051:2004年5月 第2週 石川美南
または、世界を異化し続けるアヤシイ短歌

カーテンのレースは冷えて弟が
    はぷすぶるぐ、とくしやみする秋

         石川美南『砂の降る教室』
 いやはや大変な才能を持った人が現われたものだ。同人誌『レ・パピエ・シアン』の「今月の一首」で紹介されていた石川美南の数首の短歌を初めて見て「ン?」と思い、歌集を買って一読し感心してしまった。最近の若い人の短歌の例に漏れず、口語と文語の混在した言葉遣いで何気ない日常を詠んでいるので、最近流行のライトでポップな短歌かと思ったらそれはまちがいである。この人にはそこに還元できない何かがある。栞文を書いた水原紫苑はそれを「石川美南の怪しさ」と表現しているが、確かにそうなのである。

 どれほど怪しいか、特に怪しそうなのを何首かあげてみよう。

 わたしだつたか 天より細く垂れきたる紐を最後に引つぱつたのは

 隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな

 始業ベル背中に浴びて走りにき高野豆腐の湿る廊下を 

 茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして

 噂話は日陰に溜まりひやひやと「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」

 夕立が世界を襲ふ午後に備へて店先に置く百本の傘

 窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ

 石川は1980年生まれ。あとがきには短歌を作り始めて7年とあるから、逆算すると16歳の高校生の頃から作歌をしていたことになる。特定の結社には所属していないが、早稲田の水原紫苑の短歌ゼミで学んでいる。2003年に東京外国語大学を卒業していて、ホームページには就職活動に題材を採った歌が掲載されているので、首尾よく就職していれば社会人になりたてという若い人なのである。

 もし水原の言うとおり石川の短歌が怪しいとするならば、その原因は理論的にはふた通り考えられる。歌を作る主体としての石川が怪しいヒトだからか、短歌に詠まれた世界が怪しいからかである。怪しさのよって来たる根拠を、〈主体〉の側に求めるか〈客体〉の側に求めるかということだ。歌から読みとる限り、石川本人にはまったく怪しいところがない。極めて健全でまっとうであり、文学青年(少女)にありがちな自虐的なところがなく、自己演出もない。舌にピアスをしたり、カミソリでどこかを切ったりする気配のない人である。

 オジサンの目から見れば、青年期の文学がそのエネルギーを汲み出す泉は次のいずれかである。その一〈自我への懐疑〉。適用例:「私は何ものか」「ほんとうの私はどこにいるのか」、よくある結末:インドかネパールに旅立つ。その二〈世界のなかで自己が占める位置に対する不全感〉、適用例:「どこにも自分の居場所がない」「私はこんな世界に生まれて来るはずではなかった」、よくある結末:夜中に学校中の窓ガラスを叩き割る。その三はその二の裏返しで、攻撃性が世界に向けられた場合である。適用例:「オレを正当に扱わなかった世界に復讐してやる」 先週取り上げた〈暗い眸をした歌人〉高島裕の短歌には、この世界憎悪が強く感じられる。その四は恋愛で、これは説明不要だろう。青春期にもっとも魂を揺り動かすのは恋愛体験である。ところが石川の短歌には、上に列挙したどれにも該当するものがない。

 それでは理由を客体の側に求めるとして、世界が怪しいかどうかは、一概に決められるものではなく、見る人の視線に依存する。だから石川の短歌の怪しさは、ひとえに石川が世界を怪しく見る視線のなかに存在することになる。その謎を解く鍵は歌集のあとがきにある。深夜、東海道線の列車に乗っていると、ぬるりとした空気が車内に漂い、前に立つ人のうしろには犬の尾のようなものが見え、隣に座っている人の手には鱗のようなものが光っていて、自分にもたれかかって眠る人の顔がいつのまにかトドの顔になっているという文章である。石川はこんな風に世界を見るのが好きなのだ。これはつまり〈世界を異化する感覚〉である。石川の短歌は、作者のまなざしによって異化された世界を描いているのである。石川の短歌が怪しいのはここに理由がある。

 上にあげた歌をもう一度見てみよう。一首目の「天より細く垂れきたる紐」とは何だろう。何かはわからないが読者は「やってしまった」感とともに宙ぶらりんに残される。二首目、早口言葉の「隣の客はよく柿食う客だ」を言い間違えると、こんなにシュールな世界になる。石川が好む「異化」による世界の転倒は、この歌に遺憾なく発揮されていると言える。三首目は学校風景を詠んだ歌だが、廊下に高野豆腐とは比喩としても奇抜である。ほんとうに高野豆腐が落ちていたらもっとすごい。四首目は「完全茸狩りマニュアル」と題された連作のなかの一首で、この連作は石川の異化作用がとりわけ強い。茸が月見をしているというのはメルヘン調の童話的でまあいいとして、自分がそこに招かれており、しかも自分に毒があるというのは、完全な主客転倒である。五首目、近所の噂話としても「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」というのはどこか変である。ちなみにこの歌は「日陰に」「ひやひや」の語頭の「ひ」の繰り返し、「百合」「匂ひ」「嫌ひ」の語末[i]音の連続が心地よいリズム感を作り出している。六首目、古本屋の店先に百本の傘はどう考えても異様である。七首目は水原も特に好きな歌としてあげているが、このメルヘン風を装った怖さはどうだろう。それにエミールって誰だ? 

 石川の短歌のもうひとつの特徴として、言葉と擬音語のきわめて意図的な使用がある。これを押し進めると、次のような言葉遊び的短歌になる。

 はらからがはらはら泣きて駆け戻るゆめよりさめて歯の奥いたむ

 恋人を連れて歩けるひとを見しみしみしと染みてくる空のいろ

 にこにこと笑ふばかりの兄上はにまめにまいめお別れにがて

 掲載歌もくしゃみの擬音を「はぷすぶるぐ」としたことに面白みがあるのは言うまでもない。こういう歌を見ていると、永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」を思い出してしまう。永井が作るのも見立てとウィットに富む短歌だったが、石川の短歌世界はどことなく永井の歌の与える感覚に通じるところがある。言葉なんかどうでもいいから世界と関わりたいというのではなく、〈世界を見るプリズム〉として言葉を大事にする態度があり、時には見ていたはずの世界の影が薄くなって言葉だけが中空に残るという感覚である。

 もちろん集中には、言葉遊びでもなく世界の異化でもなく、次のようないかにも短歌的な短歌もあり、これはこれでなかなか美しい。

 いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へていたり

 梨花一枝春ノ雨帯ビ ゆふはりと忘れゆきたる人の名ありき 

 花びらの残骸積もる路地ありて真昼ちひさき古書店に入る

 ところでなぜ世界を異化して眺めるのだろうか。動機にはふたつあるように思う。〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉である。前者は異化して眺めることによって現われる世界の異相を楽しむ感覚であり、後者は世界をあるがままに見るのが怖いので異化して見ることで自己を防衛する態度である。石川のホームページの「就活を詠む」にある「玉ネギにすこし似てゐる社長にてネギが説明してゐる社風」などを見ると、買手市場の就職戦線での自己防衛という動機も少しはあるのかなとも思うが、基本的には石川は「そう見える」ことを楽しんでいる。それがこの歌集の明るくのびのびとした印象につながっているのだろう。自己の内部に鬱屈して屈み込む歌が一首もない。

 人生の猶予期間である学生時代を卒業し、社会人になった石川がこの先どのように世界を異化して眺めるのか、なかなか楽しみなことではある。そう思わせてくれる第一歌集だ。

石川美南のホームページ

050:2004年5月 第1週 高島 裕
または、首都赤変を幻視する遅れて来た思想歌人

撃ち堕とすべきもろもろを見据ゑつつ
        今朝くれなゐの橋をわたらな

      高島裕『旧制度(アンシャン・レジーム)』
 高島は1967年生まれで、「未来」に所属して岡井隆に師事している。富山から京都に出て、立命館大学で哲学を学ぶ。東京に住んでからは職を転々として短歌を書き続けているらしい。『旧制度(アンシャン・レジーム)』は第一歌集。既に第二歌集『嬬問ひ』、第三歌集『雨を聴く』を上梓している。

 この歌集に収録されている連作「首都赤変」は、1998年の短歌研究新人賞選考会で候補となったのだが、その時推したのは塚本邦雄で、後に藤原龍一郎が時評で好意的に取り上げたという。岡井隆、塚本邦雄、藤原龍一郎と名前を並べてみれば、どのような歌風の歌人か伺い知れるというものである。ここに福島泰樹の名前を加えてもよい。高島はその期待を裏切らない、現代には珍しい「思想歌人」なのである。

 話題になった「首都赤変」から引いてみよう。

 蔑 (なみ)されて来し神神を迎えへむとわれは火を撃つくれなゐの火を

 空ふいに赤変したり神神はなほ黙しつつ中天に佇ち

 銃声の繁くなりゆくパルコ前間諜ひとり撃たれて死にき

 森の上 (へ)にふと先帝の顕ち給ふ苦悶のごとく微笑のごとく

 飢ゑはつのり指揮はみだれつつコミューンは己が内よりくづれ初めにき

 断片的な言葉を拾ってつなげて見れば、どうやら近未来の首都東京に勃発するアナキストの武装蜂起からその崩壊までを描いたものらしいと読みとれる。しかし、「先帝」が森の上に現われたり、神が登場したり、その提示するイメージは重層的で単純ではない。首都が炎に包まれて破壊される様子は、どことなく『新世紀エヴァンゲリオン』や大友克洋の『AKIRA』を思わせるところもある。

 巻末に置かれた岡井隆の解説には、高島は「暗い眸をして、わたしの前にあらはれた」とある。暗い目をしているのは、身内に出口のない情念を秘めているからである。その情念は高島の歩んで来た思想的来歴と無縁ではなかろう。次のような歌がある。

 代々木駅過ぎて一瞬くれなゐの旗なびく見ゆ涙ぐましも

 つづまりはわが望みたる冬なれば気高く靡け不可能の旗

 かくして、高島は自らの思想の果てに、蜂起と破壊を待望し幻視する。集中に頻出する単語は、「地震」と「火の雨」である。若者は災厄による破壊を熱望するのである。

 いなむしろ獅子のごとくに少女らが踏み住く首都に地震(なゐ)、地震を待て

 斃 (たふ)れてなほ機銃掃射は君に降る臓腑を穿つ雨よ火の雨

 熱く激しく思想を詠う短歌は、60年安保闘争と70年代の大学紛争を契機として多く作られた。岸上大作、岡井隆、福島泰樹、三枝昴之、道浦母都子ら思想を詠った歌人は、政治的闘争の渦中に身を置いていた。そこには確かに短歌の「同時代性」があった。これに対して1967年生まれの高島は、〈はるかに遅れて来た思想歌人〉である。だから高島は蜂起と体制転覆をヴァーチャルに幻視することしかできない。高島の短歌が、革命を夢見る青年の熱い血潮をまっすぐに詠うものではなく、終末感の漂う苦く屈折したものになるのはこのためである。また『新世紀エヴァンゲリオン』や『Akira』の世界とどことなく似ているのも、高島の描く世界が現実の体験から構成されたものではく、あくまで想像力が生みだしたヴァーチャルなものであるためなのだろう。

 高島の短歌に日常性は希薄であり、自らの思想と情念を詠うことが主眼なのだから、写実的要素は少ない。とはいえ短歌は〈私性の文学〉である以上、自己が投影されないということはない。

 屈まりてガム剥がしゐるときのまをやさしき脚のあまた行き交ふ

 洗剤といへどブルーの清しきををりをりは見つ棚を仰ぎて

 夏刈りし坊主頭の伸びゆくは刑期満ちゆくごとし、触(さや) りて

 母上は萎みたまひぬ厨着の白おほらかに遠き日はあり

 最初の三首は清掃作業員として労働している日々を詠ったものであり、最後の一首は故郷に帰った時の歌である。いずれも姿の美しく破調の少ない歌となっている。高島の短歌は、モチーフの特異性に比較して、短歌技法としては文語定型で古典的といってもよい作りである。

 巻末の解説で岡井隆は高島に直接語りかけるように、三つの注文をつけている。そのうちのひとつ、「思想は、必ずしも、思想用語や散文的なメッセージによつて言ひ表はされはしない」という苦言は、岡井の口から出たものだけに重いものがあると言えよう。三枝昴之『うたの水脈』によれば、岡井が短歌においてめざしたのは、「高次の認識次元から、逆過程をたどって感性的な認識次元に下降し、感性言語を一つ高い次元から新しい秩序にまで再組織することによる、感性的な表現方法」だからである。難解な表現になっているが、誤解を恐れずに解説すれば、「思想を思想の生硬な言葉で詠うのではなく、感性の言葉に置き換えて詠うのが短歌としての行き方だ」ということだろう。このような方法論から産み出されるのは短歌史に名高い岡井の次のような歌である。

 海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ 『朝狩』

 岡井のこのような方法を三枝は「思想の感性化」と呼び、これによって「一国の政治に関する大テーマも、眼前のありふれた一本の樹のたたずまいも、台所に沸き上がる牛乳の表情も、すべて地続きの修辞学」にすることが可能になり、第二芸術論も戦後も踏み越えて現代短歌になったと断じている。岡井が高島に注文をつけたのは、高島の歌の多くがまだ〈思想の歌〉の次元にとどまっており、十分に短歌的感性の地平に降りていないことを指摘したのだろう。私は、高島の第二歌集『嬬問ひ』、第三歌集『雨を聴く』はまだ未読なのだが、高島は岡井のこの助言を自らの作歌に取り入れ、さらなる成長を見せたのだろうか。

 最後に高島にとって短歌とは何かを垣間見せてくれる歌をあげよう。

 どこまでも追ひかけてくるヨノナカに擲つ桃の甘き炸裂

 古来、桃には呪力があるとされ、記紀にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰ったときに、追ってきた黄泉軍に桃の実を投げつけて撃退したというエピソードがある。高島にとって短歌とは、ヨノナカに向かって投げつける呪術性を帯びた手榴弾なのであり、高島はそれがいつか炸裂することを夢想するのである。ここでは桃に高い象徴性が付与されている。桃の連想が働いて、加藤治郎の秀歌を思い出した。

 フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう

 世界についてこのように語り得る文学形式は、短歌を措いては他にはあるまい。それは思想を語りつつも、第一義的には読む人の感性に訴えかけるからである。高島が投げた桃の実が、多くの人の心のなかで炸裂することを願うとしよう。

 

 追記

 高島は現在は「未来」を脱会して、故郷に戻り個人誌を拠点に活動しているということだ。

049:2004年4月 第4週 佐藤りえ
または、壊れ物としての世界に生まれた午後4時の世代

わたしたちはなんて遠くへきたのだろう
        四季の水辺に素足を浸し

           佐藤りえ『フラジャイル』
 佐藤りえは1973年生まれ、短歌人同人。『フラジャイル』(風媒社)は2003年暮れに刊行された第一歌集である。1987年の『サラダ記念日』以後、短歌を作る女性が急激に増加したが、プロフィールによると佐藤は10代の頃から短歌・俳句・詩を書き始めたとある。『サラダ記念日』が出版されたとき佐藤は14歳だったわけだから、影響を受けなかったはずはない。しかし、俵の口語定型短歌とはまた異なる独自の世界を作り上げることに成功した歌人である。『フラジャイル』はとてもよい歌集である。

 批評には対象に即した言葉があるはずだ。どんな対象でも自由自在に料理することができる批評の言葉というものはない。もしそのように振る舞う言葉があるとすれば、それは批評の皮を被った教条主義でありドグマチズムである。批評の言葉というものは、ある基準を外から作品に当てはめて批判し評定するものではなく、鍾乳洞を懐中電灯ひとつで探検する洞窟学者のように、まず作品世界のなかに手探りで分け入るものでなくてはならない。

 佐藤りえの『フラジャイル』を一読して私が感じたのは、新しい感性と表現が作品として結実したとき、既存の批評の言葉は古くなった通貨のように無力であり、新しい批評の言葉の出現を待たなくてはならないということである。私は佐藤の短歌を強い共感を持って読んだが、その共感の質を表現するのに適切な言葉を捜しあぐねている。

 永田和宏は『表現の吃水』(而立書房)所収の「『問』と『答』の合わせ鏡 I」(初出『短歌』昭和52年10月号)のなかで、後によく知られることになる次のような短歌の性格づけを述べた。問題にされているのは、短歌のなかで詠まれた対象とそれを詠む主体との「関係性の定理にあたるもの」である。言い換えれば、主体と対象がどのような関係に立てば、短歌として成立すると言えるのかだ。題材にされているのは「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」という志垣澄幸の歌である。

「『退くことももはやならざる』という上句は、その時点で作者を表現行為へと促した自己認識、つまり問題意識である。それを内部状態と言ってもよいが、広い意味でここでは『問』と言い換えて差しつかえなかろう。即ち作者は『退くことも…』という『問』をもって、その『問』を支える対象を外界に求めたのであり、下句は言わば上句に対する『答』であるとも言い得る」
 つまり、一首のなかに「問」と「答」が併存しているということである。例歌では上句が問、下句が答だが、その順番は逆でもよい。作者は短歌のなかで、自分で問いかけ自分で答えるというふたつの役目を果たすことになる。永田が注意を喚起するのは、問に対してあまりに安直な答を与える危険性である。同じく志垣澄幸から「硝子越しに五月の海を磨きつつ遠くなりたる青春おもふ」という歌を引き、上句による対象の問にあまりにつじつまの合いすぎた答を与えたため凡歌になったと断じている。永田は続けて次のように言う。

「一首における『問』と『答』のこのような合わせ鏡構造こそ、この詩型発生以来の基本的構造なのであり、『問』の拡散性をいかに『答』の求心力によって支え得るか、『答』の凝集性をいかに『問』の遠心性によって膨らませ得るか、という点にこの定型詩の生命があると言い得よう」
 私たちがよく知っている短歌らしい短歌には、確かにこのような合わせ鏡の構造が見てとれることが多い。

 殷殷と鬱金桜は咲きしづみ今生の歌は一首にて足る 塚本邦雄

 生きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 塚本の歌では、「殷殷と鬱金桜は咲きしづみ」が外界の対象の提起する問であり、「今生の歌は一首にて足る」はそれに触発された主体の側からの答である。答を「ブーメランのように」(永田和宏)できる限り遠くへと飛ばし遠心性を付与することで、歌が安易に着地することなく、読者の心に飛び込むものとなる。山中の歌では、「ここ鳥髪に雪降る」が対象の投げかける問であり、残りが主体の提示する答という構造と言ってよいかと思う。

 確かにこのような構造を持つ歌は、短歌としての姿がびしっと決まっており、また問に対して答を提示しているから、読者の心に不全感を引き起こすことが少ない。背筋のピンと伸びた日舞のお師匠さんの舞いを見ているようだ。

 しかしながら、永田がもはや四半世紀前に提唱した「主体と対象の関係性の定理」を、「決まり過ぎている」と感じる歌の作り手が増えてきたのではないだろうか。その証拠に河野裕子は、「完結性のある格調高い歌が気恥ずかしくなってきた」(『体あたり現代短歌』)と述懐している。また村上きわみは、私がご本人からいただいた電子メールのなかで、「大きな物語を腐葉土のように踏みしめて立つ歌に惹かれながらも、一方ではそれをどこか疑わしく思っている」と、自分が抱くアンビバレントな感覚を表現し、「自分のなかで80年代から90年代にかけて大きな物語が失効したように感じている」と続けている。これはなかなか考えさせられる言葉である。確かにもし「大きな物語」が失効したのなら、永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」を基本構造とする「決まり過ぎた」定型詩としての短歌という性格付けもまた、ハイパーインフレ経済下の紙幣のようにその効力を失う可能性があるからである。

 長々と上のようなことを書き付けてきたのは、佐藤りえの作る短歌のなかにもまた、この点をめぐるブレあるいは逡巡が見られるからだ。

 廃屋のアップライトを叩く雨すべてはほろぶのぞみのままに

 夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡るわれなどあらざるごとく

 青空のどこか壊れているらしく今日三度目の虹をくぐれり

 永田の図式を適用するならば、「廃屋のアップライトを叩く雨」は外界の対象が提示する問で、「すべてはほろぶのぞみのままに」はその問を基点として主体が引き出した答である。一首の詩としての成立は、ひとえにこの問と答の取り結ぶ緊張関係に存する。「夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡る」と「われなどあらざるごとく」の間にも同じ関係がある。「今日三度目の虹をくぐれり」は事実の提示で、「青空のどこか壊れているらしく」はそれを踏まえた主体の答である。このような歌群は永田の図式にすんなり収まる。オジサンにもわかりやすく共感しやすい歌である。佐藤は現代の歌人の例に漏れず、文語・口語混在文体の作家だが、「永田の定理」の成立する短歌は文語で作られていることにも注意しておくべきだろう。佐藤は意識的に文体と方法論を選択的に用いているのである。

 しかし、次のような完全口語歌はどうだろうか。

 北東にほろびを知らせる星が降るなんて予報じゃ言ってなかった

 こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね

 一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

 春の河なまあたたかき光満ち占いなんて当たらないよね

 傷つけることを言いたいセロファンをくっつけたままねぶるキャンディ

これらの歌に「問と答の合わせ鏡」を見いだすことは難しい。例えば4首目の、「春の河なまあたたかき光満ち」(ここだけ文語でブレがある)を外界の対象の提示する問だと一応仮定しても、そこから「占いなんて当たらないよね」という答がどのようにして導かれるのかわからない。また問と答の間にどのような緊張関係があるのか答えることは難しいだろう。

 新しい感性と表現が作品化されたとき、既存の批評の言葉が効力を失うと感じるのはこのような時である。ここには永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」の緊張関係はないとかんたんに考える方がよい。もしも永田の図式がほんとうに定型短歌発生以来の「定理」だとすると、佐藤のような歌人はそのような定理から自由な地平で歌を作ることを選択したのである。

 では佐藤の作る上のような歌で読者に求められていることは何か。それは短歌に込められた感情に対する理屈抜きの「全的共感」ではないだろうか。「一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン」を例に取ると、「一人でも生きられるけど」はおそらく失恋を意味する。だが失恋するとなぜトーストに恐ろしいほどのマーガリンを塗るのか、関連づけの手掛かりとなるものは一切提示されていない。それでも「ああ、そうそう、そういうことってあるよね」と共感する読者がいれば、この歌は向こう岸に何かを伝えることに成功したと言える、そのようなスタンスがこのような歌の前提にあるのではないだろうか。

 やや大上段に振りかぶって論じれば、「大きな物語」が失効した現代にあって、私たちに残されているのは「小さな日常」である。しかし小さな日常は、限りなく細分化し断片化し個化する。だから共有化することが難しい資源なのだ。そのような状況にあって、歌で掬い取ることができるものが呼び起こす共感もまた、自分を中心する狭い範囲を出ることがない。「問と答」の緊張関係を推力として、答を「ブーメランのように」遠くに飛ばすことを頭から方法として否定している。そのように思えるのである。

 佐藤の歌集を批評しようとして、方法論についての議論に終始してしまった。歌に詠われた内容・感覚に目を転じると、私が特に目についたのは「キラキラ感」である。佐藤の歌には光に関係するものがよく出て来る。

 ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている

 キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる

 偽物の光であれば包まれるアミューズメントパーク、夕凪

 できたての舗装の上にきらきらと弔いの硝子屑は光れり

 暗闇に天つ光が動いたらそこは世界の夜の海辺よ

 これらの歌に充満する「出口なし」感覚、郊外ベッドタウン美しが丘、アミューズメントパークを彩る偽物の光、舗装したての道路に散乱する弔いの予兆の光は、キラキラ感の背後に横たわる闇をいやおうなく思わせ、佐藤の世代が抱え込んだ絶望の深さを思ってしまう。「絶望」というのは言葉としてちょっと重すぎるのだが、他にどう言えばいいのかわからない。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』で河原の死体を眺める吉川こずえさんや、『pink』の自宅でワニを買うOLユミちゃんと、どこかで共通する「気分」と言ったほうがよいだろうか。

 社会学者・小倉千加子が少し前の朝日新聞の記事に書いていた言葉が忘れられない。小倉がインタヴューした女子高校生は、「あたしたち、ずっと午後4時の気分なんですよう」と言ったというのである。佐藤はもちろんもう女子高校生ではないが、この「午後4時の気分」は、バブル経済が崩壊し、大きな物語が失効した佐藤の世代にも共有されているのではないだろうか。『フラジャイル』は「壊れもの」という意味であり、郵便小包の表に押すスタンプだが、「壊れもの」なのは生身の人間であると同時に、私たちが暮している「世界」でもあるのだ。

佐藤りえのホームページ

048:2004年4月 第3週 佐々木六戈
または、立ったまま逝く燃える椿の覚悟かな

一輪の直情として切花は
    立ち盡くすなり莖を焼かれて

               佐々木六戈
 本を手に取って、何の気なく読み始めたら止まらない、そんな経験は誰にでもある。しかし歌集でそのような経験は珍しい。邑書林から刊行が始まった「セレクション歌人」シリーズの『佐々木六戈集』を読み始めて、私は読み止めることができなかった。家で読み、研究会に出かける阪急電車のなかで読み、ホームのベンチで読んだ。騒音も話し声も気にならなかった。読了し、名醸ペトリュスの赤ワインの古酒を飲んだ後のようにぼうっとし、そして飲み過ぎると肝臓だけでなく脳にまでも副作用を及ぼす遅効性の毒薬を飲んだような気分になった。佐々木の歌の世界から立ち上る空前絶後の苦み、時空を越えた衒学、肺腑を剔る挽歌、ゆらめく鮮やかな色彩に、私は酔ってしまったのである。

 歌人としての佐々木は異色づくめだ。巻末の自筆略歴と藤原龍一郎の解説によれば、佐々木は1955年(昭和30年)北海道生まれ。1982年頃、詩人鷲巣繁男の歌集『蝦夷のわかれ』を読んで作歌を開始、92年俳句結社「童子」入門、現在同誌編集長とある。つまり、詩人の歌集を読んで俳句結社に入り、その編集長が2000年第46回角川短歌賞を受賞したのである。何という曲折に満ちた道程だろうか。だから佐々木は短歌結社には無所属で短歌の師もいない。にもかかわらず、佐々木は最初から完成された歌人として希有な登場をしたのである。

 佐々木は1997年 (平成9年)5月30日の深更、「紙魚の楽園」50首を一気に書き上げ角川短歌賞に応募、佳作に入選している。本人の弁によれば、「歌人佐々木六戈は一晩で誕生した」のである。それを読んだ選者の一人馬場あき子は、「この人は新人としてではなく歌人として遇しなきゃいけない」とまで述べたという。私はかねてより黒瀬珂瀾氏から、「佐々木六戈というおもしろい短歌を作る人がいますよ」とのご教示を受けていた。その佐々木の第一歌集が基本的にはアンソロジーである「セレクション歌人」シリーズの一巻というのは、これまた異色のデビューということになるだろう。

 佐々木の織り上げる短歌世界に頻繁に登場するのは、草木、特に花、そして死者である。

 昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から

 伏してなほ流るる花の矜持とも水底を向く反面も花

 たなごころ寒の椿の火の玉をふたたびは遭はぬ餞として

 わたしではなく一木の緘黙を花にもまして歌とおもふぞ

 ここに詠われているのは静謐な花鳥風月ではない。火の玉のように燃え上がる花であり、その閉ざされた奥底に昭和史を幻視する花である。この心像の重層性と象徴性は、塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌が開拓した技法である。いや、技法ではなく思想である。それは〈思想の感性化〉(三枝昴之)であり、また〈人型をなして来る思想〉(馬場あき子)とも言えよう。だから佐々木の短歌には日常詠も職場詠もまったく見られない。この徹底した選択は佐々木の次のような認識に基づいている。

 「それは現代短歌の作者が作中の〈われ〉にどんなドライブをかけても、もはや〈かれ〉の読者に届くとは限らないのに似ている。歌人が思うほど、読者は作者のつまらない起居に興味など持たない。そんな時代だ。(中略)〈われ〉は遠くまで来たのだ」

 これはある意味で、かつてロラン・バルトが軽やかに言い放ったのとは異なる意味での〈作者の死〉である。集中に「私が死んでいる」という歌がよく見られるのはこのためだと思われる。

  〈私〉(わたくし)が死んでゐるから畦道を運ばれて行く小さき早桶

  私とは他人(ひと)の柩に外ならず或いはわれが死してよむうた

 ではなぜ佐々木は死者にこだわるのだろうか。

 偉大だった父たちの死よ掌(て)の上の硝子の球の中に雪降る

 樹下にして顯(た)つ死者たちの俤を冬の蕨の花に比(たと)へて

 國男忌の空は涯無し わたしにも神戸に叔母がゐる心地する

 ジャン-ポール・さるとりいばらえにしだのジャン・ジュネが同じ命日

 忘れをる人の名前は無か夢か憶ひ出せない虫明亜呂□

 しつかりと操縦桿を握り締め平家螢に跨がつて来よ

 セブンティーン愛機を降りてけふの日の澁谷の街の若きに雑じれ


 かつて平井弘は歌集『前線』のなかで、太平洋戦争に散華した若者たちを「兄たち」と呼び、「子をなさず逝きたるもののかず限りなき欠落の 花いちもんめ」と哀悼した。時は移り1955年生まれの佐々木にとって、それは「父たちの世代」である。しかし時間の経過は関係がない。佐々木は次のように述べている。

「『時』というものは過ぎ去ることがないものである。いうなれば、それは降り積もる。『今』の檻の下に」

 時は過ぎ去るものではなく降り積もるものであるということは、「現在という時点が帯びている歴史性」の認識と言い換えることができよう。佐々木の歌に夥しい過去の死者の固有名が登場するのはこのためなのである。ややもすれば佐々木はこの固有名の羅列のために、衒学・韜晦の誹りを受けることがあるようだが、それは誤った見方と言えよう。佐々木にとって死者の固有名の行列は、自らの思想の過去帳であり、現在という視座の不確定性を何とかして確かめるためのランドマークなのだ。

 同じく固有名だらけの短歌を作る藤原龍一郎が解説を書いているのは偶然というには出来すぎの感もあるが、佐々木と藤原とでは短歌の中の固有名が持つ意味合いが微妙に異なることに注意すべきだろう。藤原において固有名は、マッチポンプのようにせわしない抒情を作り出す手段であり、マスコミ業界の最前線にいる作者が詠う現代を醸し出すのに必須の構成素である。それはメトロポリスの高層ビルの壁面をスクリーンとして映し出されるホログラムとしての現代の抒情である。だから藤原の視点はあくまで現代を詠うことにある。ところが佐々木にあっては、現在はそれほどまでの重要性を持たない。現在とは過去の時間が降り積もった結果であり、現在の根方を掘るとそこには土のなかから過去が顔を出すからである。上にあげた「セブンティーン」の歌は、かつて太平洋戦争末期に特攻基地があった知覧を訪れて作られたもので、「愛機を降りるセブンティーン」とは特攻に散華した少年兵である。少年兵が渋谷センター街の色とりどりのファッションに身を飾った少女たちに入り交じるという幻視が示すように、佐々木の視座においては過去と現在が交錯するのであり、言ってみれば過去と現在とは等価交換の関係にある。「過去はお前の隣に座っている」と耳元で囁かれているようだ。そこに藤原とはまた異なる鋭い批評性があることは言うまでもない。

 佐々木の短歌において特筆すべきは、練達の奇術師を思わせる自在な言葉の駆使である。その指からは水晶玉演技のように次々と言葉が繰り出される。圧巻は「アードルフ・アイヒマンの為の頭韻」と題された連作で、短歌の五句すべてが「あ」から始まる五十音の頭韻を踏むというアクロバットを実現している。

 あ行から「あ」
  あのときはあらんかぎりの愛をもてあんなことをあくせくとアイヒマン

 か行から「く」
  口惜しく蛇(くちなは)喰らふ暗闇の草迷ふ屈葬の硝子の夜(クリスタル・ナイト)

 さ行から「そ」
  その髭をゾーリンゲンで剃りながら総統をこそそれと信じた

 歌集の帯の背には誰が書いたか「大人の気迫が醸す風韻」の文字が見える。私には「風韻」というより「覚悟」という文字が見えた。添えられた歌人の写真を見ると、髪をダックテールに纏めた風貌はまるで古武士を思わせる。短歌に漂う裂帛の気合いは、おそらく俳句の修練によって会得されたものだろう。同じ邑書林から「セレクション俳人」シリーズで『佐々木六戈集』が刊行されている。藤原も解説に書いているように、「セレクション歌人」を読んだら「セレクション俳人」の方も読まずにはいられない。

 最後に私がいちばん気に入った歌をあげよう。佐々木の覚悟をよく示す花の歌であり、読者諸賢はその毒がゆっくりと脳血管に回るのを味わわれるがよい。

 完璧の珠玉ぞ燃ゆる椿ゆゑ立つたまま逝け水のおもてを

047:2004年4月 第2週 入谷いずみ
または、自然を一杯に抱いた等身大の短歌

リバノールにじんだガーゼのようだから
       糸瓜の花をあなたの頬に

           入谷いずみ『海の人形』
 入谷はずっと「いりや」と読むのだとばかり思っていたが、奥付を見直したら「いりたに」と読み仮名が振ってあった。1967年生まれ、「かばん」会員。『海の人形』は入谷の第一歌集で、題名は吉田一穂の童話集から取ったと後書にある。栞には、入谷の大学時代の恩師である鉄野昌弘、高柳蕗子、萩原裕幸が文章を寄せている。

 どこかで名前を見たような気がすると思っていたら、『短歌研究』が募集した第21回現代短歌評論賞の候補作品にノミネートされていた。「近代における『青空』の発見」という評論である。『短歌研究』2003年10月号に抜粋が掲載されている。選評で岡井隆が、候補作の評論と歌集の「かばん」風の歌とのあいだにあまりに懸隔があるので驚いた(笑)と述べている。

 『海の人形』は第一歌集だけあって、作者の人生の歩みがそのまま反映された構成となっている。徳島の自然溢れる田園地帯に生まれ、大学入学とともに上京し、東京女子大学で国文学を学び、大学院を出て高校教師になる。その間に出会いがあり、失恋があり、結婚する。そのような軌跡が折々に詠んだ短歌として配列されている。読者はまるで作者入谷の人生の歩みを追体験するように読み進むことができる。

 「かばん」は穂村弘・東直子・井辻朱美などが拠る同人誌で、基本的には口語短歌路線だが、実際にはいろいろな傾向の歌人が混在している。同誌では短歌作品はすべてゴチック体活字で印刷されているのだが、これはけっこう痛い(*追記参照)。穂村の『短歌という爆弾』(小学館)に至っては、短歌作品だけでなく、本文も含めて全部ゴチック体で、読んでいると目がくらくらしてくる。字体は短歌の印象を左右する。私は字体が気になる方で、ワープロ専用機からパソコンに移行したとき、いちばん嬉しかったのは様々な書体のフォントが使えることだった。中山明の短歌をいくつかホームページから取得して印刷したときには、縦書きにして正楷書体で印字した。中山の短歌には楷書体か教科書体がよく似合う。入谷の歌もゴチック体が似合う歌とは思えない。『海の人形』はもちろん明朝体で印刷してある。

 入谷が「かばん」に寄せているのは次のような歌である。おおむね「かばん」風と言えるだろう。

 ため息をつけば緋色の魚散る水の向こうにあなたを探す

 あめ色のまねき猫なり傾いて東京の空を招いていたり

 隅田川ひしひしと潮満ちてきて「昔男」が見た都鳥

 夕映えのホテルの「ル」だけ灯されて遠吠えのようにやさしいサイレン

 しかし『海の人形』に収録された作品はもう少し多様であり、作者の多面性を垣間見せている。歌集前半は故郷徳島で過ごした子供時代の思い出であり、純然たる口語で詠われている。

 わたしたち寝てもさめてもカブトムシみたいに西瓜ばかり食べていた夏

 廃校舎ひらきっぱなしの蛇口からなにも流れず夕焼けている

 早稲の香は車両を満たし単線の列車が海に近づいてゆく

 しかし、歌集なかほどになると突然文語旧仮名短歌に移行する。入谷は大学で古事記を研究した国文学徒であり、古語と古文の知識はもともと豊富なのだ。

 すつぽんの骨をかちりと皿に吐きゑゑなまぐさき我が鬼女

 黄泉比良坂(よもつひらさか)越えさりゆけばあるらむか男子(おのこご)住まぬ国の恋ほしき

 エビカヅラ食めば思ほゆタカムナにまして偲はゆ返されし黄泉醜女(よもつしこめ)らその後のこと

 したがって『海の人形』の大部分が口語で作られているのは、作者入谷の意図的選択である。ではなぜ一部分だけ文語で作られているのだろうか。

 文語になっているのは「蛇苺」と「葦原醜女」と題された連作である。こんな歌がある。

 細き鼻つぶらな瞳わが持たぬうつくしき顔描き飽かぬかな

 不思議なり醜女の話美女よりもくはしく今に残せる『古事記』

 夢見る頃を過ぎても自意識は解けず 空をしばつてゐるエビカヅラ

 途中に挿入された散文がこの歌の背景を語っている。作者は自分の容姿に自信がないらしく、コンプレックスを抱いているのである。幼いころ鏡を見ていると、ご尊父に「女の子は鏡を見るんでのうて、本を見て、きれいになるんぞ」と言われて叱られたという。偉いご尊父である。ご自身も教師だったのだ。しかし、女の子はそれでも鏡を見ることを止めない。入谷が自分の抱えるコンプレックスを詠うときにだけ、口語を捨てて文語短歌を作っていることは、なかなかに意味深長だと思えるのである。

 それは〈短歌と思いの距離〉に関係しているのではなかろうか。穂村は「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」(『短歌ヴァーサス』2号)と指摘している。つまり、文語定型は80年代以後の若者にとって、日常的な等身大の〈思い〉を盛る器としては相応しくないものになってしまったということなのだ。〈短歌と思いの距離〉が大きすぎるのである。入谷が自分のコンプレックスを詠うときだけ文語にシフトするのは、その裏返しである。つまり〈短歌と思いの距離〉が大きいために、自分のコンプレックスを生々しくなく歌にすることができ、それによってコンプレックスを悪魔祓いしたいという密かな願望が隠されているのである。歌集の帯文には「古代と現代を往還する歌集」と書かれているが、誤解もはなはだしい。入谷は古代と現代を往還しているのではない。文語文体と口語文体を意識的に乗り換えているのである。そしてこの乗り換えは、短歌という器に盛り込む内容と自分の距離に相関しているのである。

 『海の人形』所収の口語短歌は、現代の他の若い女性歌人の短歌と同じく、日常の折々にフッと皮膚感覚として捉えられたささやかな印象を歌にしたものが多い。しかし、中には異色の歌がある。

 銀色のトレーに盛られみずみずと母の子宮は無花果に似る

 ひらかれし母の子宮に弟と私のいた痕(あと)が残れり

 傷痕がたしかに二つであることをふと確かめて後ろめたい

 もうひとりいたような気がしたけれど 窓をくぐってくる草いきれ

 誰でも子供時代に、自分は本当にこの家の子なのだろうかという不安を抱いたことがあるだろう。作者はたまたま、外科手術を受けた母親の摘出された子宮に自分の出自を確認し、疑ったことに後ろめたい気持ちになった。「もうひとりいたような気がしたけれど」とは、幻影の兄弟であるが、この歌にはもう少しで『顔をあげる』時代の平井弘の短歌を思わせるようなトーンがある。誰もが自分の母親の子宮を目の当たりにするわけではないので、素材の珍しさだと言われればそれまでなのだが、集中特に印象に残った歌群である。ちなみに無花果は聖書ではキリストの呪いにより不毛性のシンボルなのだが、入谷はそこまで意識していただろうか。

 他に印象に残った歌をあげてみよう。

 防空壕草いきれしてえごの花空より降りぬ犬と我とに

 つぎつぎに白粉花の咲くように人を愛せりなつの百夜を

 わが影に燕入りたり夕光(ゆうかげ)に折れ曲がるわが胸のあたりに

 このカーブ曲がれば夏は終るのかGがかかっている胸のうえ

 溶け出した目を押さえつつまた一人岡部眼科にくる雪だるま

 三人官女のみの雛(ひいな)飾られる夕暮れだれも人形めいて

 それぞれに読みどころのあるよい歌だと思う。しかし、歌集全体としては、軽く触れればほろほろと崩れるケーキのように、淡泊な印象であることは否めない。甘さを抑えた軽いシフォン・ケーキであり、みっちりと生地の詰まった味の濃い、たとえばザッハ・トルテのようではない。塚本邦雄の呪詛と諧謔、福島泰樹の慟哭と悔恨、寺山修司の演技と逃走といった、過去の歌人たちが示してきた胸ぐらを掴むような強い印象がない。下手に服用すると中毒を起こすような毒がないのである。

 よく短歌は〈私(わたくし)性の文学〉であると言われることがある。もしそうならば短歌のちがいは端的にそこに盛り込む〈私〉のちがいである。塚本や福島の世代と入谷の世代の差は、塚本や福島の世代が自分の体を被っている皮膚という境界を越えて、自分を取り巻く社会あるいは国家という〈社会的関係性〉までをも詠うべき〈私〉と捉えたところにある。一方、入谷が属する若い世代にとっての〈私〉はずっと縮小していて、体を被う皮膚という境界を余り出ないのである。〈等身大の私〉とはそういうことだ。これが若い世代の感受性なのだが、果たしてそれでよいのだろうかと、ふと感じてしまうのである。

 追記
 こう書いたのが聞こえたのかどうか、「かばん」は2004年4月号からゴチック体表記をやめて、明朝体になった。

046:2004年4月 第1週 『西美をうたう – 短歌が美術と出会うとき』

 私はたまに東京に行くと、暇を見つけてはすることがいくつかある。明治・大正・昭和初期の擬西洋建築を中心とした建築探偵、東京の下町を歩き回る坂巡り、もうひとつは美術館巡りである。建築探偵と坂巡りは、私のホームページに一部を公開しているので、見ていただきたい。何と言っても東京にはたくさん美術館があるので、見て回る展覧会には事欠かない。展覧会だけでなく、美術館本体も見る価値がある。旧朝香宮邸の東京都庭園美術館は、アール・デコの内装が素晴らしい。砧公園にある世田谷美術館は、京都駅ホームで急死した内井昭蔵の建築と、素朴派のコレクションがよい。松濤美術館は孤高の建築家・白井晟一の思索的名建築として名高い。松濤公園の近くにあるTom美術館は、村山知義の娘さんがやっていて、「僕たちにもロダンを見る権利がある」と高らかに宣言している。「僕たち」とは目に障害を持つ子供たちである。

 上野公園にある西洋美術館にもときどき行く。日本唯一のル・コルビュジエの設計になる建築である。ある日、ミュージアムショップで『西美をうたう 短歌が美術と出会うとき』という本を見つけ、すぐに買った。「西美」は西洋美術館の愛称である。西洋美術館所蔵の絵画や彫刻を素材として短歌を詠むという趣向でまとめられた本なのだ。前書きには、現代歌人協会の協力により短歌を集めたとあり、第一線で活躍する歌人92名の短歌が収録されている。そうそうたる顔ぶれである。ただし、この本の成立経緯について詳しい説明がないので、個々の歌人がどのようにして絵画や彫刻と出会って歌を作ったのかは不明である。歌人がひとりひとり収蔵作品のなかから自分が好きなものを選んで歌にしたのか、それとも「この作品を題材にして歌を作ってください」と依頼されたのか、そのあたりがわからないのが残念だ。

 この本の成立経緯についてこだわるのは、俵万智が『短歌をよむ』(岩波新書)のなかで、「短歌とは日常のなかで心がフッと動いたときに、それを歌にするものだ」という趣旨のことを書いていて、「自分はわざわざ何かを見て短歌を作るのが苦手だ」と述べているからである。『サラダ記念日』の爆発的ヒットのあとで、「どこそこへ行って風景を詠む歌を作ってください」とか、「これこれの商品に合う歌をお願いします」という依頼が舞い込んだが、すべて断ったという。俵の言い分によれば、どこそこへ行って風景を見ても、心が動くとは限らない。心が動かなくては短歌は作れないということのようだ。〈内発的動機による作歌〉というプロセスを重視する俵の立場は、文芸を〈個人の内面の投射〉と見る近代的芸術観に基づいている。一方、古典的和歌の世界では、歌とはすべて機会詠・題詠であり、求められたあらゆる機会に歌が作れないようでは、練達の(プロの)歌人とは言えないとも考えられるのである。古典的和歌の世界を引きずったまま、近代的芸術観の洗礼を受けた近・現代短歌は、このふたつの要請のあいだで引き裂かれているとも言えよう。この点で西美の企画に歌人たちがどのように答えたのか、興味を引かれるのである。

 西美の試みがおもしろいと思えるもうひとつの点は、美術と詩歌の関係である。昔は、屏風絵や扇面に歌が書かれることがよくあり、南画などでも絵に賛が添えられていることが多かった。ある意味で絵画と詩歌は一体であり、全体としてひとつの美的世界を構成していた。例えば尾形光琳の築いた美の世界を見てみると、このことがよくわかる。しかし、近代的芸術観は、このようなジャンルの混淆を嫌い、絵は絵としての独立性を、詩歌は詩歌としての自立性を強く主張するようになった。絵と詩歌は以来、生き別れの状態にあり、それにより失ったものも多いはずである。西美の呼びかけに応じて歌を作った歌人たちも、このような絵画と詩歌の関係を意識しなかったはずはない。この関係は具体的には、見る主体である歌人が、見られる対象としての絵に対して、どのような距離感覚で接するかという問題として浮上することになる。

 例えば、西洋美術において風景画を確立したことで知られるクロード・ロランの『踊るサテュロスとニンフのいる風景』に藤岡武雄がつけた歌を見てみよう。

 喜びは森にあふれてニンフらの踊りに山羊まで踊り出したり

 この歌はロランの絵の忠実な描写なのだが、それだけに終ってしまっている。関西弁ではこんな時には「マンマやんけ」と言う。与えられた絵画を題材にということを意識する余り、対象に即して歌い過ぎたという例である。短歌が絵画の世界に吸収合併されてしまっている。「対象につきすぎた」例である。

 かと思えば、次の歌はこれとはまったく逆の方向性を持つ例といえるだろう。

 夕闇に溶けゆくネーブル・オレンジと蠅をみていたあのまなざしは  穂村弘

 いい歌だと思うのだが、さてこの歌を見て、どんな美術作品を題材として作られたか想像できるだろうか。マイヨールの『イル・ド・フランス』と題されたブロンズの裸婦像なのである。裸婦像にはオレンジも蠅も登場していない。像と穂村の歌のあいだに一対一の対応関係はなく、そもそもいかなる関係も認めることができない。穂村は像を見てある印象を内的に形成し、その印象を今度は穂村自身の言葉に変換して表現してみるとこのようになったとしか言いようがない。歌は見る対象から離陸し、それを見ている穂村の心内印象に重点が移っている。穂村にとって短歌とは、このような〈変換装置〉として機能しているのだ。かつてサルトルは文学批評で tourniquet というフランス語の言葉を使った。「転車台」という意味で、操車場で機関車の向きを変えるために使われる放射状の回転する車台のことである。穂村は「短歌を転車台として世界をねじる」という方法論を得意としているが、上にあげた歌においてもその技法が活かされている。「対象につかない」という例である。

 対象につかない点では人後に落ちないのが水原である。

 こころなき泉の精となり果ててきよきをのこも影とのみ見む  水原紫苑

 ジャン=マルク・ナティエというあまり知られていない18世紀の画家の描いた貴族の婦人像につけた歌である。婦人は緑のドレスを着てソファーに座っているので、泉もをのこも描かれてはいない。ここにもまた、絵画と短歌のあいだに要素間の単純な転写関係はないのである。

 三枝昴之『現代短歌の修辞学』(ながらみ書房)のなかで、水原自身がかなり率直にみずからの作歌技法について語っている。歌われた対象がある転換を得ることによって別次元にとべることが自分の喜びであると水原は述べている。水原の「別次元にとばす」という技法は、穂村の「短歌を転車台として世界をねじる」という方法論とは方向性が少し異なるのだが、見たものを見たまま詠わず(反リアリズム)、それを何らかの回路に流すことで次元の異なるものへと変換するという点では共通するところがある。

 次の歌も対象に即してはいないのだが、またちょっと対象との関係がちがう。

 肉体の思想激しく叫ばんに十九世紀夢の波濤よ  福島泰樹

 この歌の題材は写実主義を確立したクールベの『罠にかかった狐』という、雪の野原で前足を虎ばさみに挟まれて苦しげにもがく狐を描いた絵である。福島はこれを自らの浪漫主義のなかに取り込み、魂の叫びとしての絶叫短歌に仕立てあげている。完全に福島が主で、絵の方が従の関係である。福島がドン・キホーテで絵がサンチョ・パンザなのだ。この境地に到達すると、何を詠ってもそれは福島の魂の叫びになってしまう。

 水の上にかがやくをとめ。水底にともなふ翳をしらず漂ふ  岡野弘彦

 睡蓮は水の恋人、くれなゐのまぶた明るく閉ぢてひらきて  岡井 隆

 上の2首は題材との関連が明らかで、なおかつ歌としての自立性を失っていない例といえるだろう。ともに印象派の巨匠クロード・モネを歌ったものである。印象派の画家には日本趣味があり、おまけに水の風景は日本人にとって親しみのある風景である。短歌の世界にもともと親和性のある絵と言えるかも知れない。

キース・ヴァン・ドンゲン『カジノのホール』
  羅(うすもの)の女ささめくカジノの夜 “oui, oui,, “mais, non”,, 恋も賭けるの  松平盟子

マックス・クリンガー『手袋』
 人恋ふる夜明けの部屋にみづみづと春の花木となりし手袋  秋山佐和子

 おしゃれな短歌と言えば松平盟子、さんざめく社交場の雰囲気をよく映し出している。秋山の歌はクリンガーの絵のなかの要素とほとんど一対一の対応関係があるのだが、絵を離れても幻想的な一首として読むことができる名作である。

 こうしていると、展覧会の会場で絵を見て回っているように短歌を見て回るという楽しい感覚を覚え、西美の企画はなかなかの成功だと言えるかもしれない。

 最後に次の歌を見てみよう。この2首は他の作家の歌とは画然と区別される特性を有しているという点で、注目に値する。作者の名前を見れば、ひと筋縄ではいかないことがわかるだろう。

クールベ『もの思うジプシー女』
 百年の受容ののちの夕微光ここ出でて春の橋わたるべし  谷岡亜紀

デューラー『メランコリア』
 西洋細密画よりまなこを転じみるものは境もあらぬ大和の桜  小池 光

 谷岡の歌は抽象的でわかりにくいが、「百年の受容」を「上野の芸大が象徴している日本の西洋美術受容の百年の歴史」と読めば、この歌は輸入文化であった西洋美術そのものへの、過去の歴史を踏まえた呼びかけと取ることができる。それが「夕微光」なのだから、谷岡の目には衰弱したものと映ったということだろう。むずかしいのは下句の読みである。「ここ出でて春の橋わたる」の主語は何だろうか。直前の「夕微光」は主語として読むことはむずかしい。隠されている主語は「私」とも「展示されている絵」とも「西洋美術」とも取れる。「西洋美術」と取れば、薄暗い美術館を飛び出して、春爛漫の世界に出てゆけ、という擬人化された美術への呼びかけとなり、これはなかなか面白い読みだと思う。もちろん他の読みも可能かとは思うが。

 小池の歌に移ろう。デューラーの細密銅版画から視線を外して、美術館の窓の外を見れば、そこには日本の国花である桜が咲き拡がっている。美術館の内と外の対比が、西洋絵画と日本の桜すなわち〈洋と和〉の対比に重なり、絵から桜へと視線を移動させる観察主体がここにはある。絵に即するのではなく、絵から離れるのでもなく、絵を見ている〈私〉を介在させることで、対象を相対化すると同時に、〈見る〉という制度化された鑑賞行為そのものが意識される構造になっている。この企画に参加した92名の歌人のなかで、美術館の外まで視線を拡げて歌に詠んだ歌人が小池ただ一人であることは、注目されてよい。他の歌人たちはおそらく、課題の美術作品をいかに詠むかに腐心するあまり、目の前の美術作品だけを凝視し続けたのだろう。目の前の作品は建物のなかに展示されているが、建物の外には広い世界があり、また作品はソフト面・ハード面での美術館という〈制度〉の枠内に置かれているという点にまで、視線が拡がることはなかったのである。ことほど左様に、人は目の前のモノを見ているつもりでも、実は見えていない。谷岡の歌には抽象的ながら、美術館の外に拡がる世界へと志向する視点が組み込まれている。小池の歌ではさらに一歩進んで、歴史的・地域的発明品である美術館という〈制度〉を前景化している。これは「作歌の技術」の問題ではない。「何が見えているか」という問題である。小池の目には、他の歌人たちよりも多くのものが見えていたということだろう。

045:2004年3月 第5週 歌人が選ぶ代表歌

 季刊『短歌Wave』2003年夏号と、季刊『現代短歌雁』55号/56号が、「わたしの代表歌」という特集を組んでいる。『短歌Wave』は歌人ひとりにつき3首、『現代短歌雁』はひとりにつき1首を、歌人本人にアンケートして選んでもらうという趣向である。この特集を読んでいると、「代表歌とは何か」ということを考えさせられる。よく引用される歌を本人も選んでいるときは、「ああ、やっぱり」という気がするし、「えっ、これなんですか」というような意外な歌が選ばれていることもある。両誌の特集でかなりの歌人が共通しているのだが、一誌で選んだ歌を他誌では外していることもあり、歌人としても変化をつけたいという気持ちが働いているのかとも思う。

 『現代短歌雁』55号では、佐佐木幸綱・高野公彦・小高賢・小池光というそうそうたる顔ぶれが、「代表歌とは何か」という座談会を行なって、これが殊の外おもしろい。佐佐木によると、古典和歌の世界では「表歌」という概念があり、歌人は名刺がわりに自分の代表歌を決めていたという。現代のように短歌が私的な文芸と化した時代とはちがって、王朝時代には和歌は公的な文化に属しており、コミュニケーションのための公認ツールであったから、そのようなことが可能だったのだろう。私は歌人の方々とお付合いがないので知らないが、現代の歌人は自分の名刺に代表歌を印刷しているのだろうか。

 座談会でも話題になっているが、代表歌には客観的側面と主観的側面とがある。客観的な視点から見れば、世間でよく引用されているものがその歌人の代表歌ということになる。しかし、歌人本人の主観的視点から見れば、そんな歌がよく引用されるのは不本意で、自分で代表歌と見なしているものはこれだということになり、両者は一致しないことも多い。

 座談会では、佐佐木が「サキサキとセロリを噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず」のように、20代で作った歌をいつまでも代表歌と言われるのは困ると発言している。その後の自分の歩みや変化が無視されるのが嫌だということであろう。自分としては、「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ」のような歌を代表歌と見なしてほしいと注文をつけている。佐佐木は実際に、『現代短歌雁』の特集ではこれをあげている。かと思えば、「佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず」のように有名になった歌が代表歌と言われたらどうだと振られて、小池は「それは困りますよ」と応じている。ほんとうに嫌そうである。セルフイメージにかかわることなので、歌人もなかなか注文が多いのである。かくして本人もどれを選ぶべきか悩むことになる。

 『現代短歌雁』では次のような歌が代表歌として選ばれているのを見ると、なるほどと納得する。おおかたの期待を裏切らない選択で、自分の私的な好みというより、世間の判断を重視した結果だろう。あるいは両者が一致しているとも言える。

 家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな  大滝和子

 まだ何もしていないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す  萩原裕幸

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり  春日井建

 たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり  河野裕子

 何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口みゆ  清原日出夫

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(ひとよ)  栗木京子

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり  高野公彦

 いずれも余りにも有名な歌ばかりである。しかし、『現代短歌雁』の座談会では、「たっぷりと」を代表歌と言われることを河野は嫌っていると小高が発言しているのだが、あんまり言われるのでもう匙を投げたのだろうか。「もうしょうがないわ」という〈あきらめに基づく代表歌〉というのもありそうである。

 かと思うと、次のような歌が選ばれていることもある。

 疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより 大辻隆弘

 人おのおの生きて苦しむさもあればあれ絢爛として生きんとぞ思ふ  尾崎左永子

 やぶこうじ、からたちばなの赤い実が鳥に食われてみたいと言えり 沖ななも

 明け方に翡翠のごと口づけをくるるこの子もしづかにほろぶ  黒瀬珂瀾

 大辻の選んだ歌はそれほどよい歌とも思えない。彼の代表歌はなんといっても、「わがごとく柿の萼(うてな)を見下ろすか熾天使は酸きなみだに濡れて」だと思うのだが、大辻は『短歌Wave』の方にもこの歌をあげていない。不思議なことである。

 尾崎左永子(松田さえこ)は、『彩紅帖』(平成2年)収録の歌を選んでいる。比較的近作であり、また自分の生き方を高らかに宣言する歌である。代表歌には〈セルフイメージを演出する〉という目的もあるので、このような選択も考えられるのである。しかし、松田さえこ時代の代表歌集『さるびあ街』の次のような歌の方が個性が光るようにも感じられる。

 いくばくか死より立ち直るさま見をり金魚を塩の水に放ちて

 悲しみを持ちて夕餉に加はれば心孤りに白き独活食む

 沖ななもは上にあげた歌を、『短歌Wave』の3首のうちの1首としても選んでいるので、本当に気に入っているのだろう。しかし、どれか1首と言われてあげるほどの強い個性があるかというと、いささかこの選択には疑問がある。沖は『短歌Wave』の方には、「空壜をかたっぱしから積みあげるおとこをみている口紅(べに)ひきながら」を入れていて、この歌は歌集『衣裳哲学』の巻頭歌なのだから、こちらの方が代表歌としてふさわしいようにも思う。

 また黒瀬は『黒燿宮』を構成する歌のなかで、よく引かれることの多い耽美的で衒学的意匠の濃厚な歌ではなく、上のような比較的おとなしい歌を選んでいる。これもまたおもしろい選択であり、歌人が自作に対して取っている微妙な距離感がほの見えてくる。

 『短歌Wave』は代表歌3首なので、世間で代表歌と言われている歌を1首入れておけば、あとは歌人が自分の好みで選ぶこともでき、比較的自由度が大きい選択になる。次にあげた三枝の1首目は万人の認める代表歌で異論のないところである。佐藤の1首目も歌集の題名となった歌で順当な選択と言える。佐藤には、「生きのびたひとの眼窩よあおじろく光る夜空のひとすみに水」という秀歌があるのだが、どこかで見てメモしたので出典がわからない。

 ひとり識る春のさきぶれ鋼よりあかるく寒く降る杉の雨  三枝昴之

 ゆっくりと悲哀は湧きて身に満ちるいずれむかしの青空となる

 人間の技美しき早苗田が水を呼び水が夏雲を呼ぶ

 風鈴を鳴らしつづける風鈴屋世界が海におおわれるまで  佐藤弓生

 ぼんやりと街のはずれに生えている水銀灯でありたいわたし

 こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ

 歌集を何冊も持つベテランはよいとして、第一歌集を出版したばかりという若い歌人に、代表歌を選べというのはいささか酷な気がする。

 とてつもなく寂しき夜は聞こえくる もぐらたたきのもぐらのいびき 石川美南

 西ヶ原書店閉まりて夕焼けを呑みこむ町へ行くのだといふ

 助走なしで翔びたちてゆく一枚の洗濯物のやうに 告げたし

 石川は第一歌集『砂の降る教室』を出したばかりの23歳の若手歌人である。一首のなかに漲るリズム感が心地よく、それは「たたき」「いびき」の脚韻にも現われている。「カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしやみする秋」もやはり言葉のリズム感覚で記憶に残る歌だと思う。しかし、まだ評価の確定しない若い歌人の場合、世評という外部の目を参照できない分だけ、代表歌を選ぶ際にためらいが出るだろう。

 小説家や音楽家が、作品は子供のようなもので、世の中に産みだしてしまったら、あとは独り歩きして行き、それをコントロールすることはできないと言うことがある。確かにその通りで、文学作品についても、いかにして産み出されたかという制作サイドが重視され、なかでも作者の〈制作意図〉を金科玉条とする向きもあるが、それは正しくない。むしろ重要なのは、〈作品がいかに受け取られたか〉という読者論の方である。やはり代表歌というのは、「世間が代表歌と認めたもの」なのであり、この定義のなかには定義すべき事項が埋め込まれていて、循環的あるいは再帰的定義になってしまっている。だから論理的には定義の資格を満たしていないのだが、この矛盾にこそ代表歌の本質があるのではないだろうか。それは〈自己〉とは、〈世間が私と見なしているもの〉だというのと平行的である。もっとも、〈ほんとうの自分〉が、どこかに (インドかネパールあたりの道ばた) あるにちがいないと考えている若い人には納得できないだろうが。

044:2004年3月 第4週 大塚寅彦
または、ぬばたまの鴉よ時を得て月光に声高く鳴け

烏羽玉の音盤(ディスク)めぐれりひと無きのち
     われも大鴉を飼へるひとりか

            大塚寅彦『刺青天使』
 「烏羽玉(ぬばたま)の」は「黒」にかかる枕詞だから、古風に音盤と書かれたレコードは、黒光りするLPレコードか、ひょっとするとSPレコードかもしれない。時間は夜でなくてはならない。深夜一人でレコードに耳を傾けているのであろう。流れているのはバッハのゴールドベルク変奏曲か、マーラーの交響曲か。「大鴉」はもちろんエドガー・アラン・ポーの長詩 Ravenで、Nevermore と陰気にリフレインを響かせたあの鴉である。作者大塚は鴉に思い入れがあるらしく、他にも何首か鴉の歌がある。

 鴉らの影また黒しにんげんの影よりわづか濃き烏羽玉に

 らうらうと鴉は鳴けよ銃身の色なる嘴(はし)を冬空に向け

 選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て

 「われも大鴉を飼へるひとり」とは、自分の内部に鴉に象徴されるものを秘めているということだろう。それが何かは定かではないが、鴉の黒色とその陰気な鳴き声が示すように、自分の暗い斜面へと傾斜する何かであり、それが大塚の歌の源泉となっていることは確かである。上の二首目「らうらうと」に見られるように、身中の鴉は時を得て声高く鳴くのだ。またその黒色は、あらゆる色彩を吸収し黙する黒ではなく、月光という詩想を得ればみずから光を放つものでもある。

 わがうちに変形真珠(バロック)なして凝るもの月させばあはく光はなたむ

 大塚寅彦は1961年生まれ。19歳で中部短歌会に入会し、春日井建に師事している。1982年「刺青天使」30首により短歌研究新人賞を受賞。1985年に出版された『刺青天使』は第一歌集である。「刺青」は「いれずみ」ではなく、「しせい」と読む。ライトヴァースの火付け役となった俵万智の『サラダ記念日』と2年ちがいの刊行とは思えないほど、端正な文語定型を自在に乗りこなして、青年の清新な抒情を歌った歌集である。

 をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪

 洗ひ髪冷えつつ十代果つる夜の碧空色の瓦斯の焔(ひ)を消す

 ねむりばす咲(ひら)きぬ或るは水底に沈める者の永久(とこしへ)の夢想

 翼痕のいたみを忘るべく抱くと淡く刺青のごとき静脈

 わが鳥のふかき飛翔を容るるべく真冬真澄の空はあらむを

 中山明の章でも述べたことだが、このような短歌が20歳そこそこの若者の手によって作られたとは信じがたい奇跡である。今の20歳くらいの人が作る短歌はたとえば次のようなものなのだ。

 初めてのビキニ誰にも見られてはいけないようで海にころがる 平山絢子

 自転車を懸命にこぐ君の背に顔をうずめるこれ天国かな  丹下佳美

 このような短歌と大塚の短歌の間には、文語と口語のちがいを遙かに越えた超弩級のクレバスが口を開いているように感じるのだが、そのことはまた稿を改めて論じることとしよう。

 『刺青天使』に収録された短歌を読んでいると、そこには大きく分けてふたつの流れがあるように思う。ひとつの流れは上に引用した五首目「わが鳥の」や、「陽のなかにわが眸は澄めよひらかれし白き翼のごとし雪嶺」のように、青年のロマンチシズムが香るような歌で、視線を上げて上を「見上げる歌」と言えよう。そこには青年特有のいささかの背伸びがあってもよい。もうひとつの流れは上の三首目「ねむりばす」や「花の屍(し)ににじむつきかげ いもうとの匂ひ百花香(ポプリ)のうちにまじりて」のように、伏し目がちに呟く「うつむく歌」の系列である。つまり、内面に屈み込む姿勢を取る歌、内部からの夢想を紡ぎ出す空想の勝った歌をいう。私は子供のころから夢想癖があって根が暗いせいか、どうしても「うつむく歌」の方に惹かれてしまう。同じ血を感じるのである。

 私見によれば、「見上げる歌」と「うつむく歌」の両者を繋ぐのが、引用歌四首目の「翼痕の」ではないかと思う。これは『刺青天使』という歌集の題名のもととなった歌であり、作者自身も要の場所にある歌と位置づけていると取るのが自然だろう。肩に翼の痕があるとは、自分を翼をもがれた天使と捉えているとの謂である。そして皮膚を走る青白い静脈は刺青を思わせる。だから刺青天使なのである。なぜか故あって地上に落とされた天使は、天上の特性と地上の特性を合わせ持つ矛盾した存在である。今この世にこうして生きている不思議と不全感を象徴する喩として、歌集全体を紋章のように刻印していると言えよう。

 しかし、このアンビバレントな緊張感は、第二歌集『空とぶ女友達』、第三歌集『声』、第四歌集『ガウディの月』と読み進むにしたがって、だんだんと薄れて行くように感じられる。次のような歌が多くなってくるのである。

 生没年不詳の人のごとく座しパン食みてをり海をながめて 『空とぶ女友達』

 天使想ふことなく久してのひらに雲のきれはしなす羽毛享く

 ひとは争ふべく差異をもつ夕暮の雑踏ひとり瞰してをり 『声』

 吊革に立ちてすずろに思ふこと亀甲を出ず亀は生を終ふ

 倦怠を肝(かん)のせゐとし臥しをればジョニ赤の男(ひと)卓を歩めり 『ガウディの月』

 独り住むわれはも心萎えし夜は吃驚箱(びっくりばこ)に棲むジャック想ふ

 「天使想ふことなく久し」の句が象徴的に示しているように、かつて青年期には地上に落とされた天使と感じた自分だが、地上に長く住み暮らすうちに、だんだんと天上的特性が薄れ、地上的特性が優位を占めるようになる。それは年齢を重ね、日々の塵埃にまみれるということでもある。だから時に倦怠の色濃い歌が生まれるのだろう。上に引用した六首目「独り住む」のように、淋しさの滲む歌も多く見られる。ここには引かなかったが、9.11同時多発テロを詠んだ時事詠や、先輩歌人永井陽子の死去を悼んで作った歌もある。また次のような現代風俗を取り入れた歌もある。

 ルーズソックス脱皮過程の脚の群秋のひかりを乱しつつ過ぐ

 電脳をめぐれるワーム世界すでにバベルの網(ネット)に支配されつつ

 ローソンの若き店員ぎんいろのピアスは何を受信してゐむ

 しかし、大塚の魅力はその感性の鋭さと繊細な表現にあり、近作においてもその魅力は健在である。

 わがめぐりのみにゆらめき世界より隔つる冬の陽炎のあり

 淡水のなか貝らわづかにくち開けて吐きつつゐたり海の記憶を

 燐寸すれば燐寸となりし樹の夢のほのかに揺らぎ細りゆきたり

 蜻蛉は透き羽にひかりためながらわがめぐりを舞ふ死者の軽さに


 『現代短歌最前線』(北溟社)上巻に収められた自選100首は、「2033年トラヒコ72歳」と題されており、添えられた文章もまた、自分が72歳になった未来社会の情景である。ひょっとして作者は、老成をこそ求めているのかも知れないとも思えるのである。

043:2004年3月 第3週 『レ・パヒエ・シアン』の歌人たち

 京都の寺町二条に三月書房という本屋がある。木造二階建和風家屋の一階部分が売り場だが、その古ぼけた外観といい、奥にある風呂屋の番台のような帳場といい、古本屋を思わせる風情だが、れっきとした新本書店である。その地味な外観とは裏腹に、三月書房は知る人ぞ知る伝説的な有名書店なのだ。京都に住む読書好きの人で、三月書房を知らない人はいない。世の中の流行から超然とした独自の基準による選本がその理由である。売れ筋の雑誌や文庫本など、どこにも置かれていない。私は商売柄、出版社と付き合いが深いが、いつぞや東京の大手出版社の人が、京都に営業に行くときにはまず三月書房に挨拶に行くと言っていた。出版社からも一目置かれているのである。

 三月書房はまた短歌関係の本の品揃えでも知られている。京都ではここでしか見つからない本が多い。短歌の同人誌も数多く店頭に置いている。『レ・パピエ・シアン』も三月書房で見つけた月刊同人誌のひとつである。『レ・パピエ・シアン』のカナ表記と、「巴飛慧紙庵」という暴走族のチーム名のような漢字表記と、les papiers cyans というアルファベット表記が並んでいるので、どれが正式の誌名表記なのかわからないが、とりあえず『レ・パピエ・シアン』と書くことにしよう。「青い紙」という意味だという。ブルーの紙を使った瀟洒な雑誌で、同人誌らしく手作り感がにじみ出ている。短歌好きが集まって、ああだこうだと言いながら同人誌を作るのは、きっと楽しい遊びにちがいない。

 結社は主宰者の短歌観に基づく求心力をその力の源泉としているため、いきおい参加者の作歌傾向が似て来る。それにたいして同人誌は気が合う仲間で作るもので、作歌傾向はばらばらでもかまわないというルーズさが身上である。『レ・パピエ・シアン』も同人誌らしく、堂々たる文語定型短歌からライトヴァース的口語短歌まで、さまざまな傾向の短歌が並んでいる。同人のなかでいちばん名前を知られているのは、たぶん大辻隆弘だろう。しかし、私は今まで名前を知らなかった歌人の方々をこの同人誌で知ったので、気になった短歌・惹かれた短歌を順不同で採り上げてみたい。2004年1月号~3月号からばらばらに引用する。

 この同人誌でいちばん気になった歌人は、何といっても桝屋善成である。

 底ひなき闇のごとくにわがそばを一匹の犬通りゆきたり

 悪意にも緩急あるを見せらるる厨のかげに腐る洋梨

 なかんづくこゑの粒子を納めたる莢とし風を浴びをるのみど

 紛れなく負の方角を指してゆくつまさきに射す寒禽の影

 手元の確かな文語定型と、よく選ばれた言葉が光る歌である。なかでも発声する喉を「こゑの粒子を納めたる莢」と表現する喩は美しい。テーマ的には日々の鬱屈が強く感じられる歌が多い。日々の思いを文語定型という非日常的な文体に載せることで、日常の地平から飛翔して象徴の世界まで押し上げるという短歌の王道を行く歌群である。

 病む人のほとりやさしゑ枕辺を陽はしづやかに花陰はこぶ  黒田 瞳

 みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭ほどの固さかと思ふ

 さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて

 凍み豆腐やはらにたきて卵おとす卵はゆるゆる濁りてゆくを

 黒田も文語定型派だが、言葉遣いにたおやかさを感じさせる歌が多い。漢字とかなの配分比率、やまとことばの駆使、歌に詠み込まれた感興の風雅さが特に際立つ。ある程度の年齢の方と想像するがいかがだろうか。「さかしまに」の歌は幻想を詠んだものだが、木が歩くというのはマクベスのバーナムの森を思わせ、「夜世わたらむ」と定型七音に収めず、「夜世わたらむよ」と八音に増音処理したところに余韻を残す工夫があり手練れである。

 母を蘇らせむと兄は左脚、弟は身体全てを捧ぐ  服部一行

 最大の禁忌〈人体錬成〉に失敗す幼き兄弟は

 哀しみに冷えゆく〈機械鎧 (オートメイル)〉とふ義肢の右腕、義肢の左脚

 なかでも異色なのは、服部一行の「鋼の錬金術師」と題された連作だろう。TVアニメ化もされた荒川弘の同名マンガに題材を採った作品だが、「人体錬成」「機械鎧」(アーマー/モビルスーツ)というテーマは、サブカルチャーと隣接するとはいえ現代的である。短歌の世界では扱われたことのないテーマではないだろうか。ちょうどついこのあいだ、鬼才・押井守の傑作アニメ『攻殻機動隊』を貸ビデオで見たところなので、特に気になるのかもしれない。ちなみに、『攻殻機動隊』を見ると、『マトリックス』がいかに影響を受けたかがよくわかる。服部の短歌に戻ると、この連作が短歌として成功しているかどうかは疑問の余地があるが、短歌における新しい身体感覚の追求として興味深いことは事実である。

 もう一人異色歌人は渡部光一郎である。

 中井英夫は江戸っ子にてしばしば指の醤油を暖簾もて拭き

 見習いは苦汁使いに巧みにて主人の女房をはやくも寝取る

 豆腐屋「言問ひ」六代目名水にこだわり続けたりと評判

 江戸落語を思わせるような威勢のいい言葉がぽんぽんと並んだ歌は、俗謡すれすれながらもおもしろい。ちなみに2004年2月号は「都々逸の創作」特集だが、他の同人の作には都々逸になっていないものが多いのに、渡部はさすがに「椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる」と達者なものである。

 その他惹かれた歌をあげてみよう。


 わが額にうつうつとまた影生(あ)れて ふるへる朝のふゆの吐息よ  角田 純

 軋まないようにゆっくり動かして重たき今年の扉を閉じぬ  藤井靖子

 重ねたのは仮止めとしての問いの板だからだろうか神を忘れて  小林久美子

 抽出にさよならだけの文あるにまた会ふ放恣の盃満たさむと  酒向明美

 携帯を持たぬ我は今やっと時を操る力を手にする  渋田育子

 忘れゆく想ひのあはき重なりに花はうすくれなゐの山茶花  矢野佳津

 角田の「わが額に」の口中に残る苦みも短歌の味わいである。藤井の歌は年末風景を詠んだものだが、日常から1mほど浮き上がることに成功している。この空中浮遊ができるかどうかが作歌の決め手である。小林の歌は「舟をおろして」という連作の一首で、手作りで舟を作っているのだが、「仮止めとしての問いの板」という喩に面白みがある。短歌は完全に解説できてしまうと興趣が半減する。どうしても謎解きで説明できないものが残る短歌がよい歌だろう。

三月書房のホームページ
『レ・パピエ・シアン』のホームページ

042:2004年3月 第2週 中山 明
または、白鳥はラストトレインに乗って遠ざかる

歳月は餐をつくして病むものの
 かたへに季節(とき)の花を置きたり

            中山明『愛の挨拶』
 中山明の名前を最初に見たのは、塚本邦雄『現代百歌園』(花曜社1990年刊)のなかである。この本は塚本が100人の歌人を選び、それぞれの代表歌を挙げて、塚本特有の高いトーンで解釈を施したアンソロジーであり、私が短歌に興味を抱くきっかけとなった本でもある(現在は絶版)。塚本は中山の第一歌集『猫、1・2・3・4』(遊星舎1984年刊)から、その後よく引かれることになる次の歌を挙げている。

 あるいは愛の詞(ことば)か知れず篆刻のそこだけかすれてゐたる墓碑銘

 七・七・五・八・七(または四・十・五・八・七)の破調ながら、三句「篆刻の」の定型五音と漢字表記の強い存在感が、上二句のなだれ込むような十四音を静かに受け止め静止させ、下句にゆるやかに接続することで見事に定型として成立している。「そこだけかすれて/ゐたる墓碑銘」の句跨りも前衛短歌風である。塚本が代表歌とした理由がよくわかる選歌といえよう。「暗い可能性、甘美な断念、新鮮な古典主義、その他、種々の背反する美的要因を、ほとんど無傷のかたちで三十三音化した稀に見る佳品」と賛辞を呈している。

 孫引きになるが、第一歌集『猫、1・2・3・4』には、他に次のような歌が見られる。

 日常のほとりをあゆむ青鷺の脛うつ水もあやまたず見き

 月を見る平次の腰にくろがねの〈交換価値〉の束はゆれたり

 百億の華燭の径よ 婚畢(を)へて白き辛夷の宵を還らむ

 水風呂に夏の陽のさすひとときをわれは水夫の眸をしてをらむ

 誰もゐぬ椅子の描かれてあるごとく簡明に来る晩年をおもふ

 中山は1959年生まれで、第一歌集刊行時は25歳である。「あるいは愛の詞」は21歳の作だという。その年齢で文語定型を自由に操り、加えて前衛短歌の語法も自家薬籠中のものとしていたとは驚くべき早熟と言わねばならない。穂村弘は、「このような高度な文体を自由に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と述べている(連載「80年代の歌」第2回、『短歌ヴァーサス』2号)。ちなみに「彼ら」とは、中山、紀野恵大塚寅彦をさす。穂村は「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けているが、今の短歌の動向を考えるうえで考えさせられる言葉である。

 文体の早熟と並んで注意を引かれるのは、中山の歌に詠まれた〈想い〉である。墓碑銘のかすれを見て、愛の詞だったかも知れないという発想は、21歳の若者のものとは思えない。他の歌に見られる、「日常のほとりをあゆむ青鷺」とか、「婚畢(を)へて白き辛夷の宵を」なども同じである。引用歌の最後「誰もゐぬ椅子」の「簡明に来る晩年」など、ほとんど「老成」という言葉がふさわしいほどである。モラトリアムが限りなく引き延ばされた現代では、若者はいつまでも若く、歳を取ることができなくなったが、中山の感性は明らかにモラトリアム時代到来以前のものであり、ほとんど古典的とすら思える。

 文芸の世界で早熟は栄光であると同時に災厄でもある。早熟はレエモン・ラディゲのような夭折を招き、アルチュール・ランボーのような歌のわかれの遠因となる。かつて同人誌「かばん」で中心的役割を演じた中山も、第二歌集『愛の挨拶』(沖積舎1989年刊)を最後に、短歌の世界から遠ざかってしまった。第三歌集『ラスト・トレイン』は中山のホームページ翡翠通信で読むことができるのみである。

 『愛の挨拶』からいくつか拾ってみよう。

 欲望の淵の深みに潜みゐる鮮紅の魚をおもひゐたりき

 わたくしはわたくしだけの河に行く 五月、非力な釣竿(ロッド)を提げて

 川下にあまたの街をちりばめてはなやぐごとし初夏の早瀬は

 追憶のかたちとなりてしのばずのみなもに浮かぶけふの鴨たち

 万物の日暮れにあをき雨ふりてつひに熟さぬ実は堕ちにけり

 文語定型の基本は守りながらも、第一歌集に比べて明らかにひらがな表記が増えている。これら定型の歌に混じって、次のような口語で非定型に近づく歌も見られる。

 逃げられてしまふのもいい わたしくをよぎるあまたのもののひとつに

 手ばなしの夏にあなたはゆれながら水のほとりにたたずんでゐる

 どこかで僕らを視てゐるのだらう 透明な湖水の底のしづかな鱒たち

 この傾向は、『ラスト・トレイン』ではさらに顕著となる。

 ぼうっとしてゐるあなたが好きでぼくはもうこんなところまできてしまった

 詳しくはしらないけれどロング・ボブみたいな髪型(かみ)でうつむきかげんで

 もうぼくはここにはゐない 校舎から自動オルガンの賛美歌が聞こえる

 もうそんなに薬を飲むのはやめないさい こんなしづかな星たちの夜に

 『愛の挨拶』にも破調の歌はあるのだが、その多くは上句に見られ、下句は定型でまとめられていることが多い。たとえば次の歌は七・七・五・七・七である。

 やがてかなしき狩りのロンドを吹き鳴らせ 十八世紀、春の小川に

 小池光「リズム考」(『街角の事物たち』五柳書院)によると、初句増音のうち、五音を七音に増やすのはいちばん無理がないという。だからこの増音は定型からの微妙なずれに留まる。

 ところが『ラスト・トレイン』になると、一転して下句の破調が多く見られるようになる。

 どうしやうもない僕たちのかたはらにエスケープ・ルートのやうな闇は降りたつ

 無理にでも「どうしやう/もない僕たちの」で区切るとすれば、五・八・五・十二・七となる。短歌の要である三句の「かたはらに」には、初句・二句の句跨り十三音を受け止める強さがなく、そのままなだれこむように四句の十二音に移行するため、ずいぶん定型から隔たった印象を残す。小池によれば、浜田到に「死に際を思いてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり」という四句十二音の例があり、小池の知る限りの最大増音の例だそうだが、中山のこの歌は同数音ながら浜田よりさらに破調の印象が強い。このように下句に非定型が増加していることは、中山の作歌態度の明らかな変化として捉えるべきだろう。第一歌集『猫、1・2・3・4』で塚本から「新鮮な古典主義」と評された歌風は、ライトヴァースへと変化しているのである。

 中山が短歌の世界から遠ざかったことを悲しんだ村上きわみは、「永遠のイノセント 中山明『ラスト・トレイン』小論」(『短歌ヴァーサス』2号)を書いた。この文章のなかで村上が強調しているのは、『ラスト・トレイン』全編に漲る〈訣れ〉〈これきり感〉〈喪失の気配〉であり、その白鳥の歌的印象である。確かに村上が引用している次のような歌は、不思議なほど透明で無音感に満ちたせつない世界である。

 さやうなら 訣れの支度ができるまで水鳥の発つさまをみてゐる

 いつかしづかな訣れの夜が来るまでのしらないふりのぼくたちのために

 ながれゆく風景の色 ぼくはただあなたのゆめをみてゐるだけだ

 ありがとうございました こんなにもあかるい別れの朝の青空

 村上は『ラスト・トレイン』のなかでも、特にライトヴァース的な短歌を選んで取り上げている。しかし、これを見て中山明の歌の世界だと思ってはいけない。このライトヴァース感覚の短歌は、文語定型の作歌技法を知り尽くした人だけが到達できる世界である。

 たしかに村上の指摘するように、『ラスト・トレイン』には喪失の気配が濃厚にたちこめている。それは中山の〈歌のわかれ〉と無縁ではあるまいが、もう一方ではすでに25歳の第一歌集『猫、1・2・3・4』に漂っていた老成の気配に由来するようにも感じられる。つまりは、中山は「見てしまった人」だということなのだ。

 私は村上とはちがって、『ラスト・トレイン』のなかではとりわけ次のような歌にかつての中山らしさを感じ、中山が遠ざかってしまった短歌の世界を愛惜するのである。


 薄墨の花に疲れてうつろへば昨日訣れし指をおもへり

 ゆるやかに死のあしもとへむかふきみのはぐれさうなそのまなざしをおもふ

 魅入られし者ゆゑふかく畏れたる死の蔭に降る春の淡雪

 モーツァルトを聴く部屋の椅子 いつか死ぬ者として在るこの世の隅に

 背(せな)青き魚のはこばれゆきたるはあふみ大津の春の花蔭

 鳥は樹にひとは泉に疲れたるたましひの緒をひたしゐたるかな

中山明のホームページ翡翠通信
http://www.ne.jp/asahi/kawasemi/home/