びたる長髪の友の弁舌さはやかなりし

 1960年代の後半から全国に吹き荒れた学生運動の嵐は、同時代に青春を送った若者にさまざまな形で刻印を残した。この時代に警察官を父親に持つというのは、今からは想像できないほど複雑な立場に身を置くことになる。ヘルメットを被りゲバ棒を振るう活動学生は一部に限られてはいても、若者一般の心情は多かれ少なかれ反体制的であり、親の敵のように髪を長くしていた。そんな若者にとって警察官は「権力の走狗」であり、まっさきに指弾攻撃されるべきものである。吉岡は学生運動に参加することも、かといって父の側に立つこともできなかった。だから父の死に直面して「自ら殺めしごとく」という感情を抱かねばならなかったのだろう。それが「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」である。この体験はおそらく吉岡に深く刻印され、吉岡が世界と関わるやり方を決定づけたと思われる。それは何かを声高に主張することなく、人畜無害な草食獣としてひっそりと市井に暮らすという道である。

 略歴によれば高校一年生の頃から短歌を作り始め、あちこちに投稿するようになったとある。おそらく初期の作と思われる次のような作品には、年齢相応の青春の抒情が漲っている。

 ちちははのいのりのごときうみなりのなかをゆくとき血こそかがやけ

 奔放に生きたきわれを捨てがたし雨中に海をみてもどるとき

 ああひとはうまれながらのかなしみをもつゆゑくらくほほゑみにけり

 ああわれをまきこむやうな音ののちあがる遮断機のうへの空

 村木道彦ばりのひらかなを多用した童謡を思わせる語法である。四首目に揺曳する死の予感もまた青年に特有のものであり、青春時代には死すらも憧憬や抒情の対象になる。しかし、吉岡の真骨頂はこのようなトーンにあるのではない。

 きみよそのみどりご抱きて撮られゐる青葉地獄のなかの一齣

 定年の日まで勤める庁舎かとみあげて夜の襟を高くす

 万歳の腕のかたちをかなしめり頭よりセーター脱ぐときの闇

 頸のみをうつして足れりネクタイを朝ごと締める柱の鏡

 一首目の歌を『現代百歌園』で採り上げた塚本邦雄は、「きみ よそのみどりご」と区切る読みの可能性に言及し、ぞっとするような「劇」の存在を指摘したが、これはうがちすぎかもしれない。二首目で20代にして定年を思うとは、いささか老成しすぎている。三首目、万歳は降伏の姿勢であり、セーターに頭をすっぽりとくるまれた姿勢に降伏と闇を見る視点が注目される。四首目には後年ますます顕在化する、生活の細部に注目する吉岡の視線が顕著である。

 なんといっても吉岡独自の個性が確立したのは第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』で、「セレクション歌人」に完本収録されていることもその証左とみてよい。

 さてもをどりの名手といはむ鉄板のお好み焼きにふる花がつを

 妻と子と母がすわれば空をとぶかたちとなりぬ電気カーペット

 印影の徐徐に大きく太くなりすなはち件の決済終はる

 負けてこそヒーローならむふりかぶるときの江川の耳はピクルス

 神のごとわれは立ちたり円型の蛍光燈を頭にいただきて

 一首目と二首目にはユーモアがただよう。吉岡は「セレクション歌人」に収録された長塚節についての文章のなかで長塚の滑稽趣味を指摘し、それが後世に評価されなかったことを残念だとしている。単なる生活詠に終らせず短歌を歌として成立させ、しかも青春の昂揚や抒情からは遠い中年という人生の砂漠のような地点でいかにして歌のしらべを響かせるかという困難な課題に直面して、吉岡が出した答がここにある。ひとつは「生活の些事をすくいあげること」であり、もうひとつはその些事の観察を提示するやり方における「ユーモア」である。三首目は作者の勤務していた市役所の風景であるが、役職の下の者は印鑑が小さく、上級職になるほど大きくなる印鑑が決裁書にずらりと並ぶ。当たり前といえば当たり前なのだが、その事実が拾い上げられてこのように詠われると、そこにユーモアと若干の皮肉が生じる。それは四首目で江川投手の大きな耳をピクルスに譬えるときも同じである。五首目は居間の円形の蛍光灯を取り替えている風景だが、蛍光灯を頭上にかざす自分を神のようだとする表現は、最初にあげた掲出歌の発想と似たところがあるが、掲出歌とちがって「男の花道には遠けれど」という感慨が消去されている分だけ、吉岡の作歌態度が深化したことを示している。

 このように「生活の些事をすくいあげる」眼差しは、ときに次のような歌を生み出す。

 消しゴムのある鉛筆は書きて消し書きては消してまた書くものぞ

 この歌は、「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」という奥村晃作の「ただごと歌」と、その発想と語法において極めて近い地点にいると言ってよい。

 しかし吉岡はただ発想のおもしろさのみによってこのような歌を作っているのではないだろう。「一人の女の運命を狂はせしことさへなくてバスに揺らるる」のような歌の影に揺曳する慚愧の想い、「殺意などふともわきくる中年の背中がありぬ冬のホームに」のような歌から滲み出る凶悪な感情を内心に感じながら押し殺しつつ、変わり映えのしない中年の日常を生きているのである。そんななかから生み出される次のような歌には、きらりと光って私たちの生を照らす何かが感じられるのである。

 その中の闇もろともに流れゆく空缶たのし浮きて沈みて

 ロビンソン・クルーソーならむうつぶせに朝をめざめて渚のごとし

 幽界の汀すなはち電車くるときホームに散る波の花


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081:2004年12月 第2週 横山未来子
または、反射率と屈折率の生み出す硬質の抒情

胸もとに水の反照うけて立つ
     きみの四囲より啓(ひら)かるる夏

        横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』
 「きみ」と呼ばれている男は、川のほとりに立っているのだろう。日光が川面に照り映えて、その反照が男の胸を明るく照らしている。男は〈私〉の憧れの人である。男の周囲が周りの風景から切り取られたかのように鮮やかに私の目に映る。そうして夏が始まると〈私〉が感じているのは、もちろん〈私〉の恋のゆえである。男に寄せる〈私〉の想いが、夏の日差しと水の匂いを背景として際立つ相聞歌である。

 横山は1972年生まれで「心の花」所属。1996年(平成8年)に掲出歌を含む「啓かるる夏」で短歌研究新人賞を受賞している。ちなみに、前年1995年の受賞は田中槐、1994年は松村由利子、1993年は寺井淳であり、陸続と才能が世に出た頃だったことがわかる。ちなみに目黒哲朗が一年年上で1971年生まれ、佐藤真由美・佐藤りえ・玲はる名が1973年生まれで少し年下になる。この世代は『サラダ記念日』が出版された1987年に15歳前後だから、俵万智によって始めて短歌と出会った世代と言ってもよい。このために口語短歌が、なかでも会話体短歌が当たり前になるのがこの世代からなのだが、横山はそんな中にあってひとり我が道を行くように端正な文語律の歌を作り続けている。その歌風は古典的と言ってもよく、硬質の抒情と透明感溢れる歌の世界は、同世代のなかで際立っている。

 若い女性の例に漏れず、横山の短歌のモチーフの中心は相聞なのだが、そのモチーフを歌にするとき目立つのは、言葉の選択の細やかさと、自分を見つめる眼差しの確かさである。言葉の選択の細やかさは、横山の言語感覚の鋭さを証明しており、自分を見つめる眼差しの確かさは、年齢に似合わない老成と言ってもよい世界観に発している。歌集あとがきによると、車椅子での生活をしているとあり、横山の置かれた境遇が大人びた世界観を生み出したのかも知れない。「モラトリアム」と言われ「ピーターパン症候群」と呼ばれ、大人になれない若者が増加した現代にあって、これはなかなかに希有なことである。

 横山の短歌世界を言い表すのに「反射率と屈折率の短歌」という表現を使ってみたい。それはひとつには、第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』、第二歌集『水をひらく手』を通じて、水と光に関する歌がとても多いという理由からだが、それだけではない。横山の短歌が作者の心の反射率と屈折率を実に木理細やかに詠っているからである。それは第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』冒頭に近い次の歌からすでに顕れている。

 ボート漕ぎ緊れる君の半身をさらさらと這ふ葉影こまかし

 ボートを漕いでいる男の体に日光が当たり木の葉の影が映る。それを「さらさらと這ふ」と表現したところに動きと爽やかさがあり、季節は春か初夏だと思わせる。ここには光の反射があり、その反射を見ている〈私〉がいるのだが、その光の反射は〈私〉の心のきらめきの反映でもある。

 瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり

 シャツの背に五月の光硬ければ追ひかくる日のなしと思へり

 青草に膝をうづめて覗きこむ泉にわれは映らざるなり

 スポークに夏の夕光散らしつつ少年の漕ぐ自転車過ぎつ

 一首目、男が微笑む度に自分が水切りされるように感じる。「水切り」は洗った野菜を水切りするの意とも取れ、石を川面に投げる水切りの意とも取れるが、後者と取るほうがいいだろう。自分が水切りされる石のように感じられるというのだが、ここでは〈私〉は心躍って反射する石そのものである。しかしどうも横山の恋は実らぬ恋だったようだ。二首目、男のシャツの光の反射は一転して、自分を拒む光と捉えられている。三首目、〈私〉が覗きこんでいる泉とは、相手の男の心の泉であろう。自分はその泉に映らないという片恋である。四首目は相聞歌ではないのだが、スポークに光る夏の夕方の光は反射そのものであり、横山は世界がこのような形を取って立ち顕れるとき最も歌心を動かされるのである。

 では屈折の方はどうか。次のような歌に屈折を感じることができよう。

 月と藻のゆらめきまとふ海馬(うまうま)となりたり君の前にうつむき

 冬芽もつ枝くぐりつつ再会を薄日のやうに恃みてゐたり

 手渡さぬままのこころよ口中のちひさき氷嚥みくだしたり

 昼と夜を経てふりむかば硝子器の影のあはさとならむ逢ひかも

 水に差す手の屈折を眺めゐる夏のゆふぐれや過去のゆふぐれ

 一首目、男の前でうつむくのは自分の心が伝えられないからであり、心が相手に届く前にまるで屈折するかのように地に落ちる、そのような歌がたくさんある。二首目、再会は冬の薄日のようにはかなく望みのないものであり、横山は自分の恋をそのようなものとあらかじめ見なしているようである。三首目には屈折し相手に届かない心が口に含む冷たい氷として詠われている。四首目では、男との恋はまるでガラス器に反射する光のようにはかないものかもしれないと詠まれている。ガラスに反射する光は屈折するのであり、この屈折する光が横山の歌にたゆたいと奥行きを与えている。五首目には、手を水に入れて屈折する有様を眺めている自分が詠まれており、この一首は横山の眼差しを象徴する歌といえるだろう。

 世界に対する自分の位置取りという点から見て横山の短歌にもうひとつ特徴的なのは、自己が屹立する存在として事物と対峙するのではなく、自分を何物かが通過する媒質と捉える身体感覚であろう。この感覚は次のような歌に顕著に看て取れる。

 胡弓の音凪ぎたる後もふるふ闇わが諦めはかりそめならむ

 眠られず君は寝がへりうちゐるかわが夢の面(も)のときに波立つ

 秋草のなびく装画の本かかへ風中をゆくこの身透くべし

 両腕をひらきて迎へゐるわれをまつすぐ透過してゆくひとか

 抱へもつ壺の内にて水は鳴り予感せりとりのこさるる日を

 一首目、鳴りやんだ胡弓の弦の振動は闇とともに〈私〉の体をも震わせており、それはまだ体内に残る恋人への思いと共振する。ここでは〈私〉は振動する媒質と捉えられている。二首目、遠くにいる恋人を想う夢のなかで、〈私〉は波立つ媒質である。三首目では、自分が風の通り抜けるほど透明な媒質になりたいという願いが詠われている。四首目は媒質であることの悲しさが表面に出ており、恋人は自分の体にぶつかることなくそのまま透過してしまう。五首目の「抱へもつ壺」は本当の壺ではなく、自分の身体と心の比喩だろう。そこにもまた水が満たされており、心の動きは水の波動として知覚されている。

 水や空気のような媒質は自ら動くことができない。外部から力を受けたときにだけ、波動としてそれを伝えるのである。だから媒質は徹底的に受動的存在なのだ。横山が自分を媒質と見なすとき、自分からは外部や他者に働きかけることのできない弱い存在だと認識しているのだろうか。いや、そうではあるまい。

 風に乗る冬の揚羽にわが上に一度かぎりの一秒過ぐる

 一生のうちのひとひのひとときを夕雲に薔薇いろの湧き消ゆる

 木の生きし月日は残り背後にてうすむらさきに地を覆ふ光(かげ)

 上の最初の二首は、一度限りの現在という時間は取り返しようもなく自分にも揚羽にも流れているとする時間認識を詠っている。そこには自分と揚羽を区別せず、どちらもこの世に生かされている存在だと見る眼差しが感じられる。また三首目は、紫の花を咲かせていた桐の木が道路拡張工事のために切り倒されるまでを詠んだ連作の最後の歌なのだが、切り倒された桐の木の生きた日々を紫の残光として幻視しており、ここには存在のはかなさと同時に、それを超えて連続するものへの強い希求がある。このような強い希求を持つ人を決して弱い存在だと見なすことはできないだろう。自己と世界の関係のこのような把握は、横山が20歳のときに受洗したキリスト者だということと深く関係していると思われる。だから横山の短歌は世界への祈りなのであり、声を荒げることがなくてもその静かな祈りは深く人の心に届くのである。

横山未来子のホームページ「水の果実」へ

080:2004年12月 第1週 高柳蕗子
または、意味の脱臼のかなたに浮上する短歌的意味

抱き癖の大王イカを寝かしつけ
       僕を殺しに戻る細い腕

         高柳蕗子『潮汐性母斑通信』
 高柳蕗子は1953年(昭和28年)生まれ。同人誌「かばん」を活動の場としており、短歌結社には所属していない。もし結社に入っていたならば、高柳のような短歌は「ちょっとあなた、いいかげんにしたら」と主宰から言われていただろう。第一歌集『ユモレスク』、第二歌集『回文兄弟』、第三歌集『あたしごっこ』に続いて、今年 (2004年)に第四歌集『潮汐性母斑通信』が上梓された。「潮汐性」とは潮の満ち干に関係するとの意で、「母斑」とは先天的なアザやホクロの類の意味だから、この題名は「潮の満ち干で生じる先天的アザのお知らせ」という意味になるが、まるで意味をなさない。このような「意味の脱臼」が高柳の最も得意とする技である。掲出歌も意味不明だが、「抱き癖」「大王」のダ頭音、「癖」「イカ」「つけ」の脚音のリズムの軽快さに加えて、上句のユーモラスな情景と下句の不吉な場面の対比が鮮やかで、不思議と意味を超えて読ませてしまう歌になっている。

 第一歌集『ユモレスク』が出版されたのは1985年のことである。穂村弘は『短歌ヴァーサス』第5号の連載「80年代の歌」のなかで高柳の『ユモレスク』を採り上げている。穂村はあからさまに言ってはいないけれど、それまでの号で論じた歌集に対する論評から類推すると、『ユモレスク』もまた80年代のバブル景気の過剰な消費気分を背景として生まれた歌集だと言いたいようだ。サラダ旋風の2年も前にこのような歌集が世に出ていたのは、驚きと言えば驚きである。どんな調子か『ユモレスク』からちょっと引用してみよう。

 殺人鬼出会いがしらにまた一人殺せば育つ胃癌の仏像

 吸血鬼よる年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機

 布教終え行ってしまった神父らの不快な息で滅ぼされた街

 骸骨ら他には何もないからと大骨小骨贈りあう聖夜

 これらの歌に通常の意味を読み取る解読を期待してはいけない。言葉遊び・イメージの連鎖・奇想・物と観念の意外な出会い、これらの要素が組み合わされることで作り出される不思議な情景や、星新一のショート・ショートを思わせる奇抜な物語が、定型短歌という形式を借りて展開されているのである。

 蕗子の父の高柳重信は俳句界の重鎮で、三行書きの俳句を作ったことでも知られている。

 身をそらす虹の       船焼き捨てし
 絶巓            船長は
     処刑台       泳ぐかな

 重信には『蕗子』という題名の句集があり、『ユモレスク』にも「パパへ」という章があるくらいだから、父娘の結びつきは相当強いものだと考えてよいだろう。俳句にはもともと「二物衝撃」という句作法がある。本来はつながりの少ないふたつの物を並置することで、意味的な衝撃力を生じさせることを言う。シュルレアリスム詩人のロートレアモンが言った「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」と同じことである。形象の文学である俳句は、一句の衝撃と結像度の鮮明さで勝負するところがあり、必ずしも意味に依存しない。この俳句の句作法が蕗子の作歌法に大きな影響を与えていると考えられる。事実、蕗子の短歌に見られる奇想や奇抜なイメージや、時に生じる滑稽味は、俳句との連続性を感じさせるのである。

 早起きの老人ばかりの暗殺団不吉なことは内緒にされる 『ユモレスク』

 密航の少年が股間に蜜柑ぬくめて潜むスカバソの港  『回文兄弟』

 鼻つまみ詩人ペッシカス追放し市民の樟脳臭い懊悩  同

 あだぶらる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら  『潮汐性母斑通信』

 「早起きの老人ばかりの暗殺団」は、季語なし切れ字なしだが、これだけでも俳句として読める。老人ばかりなので、誰それが死んだなどという不吉な噂は隠すというが、職業が暗殺団だけに滑稽である。二首目と三首目は逆読みした言葉を埋め込んだ連作で、「スカバソ」は「ソバカス」、「ペッシカス」は「スカシッペ」を反転したもの。二首目の「股間」「蜜柑」、三首目の「樟脳」「懊悩」の語呂合わせも凝っている。四首目は架空の枕詞を詠み込んだ連作から。「あだぶらる」がそれなのだが、この歌ではご丁寧に、結句の「かだぶら」と呼応して「あぶらかだぶら」となるように作られている。

 それでは高柳の短歌はすべて言葉遊び・語呂合わせ・奇抜なイメージの競演を目的として作られたもので、そのようなものとして言葉の表層において味わえばよく、その奥に作者の人生や境涯に直結するような短歌的意味を期待するべきではなく、また読み取ろうとする鑑賞態度もまちがいなのだろうか。どうもそう言い切れない所が事情を複雑にしているのである。

 問題の在所ははっきりしている。それは高柳が一見単なる言葉遊びとも見える言語活動を、短歌定型という器において展開しているという点にある。韻文定型には定型としての「場」が備わっている。そもそも物理学において「場」の概念は、そこに置かれた物体に作用を及ぼす空間とされており、「重力場」「電磁場」などがそれに当たる。「場」には場の特性が備わっていて、そこに置かれた物体に等しく作用を及ぼすのである。これを定型短歌に適用すると、韻文定型という「場」におかれた言葉は、それらが本来持っていた意味とは異なる意味作用を、場によって引き出されるということになる。だから高柳の短歌がどれほど場に起因する意味作用を逃れようとしてもそれは不可能であり、どうしても「意味」が生じることは避けがたく、それはまた必然的に「短歌的意味」として受領されることになるのである。だから次のような歌に出会うと、私の視線は表層の言葉の戯れにではなく、その背後に送り返す意味に向かうことになる。

 自転車で「不幸」をさがしにゆく少年 日は暮れてどの道もわが家へ 『ユモレスク』

 流刑星姿かわいい生き物をブタと名づけて喰う悲しみ         同

 文献は焼かれあるいは散逸しどの星もみな地球をなのる        同

 胸深く抱きとめてしまった鶏を放すため月に駈け登る伯父       同

 日常の安穏に不満な少年は不幸を探しに行くのだが、夕暮れの不安が迫ると足は我が家へと向かうという一首目は、甘酸っぱい青春歌の趣さえある。二首目はレイ・ブラッドベリの火星ものの短編を思わせる味わい。流刑地の星にいた生き物にブタと名づける行為は、不味い動物を我慢して食べるためのごまかしとも、余りに愛らしい動物なので罪悪感をごまかすためとも取れる。三首目もブラッドベリ風で、惑星移民史の意図的隠蔽の結果、どの星も人類の故郷である地球を名乗るようになったという皮肉である。四首目を例に取ってもう少し詳しく分析すると、「胸深く抱きとめてしまった鶏」という形象が定型短歌という「場」におかれると、それはもはや字義的意味に解釈されることはなく、定型の場の作用の結果、本質的な多義性の海をたゆたうようになる。この形象を定まった岸に繋留することはできない。この鶏が字義どおりの鶏でないとするならば、それを何物かの〈喩〉として解釈するという定型の場の圧力が、読者としての私の解釈を誘導することになる。「抱きとめてしまった」という措辞からは、「そうするべきでなかった」という言外の意が感じられる。だから「胸深く抱きとめてしまった鶏」は、例えば「何物かへの禁断の愛情」の〈喩〉となり、ここに高柳好みのブラッドベリ風の設定を加味するならば、「詩歌が禁じられた国」で禁を犯してしまった伯父の物語を私がこの歌に読み取ることを妨げるものは何もないということになる。言うまでもないがこれは多様な読みの一例に過ぎないし、作者が意図した意味だというわけでもない。そう読めてしまうということである。

 『潮汐性母斑通信』にも様々な言葉遊びや語呂合わせ短歌が並んでいるが、長いあとがきが意外にマジで驚いた。高柳はそのなかで、生まれなかった自分の兄について語っている。生まれなかった兄とは次のようなことである。蕗子が生まれたとき、父の重信は男の子の名前しか用意していなかった。明らかに男子の誕生が期待されていたのである。蕗子はその事実を知ったとき、生まれ損ねた兄に負けたという敗北感と同時に、自分の存在に対する不確定感を抱いたという。蕗子はこの消化しきれない感情と折り合いをつけるために、自らが抱く存在の不確定感を非在の兄に押しつけ、兄を向こう側に葬ることによって自分の誕生の正当化を図るという解決法を見い出した。これが次のような歌となって現われる。

 てのひらに星揉みこめばはきくまのいちばん弱い兄はけらいに  『潮汐性母斑通信』

 花野 ああ倒れ込むとき兄の胸が凍りながら鳴るアコーディオン  同

 傍受せり 裏の世に兄は匿われ微吟する「二一天作ノ五」     同

 両親の全的存在承認を得ることができない子供の不全感と、それを想像上で解消するために考案された非在の兄という物語は、わかりやす過ぎるほどである。しかし、このトラウマが高柳の作歌の原動力となっていて、すべての歌がこのトラウマとの関係で読まれるべきだというような、俗流フロイトの単純な図式ではもちろんない。生まれ損ねた兄の影が揺曳する歌が散見されるということにすぎないのだが、「コトバ派」の歌人だと思っていた高柳に、このような一面があるのは意外と言えば意外である。

 最後に特に印象に残った歌をあげておこう。これらの歌には「言葉の戯れ」を遙かに超えて、短歌的意味が感じられるのである。

 いつの日か命取りとなるその音痴海図の上で爪切る船長       『ユモレスク』

 人類の長い余生の庭先に夢見心地に卵抱く鳥             同

 不倒翁みごと魚腹に葬られ 水の中ではおくれる喝采         同

 花を摘む花占いにみせかけてパパの昔の恋人ちぎる          同

 生涯を逆さに辿る長い夢終えた死者から海底を離れ         『回文兄弟』

 一度でも人のこころに触れたものは燃やせばわかるどーりーどーりー 『潮汐性母斑通信』

 忘れられた兄よ 母を泣く黒服に混じって一人まっぱだかの月     同

 穂波 このさきに心臓ひとつもなしと聴診器を胸から掴み去る     同

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079:2004年11月 第4週 江田浩司
または、短歌表現の可能性を実験し続ける憂鬱な胎児

予言者の闇には時の星座あれ
       蒼き髪より蝶を発たしむ

    江田浩司『メランコリック・エンブリオ』(北冬舎)
 江田浩司の『メランコリック・エンブリオ』は問題歌集である。第一歌集でありながら、総計33句と903首を収録したその物量感がまず尋常でない。ふつう第一歌集を上梓するときには、それまでに書き溜めた歌のなかから類想歌を削り、取捨選択という自己選歌の過程を経て、歌数を絞って出版するものである。結社主宰みずからによる選歌のケースもあると聞く。この過程を経ることで完成度の低い歌を捨て、歌集の水準を高めるのである。しかるに江田の第一歌集には、たとえ類想歌が多くなろうともあえて捨てずに、とにかくまるごと提示したいという情念が感じられる。

 江田は1959年生まれで「未来」会員。栞文には、岡井隆、谷岡亜紀、藤原龍一郎が寄稿している。岡井は別格として、谷岡・藤原は江田の短歌世界を批評する歌人として、これ以上はないと言ってもいいくらい適任なのだが、そのふたりですら江田の短歌世界の多面性を扱いかねている、といった風情である。この歌集は6部構成を取っており、それぞれ傾向のはっきり異なる歌群から構成されている。順を追って見てみよう。

第一部

 憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる

 骨きしむ音にかあらん自己愛は蹌踉として汝にしずめり

 ゆうごりの霜の沙庭に翼おく一条の陽にさざんか散りぬ

 第一部には、江田が近代短歌の遺産を十分に咀嚼し継承していることを示すように、極めて上質の抒情を内包した歌が並んでいる。近代短歌だけではなく、古典和歌の技法をも自家薬籠中のものとしていることは、三首目「ゆうごりの霜の沙庭」を見ればわかる。「夕凝り」と漢字で書かず「ゆうごり」と仮名で書くことで古典臭を薄め、和歌言語を現代風に衣裳変えする試みも注目に値する。他にも「さらしい」(晒し井)、「なみくもの」(波雲の)、「あさはふる」(朝羽振る)などがあり、思いつきではなく計画的な試行であることがわかる。なかには「夕空の櫂こぎゆくは月草のかりなる命曳きゆくわれら」のように、現代では使用例の少ない「月草の」のような枕詞すら見られる。もし第一部に収録された歌だけを読んだならば、江田は古典和歌から近代短歌までの技法を継承する、歌壇のお覚え目出度い模範的歌人かと思われるほどである。

  ところが第二部になるとこの印象は一変し、江田は本来の反逆児の相貌を露わにする。

第二部

 処刑の朝目で射る楕円 崩れゆく思想笑いてしずみゆけり

 雲を喰う雲の苦しみ菜の花色にともす思想よ血まみれの鳥

 十三人目の使徒は革命を身籠れり祖国に向けて白き歯を剥き

 「思想」「革命」「形而上」「意味」などの生硬な漢語が多用されて、歌は一気に強い観念性の磁場を帯びる。それと同時に五七五七七の三十一音に収まらない破調の歌も多くなる。第二部のトーンをよく示すのは、「濡れた翼を持ちて被わんとぼろぼろな俺に跪座する妻よ」のような歌だろう。第一部では隠されていた一人称の「俺」が顔を出すが、それは観念に蚕食され思想的煩悶に身悶えする「俺」である。古典和歌風の予定調和的抒情は振り捨てられて、未消化な観念を吐き出すような歌が並ぶ。

 この傾向は第三部においてその頂点に達する。第三部は歌集の題名ともなった「メランコリック・エンブリオ」50首から始まっている。

第三部

 パラダイムから解き放たれし寒卵メタフォリカルな自慰に固執す

 難解な排卵 天体の運行に嗅ぐ少女の瞑想…………氾濫

 首を切る やはり僕の手、私生児を慰めるイコン、死にそうな馬

 一読してわかるように、近代短歌の技法は解体されその痕跡すら留めない。すべて破調の歌であり句切りすら不可能な語彙の連鎖となっている。第三部はおそらく江田の試みた最も実験的な部分であり、後述するがこの実験は現代詩の試みを抜きにしては理解できないだろう。

 第四部になると、あやうく解体されそうになった短歌の姿は元に復して、短歌的文脈で読める歌に戻る。

第四部

 肉感はそのままにして象形の淡き疼きをシーレ屠れり

 帰りゆく家がおぼろに意味を編み制度の馬は嘔吐激しき

 夜の落葉一枚が刻む民族を幻想しつつ楽は果てたり

 第四部に頻出するのは固有名である。スーチン、シーレ、パスキン、ルシアン・フロイド、デレク・ジャーマン、メイプルソープ、ジャクリーヌ・デュ・プレなど、いずれも重い芸術的宿命を背負った人たちであり、江田はこれらの芸術家に心を寄せることで自己の思想の試金石としているのだろう。

 次の第五部は一転して生活歌・境涯歌の世界となり、歌意をたやすく理解できる平明な歌が並んでおり、あまりの落差に驚くほどである。

第五部

 黒葡萄もぐように取る靴下に洗剤の香ははつか薫りし

 春霖の細かき粒を身にまといしつばめは命まかがやくかな

 つばくらよそぼ降る雨にしずくするおまえの視界にわれら抱き合う

 中学高校一貫校の教師をしているらしい江田の「父兄との押し問答をするうちにへそのあたりが痒くなりたる」のような職場詠すら散見され、歌が作られる場がはっきりと見える。

 第六部は「神々の手淫」と題された153首の連作である。

第六部

 黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声

 声からは人消えゆきてかなしくも逃散をする月の光の

 月の光燃える魚類の劇場の鰭の冷たさ冬の森呼ぶ

 結句の一部を次の歌の初句に取り込むしりとり形式の連作で、「寒晴れの光の中を歩みたる片耳の犬 わたしは飢える」から始まり、最後の「自慰をする葉脈のような日記から救われ難き過去は寒晴れ」で最初の歌に戻り、全体が円還構造をなす壮大なものである。力業であり、ジャブのように自在に言葉を繰り出す江田の能力は異能と言うほかはない。

 ふつう歌集を批評する場合、その歌人の資質を最もよく表わす歌を数首引き論評することで、その歌集が構築しようとした世界の特質を活写できる。しかし江田の場合には、作歌方法も、意味と韻律のバランスも、定型と破調の割合も、六つの部ごとに大きく異なる。どれが本当の歌人江田なのか。おそらくどれもが江田なのであり、その振幅の大きさと多面性をまるごと提示したところに、この歌集の問題性があるのである。

 では江田がこの歌集で試みた実験とは何だろうか。それは短歌における言語の役割を反転させようとしたことではないだろうか。

 小説のような散文と、俳句・短歌のような韻文とでは、素材たる言語の持つ機能が異なる。その違いは主として、言語機能全体のなかで占める「意味」の比重に関わると考えてよい。散文の言語は意味を伝達することが主たる任務であり、描写により意味を塗り重ねて行くことによって、作品世界を構築する。小説のような散文においては、「意味」は作品という建物を建てるレンガであり漆喰であり、小説はこの意味で「シニフィエの城郭」である。読者は小説の描写が分泌する小さな意味の積分を反復し、一巻を読了した時点で大きな意味を発見する。もちろん小説のなかにも、意味に還元されることに抵抗し、記憶に残る印象的な像はある。例えば『失われた時を求めて』の紅茶にマドレーヌを浸すシーンなどその典型だろう。しかし、その像は独立して存在しているのではなく、プルーストの記憶をめぐる物語の要としての意味を担う形で、小説全体の意味の一部として取り込まれ、その内部で機能する。

 一方、俳句・短歌などの韻文における言語は、言うまでもなく意味のみの伝達をその第一義としない。それは最短詩型の俳句を見ればすぐにわかることである。

 鬼百合が蜜ため朝の駅燃える  坪内稔典

 蜜を溜めた真っ赤な鬼百合が咲き乱れ、朝の駅をまるで火事の現場のように見せている。その描写自体は何か特定の意味を伝えようとしたものではない。ここでは咲き乱れる鬼百合を「燃える」と表現することで、読者の脳裏の網膜に投影される情景の「強度」が問題なのであり、そこに「蜜ため」が加わることで加算される秘密性とほのかなエロスが、一句の読みのすべてである。俳句は「形象性の文学」であり、一句が脳裏に結像するイメージの強度がそのまま「感性的な意味」であり、論理的な意味だけをそこから単離することはできない。短歌においてその役割を果たすのが「喩」であることは言うまでもない。

 青春のをはりを告ぐる鳥の屍(し)の掌にかくばかり鮮しきかな  小池光

 フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう  加藤治郎

 ここには鳥の死骸という〈物体〉と、「青春期の終わりを迎える戦き」という〈観念〉すなわち〈意味〉があり、一方が他方の「喩」となる関係がある。鳥の死骸そのものには意味はなく、また即時的物象として存在しているわけでもない。鳥の死骸は〈観念〉すなわち〈意味〉の「喩」となることで、この一首により最終的に感得される感性的意味作用に参加するのである。このように〈物体〉と〈観念〉とが互いに映し合うという相互関係が歌の世界を浮上させ、そこに形象化された感性的意味を作り上げる。その感性的意味は、日常言語の伝達する〈意味〉ではもはやない。大まかに言えばこれが短歌の語法であり、短歌における言語はこのような感性的意味の形象化をその職能とする。加藤治郎のように、意識的に短歌の語法の拡大を試みてきた歌人においても、同じことが言えるのである。

 江田の実験はこの物体と観念の互いに映し合うという関係を壊し、物体と観念を同じ地平に強引に並置し、そこに生じる〈物体の歪み〉、〈観念の引き攣れ〉から生じる歪んだ磁場を弾機として、己の短歌世界を立ち上げようとするものだと思われる。

 光の煮凝り虚偽の実験室に一羽の鳥が…………触る肋骨

 林檎に青空が落ちる 動かない木・考える時間・死にはしない

 ダ・ビンチ世界は曲がる、はじめに足がない霧の部屋にて

 一読してわかるように、これらの歌は結像力が極めて低い。読んでいて何かの情景を思い浮かべることもなく、全体としてひとつのイメージに収斂することもない。短歌が詠まれた場がまったく見えないことは言うまでもない。だから、栞で藤原龍一郎が言うように、「読者は言葉の孕んでいる熱量に圧倒されながら、混沌に意味を読み取る努力を続けなければならない」ということになり、結果として「頭が痺れる」わけである。読者にとって親切な歌の作り方とはとても言えないのだ。

 このような〈物体〉と〈観念〉の同じ地平での並置は、現代詩の手法であることにふと気づく。

   皇帝

 石の中に眼がある 憂愁と倦怠にとざされた眼がある
 その人は黒衣をきて私の戸口を過ぎる 冬の皇帝
 淋しい私の皇帝 ! 白皙の額に文明の影をうつし欧州の墓地まで
 歩いて行く 太陽を背中に浴びて あなたの自己処罰はいたいた
 しい                 
                 田村隆一『四千の昼と夜』

 このように何の前置きも場面設定もなく、いきなり〈物体〉と〈観念〉が混在するコトバの世界に引き込むのが現代詩の常套手法である。現代詩においては短歌と異なり、描写された物体と観念・意味との間に、互いを映し合う喩的関係は成立しない。それは日本語の現代詩が、本来の意味における韻文ではなく、言語の機能から見れば散文だというところに原因があるのだろう。

 三枝昂之は「一回性の〈意味〉の屹立」(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)という文章のなかで、清水昶の詩集『新しい記憶の果実』から「開花宣言」を選び、その一部を短歌として翻案改作し、何が変容するかを観察するという興味深い実験を試みている。その結果わかったことは、詩のなかで意味を発信している部分を短歌に移し替えると、その意味をそのまま意味として定着することが困難だということである。意味を担う一行は、短歌の韻律が形成する詩的秩序に放り込まれると、何物かの喩として解釈されることで一種の多義性のなかをたゆたうようになる。これが三枝の結論である。

 この実験結果を念頭において、再び江田の実験的短歌を見直してみると、江田はこのような歌のなかで、物体と観念とが互いに喩的関係を持つという短歌的な言語のあり方そのものに挑戦し、喩的関係を拒むように物体と観念を並置することで、一首に強い意味的磁場を形成することを目的としているということがわかるだろう。だからこれは現代詩の手法の短歌への導入なのであり、俳句・詩・短歌とさまざまな文芸ジャンルに幅広く精通している江田ならではの試みなのだとも言える。江田が現代詩にも通じていることは、「風呂桶を洗いて身たる幻はサフランを摘む僧になる俺」という歌をみればわかる。これは現代詩の金字塔にして難解な、吉岡実の『サフラン摘み』へのオマージュである。

 歌集題名の『メランコリック・エンブリオ』は「憂鬱なる胎児」という意味だという。それは作者の内部に生まれ育った得体の知れない生き物の謂であり、自己の内部への過剰なこだわりの象徴である。江田が従来の短歌的語法に満足せずこのような実験を試みたのは、内に巣くう「内なる他者」に言葉を与える器として、近代短歌の語法では十分ではないと感じたからに他ならない。しかしこの実験はまだ実験に終っていると見なさざるをえないようだ。作者自身があとがきに書いているように、「内部の他者」から「外部の他者」へと出会う通路を見つけるには、まだまだ江田は孤独な道を歩まねばならないようである。

078:2004年11月 第3週 冷蔵庫の歌

冷蔵庫内に霜ふり錐形の
     死の眠りもて熟るる苔桃

               塚本邦雄
 広く普及している家庭用電化製品のなかで家事に関係するものといえば、冷蔵庫・洗濯機・掃除機が代表的だろう。このうち短歌の題詠で登場することの多いのは冷蔵庫である。『岩波現代短歌辞典』も冷蔵庫のみを見出し語として立項している。洗濯機にも次のような秀歌はあるが、歌に詠まれることはずっと少ない。掃除機もたぶんあるのだろうが思いつかない。

 昏れどきの人らかへりみぬ店先に洗濯機はゆたかなる水を揉む 田谷鋭

 冷蔵庫も洗濯機も韻律的には5音なので、歌への収まりのよさという点でちがいはないのだから、この頻度の差は両者の喚起するイメージの差に起因すると考えてよい。また家事に関係する電化製品のなかで、冷蔵庫はいちばん男性に身近だということも理由のひとつだろう。掃除機など触ったことのない男でも、冷えたビールを取り出すために冷蔵庫は開けるのだ。

 昔の冷蔵庫は木製で内側に亜鉛板が張られており、いちばん上に氷を入れて冷やしていた。氷屋が玄関先を通りかかるのを呼び止めて氷を買う。氷屋は炎天下大きな鋸で氷を適当な大きさに切って売ってくれる。台所の木製の冷蔵庫は開けると独特の匂いがした。母が和服を着て割烹着姿だった時代の話である。

 イメージの豊かさと象徴性において、確かに冷蔵庫は電化製品のなかでは群を抜いている。言うまでもなく内部を低温に保ち食品を長期貯蔵するというのが冷蔵庫の目的なのだが、この目的のための形状と機能とが期せずして豊富なイメージの源泉となった。四角い形状と低温という環境は、棺桶との連想から死のイメージと結びつく。また低温貯蔵は動物の冬眠を思わせるところから、眠りや昏睡のイメージとも結合する。塚本邦雄の掲出歌はこのイメージを利用したものであり、「死の眠り」は死んだような深い眠りとも、深い眠りのような死とも解釈できるだろう。

 このように豊富なイメージを生み出す理由は、冷蔵庫に「内部性」があるという特徴に求めることができる。冷蔵庫にはドアがあり、ドアを閉めると「内部」は「外部」から遮断される。こうして形成された秘密の「内部性」は、中に何かが「隠されている」という対象把握を促しやすい。洗濯機や掃除機に欠けているのは、この「内部性」だと言ってよいだろう。

 さて冷蔵庫の内側には、冷凍庫・肉魚ケース・野菜ケース・ドア裏の瓶立てなど、使用目的に応じたさまざまな部分があるが、なぜか歌人たちはドア裏の卵ケースに注目することが多いようだ。

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆

 冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり  大滝和子

 はじめから孵らぬ卵の数もちて埋めむ冷蔵庫の扉のくぼみ  林和清

 架空家族の氷庫につねにうつろなる卵置場の十二個の穴  古谷智子

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘

 穂村の歌を除きこれらの歌は共通して、本来は命を育むはずの卵が無精卵として冷蔵庫に収まっているという事実に着目している。工場のような鶏舎で生産され運ばれて来る無精卵は、現代における生の無効化や虚しさの象徴である。なかで大滝の歌は、白い卵の整列を墓地に林立する墓碑に見立てている点に、類歌と少し異なる視点が感じられる。また古谷の歌は、卵置場にあるはずの卵がなく、空虚なくぼみだけが並んでいるという場面を捉えることで、見せかけだけの崩壊家族の家族的内実の不在を暗示している点がおもしろい。

 次にあげる歌は、冷蔵庫が何かを貯蔵する場所だという点に焦点を当てたものである。WWWとある歌は、『短歌、WWWを走る』(邑書林)の題詠「冷蔵庫」から引用した。

 たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて  島田幸典

 切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ  佐藤りえ

 冷蔵庫の薄暗がりに初恋のひとりをしまふ、食器らとともに  大辻隆弘 (WWW)

 アクリルの箱にきっちり詰め込まれ憎悪はそっと冷蔵庫の奥  五十嵐仁美 (WWW)

 腐らないように低温貯蔵するのが冷蔵庫の役割なのだが、歌人たちはそんな本来の目的とは関係なく、ずいぶんいろいろな物をしまうものだと感心する。冷蔵庫に物をしまうとき、私たちは扉を開けた冷蔵庫の前に跪くことがある。この姿勢で物をしまうと、まるで祭壇に捧げ物をしているようになる。島田の歌ではしまうのは梨であり、それ自体は日常ありふれたことだが、それを「たましいを預けるように」と表現したところに日常を超えた宗教的希求のようなものを感じさせる。こう表現されたとたん、冷蔵庫はあたかも霊安室のような相貌を呈するのである。佐藤の歌ではプリンスメロンだが、「冷蔵庫上段のひかりへ」という下句の表現に、光とキラキラ感にこだわる佐藤の面目が現われている。ふつうならば「光る冷蔵庫の上段へ」しまうのだが、それが「冷蔵庫上段のひかりへ」と表現されると、一句の意味の焦点は光そのものに移行する。意味の焦点のこのような微細なずれを断機として、日常のコトバは詩のコトバへと浮上する。こうして佐藤の歌にもまた、日常を超えたせつない希求が感じられることになる。大辻の歌の「初恋のひとり」を文字どおり人間だと解釈すると、かなりホラーになってしまう。確かにアメリカのジェネラル・エレクトリック社製の大型冷蔵庫ならば、人間ひとりを収納することもできるが、大辻の「初恋のひとり」は比喩と解釈すべきだろう。ただし、「食器らとともに」というのがひっかかる。食器をしまうのは食器棚であり、冷蔵庫に食器だけをしまうことはない。もちろん残り物の入った食器ごと冷蔵庫にしまうことはあるが、それだと初恋のひとり〔の記憶〕が残り物の入った食器と並ぶことになり、どうもまずい気がする。最後の五十嵐の歌では冷蔵庫を憎悪の隠し場所にしているようだが、歌のなかで「憎悪」とはっきり表現してしまうのは作歌技法から言ってよろしくない。短歌は表現されずに隠されたもので生きる詩型である。憎悪とははっきりと表現せず、憎悪を仮託した形象を冷蔵庫にしまうとすべきだろう。

 以上あげた歌は、冷蔵庫のなかに何かをしまうという発想から作られたものだが、冷蔵庫のなかにもとから何かが入っているという前提からの発想もありうる。例えば他人の家の冷蔵庫には何が入っているかわからない。引っ越しした家に前住者が冷蔵庫を置いていったとしたら、何が入っているか知れたものではないので、これはかなり不気味である。次の歌はこのような発想から作られたものだろう。

 干からびた肉といつしよに見つかつた古いともだち冷蔵庫の中  村本希理子 (WWW)

 冷蔵庫の奥になにやら居座って恨めしそうに私を見てる  丸山進 (WWW)

冷蔵庫は忘れたいものや隠しておきたいものを隠匿する場所であったり、何か不気味なものが居座っている場所であったりする。冷蔵庫の「内部性」が秘密や犯罪と通底するところから生まれたイメージであることはまちがいない。

 冷蔵庫を詠んだ歌を通観してひとつ興味深いと感じたことは、冷蔵庫の内部性を闇と捉えた歌と、光と捉えた歌におおきく二分されるということである。上にあげた歌でもすでに、島田はあさい闇、大辻は薄暗がりと「闇」系統なのにたいして、佐藤は「光」で対照的な捉え方を見せている。次の歌もそうだ。

 薔薇朽ちるまでの淫雨に次ぐ淫雨冷蔵庫から光は漏れて  嵯峨直樹

 真夜中に開けたらだめよ冷蔵庫は薄墨色の虹を吐くから 久哲 (WWW)

 冷蔵庫の扉をあける 仏壇はいつも暗くてどこか冷たい  西橋美保 (WWW)

 嵯峨の歌は今年の短歌研究新人賞受賞作から。雨に降り込められた暗い室内に漏れる冷蔵庫の光は、冷たい輝きながらもどこか救いを暗示する光のようにも見える。久哲の歌はよくわからないが、冷蔵庫の中では夜中に人知れず不思議なことが起きているというイメージと、内部の光から虹という連想が働いたものと思われる。西橋の歌は冷蔵庫と仏壇をイメージの世界で並置したものであり、死と闇系統の把握そのままである。

 冷蔵庫の内部性を「闇」と捉えるのは、おそらく自分が昼の世界にいて外から冷蔵庫を見ているからだろう。このとき、冷蔵庫の内部性には往々にして負の価値が付与され、内部性が外部性に転じたときに〈私〉が脅かされるか、〈私〉の隠しておきたい側面が露呈するという位相で捉えられている。これに対して内部性を「光」と捉えるのは、夜の暗い台所で冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいるからである。つまり、ここでは〈私〉は夜の世界にいて、冷蔵庫の中から漏れる光を憧憬している。内部性には正の価値が付与され、〈私〉の慰藉や救済を暗示するものとなる。どうやら歌人はこのどちらかのスタンスから冷蔵庫を眺めるようで、興味深い。

 なかには上にあげたものとは少しちがう歌もある。

 せつなさに変化してゆくピーナツバターは冷蔵庫の片隅で  佐藤りえ

 だめになった食品たちを眠らせて夏のしずかなる冷蔵庫   同

 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは  玲はるな

 「心配して言っているのさ嘘じゃない」冷蔵庫には真冬のキャベツ  村上きわみ

 佐藤はよほど好きなのか、冷蔵庫の歌をたくさん詠んでいる。冷蔵庫は低温で長期貯蔵を可能にはするが、食品が変質し腐敗することを止めることはできない。ただその過程を遅らせるだけである。この点に着目すれば、冷蔵庫は徒労と無力感の象徴となる。佐藤の二首で冷蔵庫が不毛性の象徴として詠われているのはこのためだろう。これに対して玲の歌は、恋人の都合のよい時にだけ声を掛けられ、それ以外の時は忘れられている自分を冬の製氷皿に擬したものであり、視点がユニークだと言える。村上の歌は少々わかりにくいが、上句の台詞と下句の事実描写が互いに裏切りの関係に置かれている点がポイントなのだろう。真冬は本来はキャベツが収穫できない時期である。だから冷蔵庫に納まっている「真冬のキャベツ」は、上句の台詞がその言明とは裏腹に嘘であることを暗示していると解釈できる。

 最後にまったく異なる発想からの歌をひとつあげよう。

 天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスに揺られとります  斉藤斎藤 (WWW)

 歌集『渡辺のわたし』で才気を見せた斉藤斎藤の歌である。「天然の冷蔵庫」とは、山の冷気や川べりの涼しい風を言うのがふつうである。窓を開け放した市バスに入る空気は、都市熱で暖められた空気であり、とても天然の冷蔵庫とは言えないのではないかという疑問が残りはするが、斉藤本人の父と自分との関係の複雑なねじれを歌集から読み取った者には、腑に落ちるところがあるかも知れない。冷蔵庫の題詠で冷蔵庫そのものを詠むのではなく、「天然の冷蔵庫だな」という科白を介した人間関係を詠んだところ、なかなかの才気と言えよう。