075:2004年10月 第4週 小笠原和幸
または、「生の目標は死である」と思い定めた歌の数々

一切は烏有に帰する悦びへ
     火は立ち上がる逝く秋の野に

        小笠原和幸『テネシーワルツ』
 邑書林刊行の「セレクション歌人」叢書で、初めて小笠原和幸の名を知り、その短歌を読む機会を得た。第一歌集『馬の骨』、第二歌集『テネシーワルツ』抄、第三歌集『春秋雑記』完本が収録されている。「セレクション歌人」叢書は、藤原龍一郎と谷岡亜紀がプロデュースしているので、叢書の志向する傾向が明確だが、叢書収録の歌人の一人として小笠原を選ぶという選択は、なるほどと得心させるものがある。

 「セレクション歌人」叢書のひとつの特徴は、歌人自らの手になる略歴が巻末に付されているという点である。短歌には経歴からしか明らかにならないようなものもあるため、これが意外におもしろい。殊に小笠原は今まで上梓してきた歌集では、その経歴を明かさなかったようなのでなおさらである。「不確カナ記憶」30首で1984年に短歌研究新人賞を受賞しているが、その後は賞に応募するも連戦連敗だったようだ。1990年に第一歌集『馬の骨』を上梓するが、反響はまったくなく、未だにダンボール箱に初版300部の残部が残っているというのが意外である。というのも、小笠原の短歌は一読すれば強い印象を受け、忘れることのできないざらつきを心に残すからである。

 1956年生まれの小笠原の短歌に大きな影を落しているのは、東北岩手に生を受けたという「風土性」、4歳の時に生まれた妹がその年に事故死し、10歳のときに母親が病死するという、家庭内に充満する「死」、そして父の再婚により家庭に継母が住むようになるという「家族性」である。ここから容易に想像できるように、小笠原の短歌には濃密な「物語性」がこめられている。「東北の風土性」と「物語性」とが神社の狛犬のように左右に並ぶと、いやでも寺山修司の名が頭に浮かぶが、事実小笠原は高校生のときに寺山の『書を捨てよ、街へ出よう』に出会って、すっかりヤラレテしまう。めでたく寺山病の患者となり、東北を出奔してほぼ10年近く各地を転々とする。短歌を読むときにまず作者の経歴から入るというのはもちろん邪道なのだが、小笠原のように自らの歌の中に濃密な物語性を塗り込める歌人の場合には、住宅顕信のようなケースとはまたちがった意味で、いやでも経歴もまた短歌の一部となってしまうことを避けるのがむずかしい。歌の屹立を求める作者はこれを嫌うだろうが、少なくとも読者の側から見ればそう言える。

 亡母と継母ふたつ血筋は骨肉の果てを草葉の陰のどの位置

 三界ニ頸枷四人アリナガラ心ハ別ノ場所ニ置ク術

 僻村の秋晴れを行く霊柩車死にたき者の死にたる噂

 これの世に畜生として馬の目のすずしや馬の骨となるまで

 穢土浄土秋の畑に火を焚けば炎(ほむら)へだてて真向かふ父子(おやこ)

第一歌集『馬の骨』から引用した。ちなみに「亡母」も「継母」も「ハハ」と読ませる。音は同じだが漢字は違う。同じに見えて非なる母である。難解な所はないので一首ごとの解説は不要だろうが、家のなかに亡母と継母と父と私が暮すという環境での、作者の心の置きどころが読みとれる。端的に言えば家庭という「修羅」である。この感情は後に、「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立つてゐる」という、より短歌的に練れた秀歌となって結実するのだが、『馬の骨』では未だストレートに表現されているというべきか。語法上の特徴としては、「草葉」とか「三界」とか「穢土浄土」、また他の歌では「現当二世」などという仏教用語がよく使われている。こういう用語はいわゆる「手垢のついた言葉」なので、下手に使うと寺の門前に張られている今週の標語のようになるのだが、小笠原はそのことを熟知しつつも歌のなかでよく生かしている。四首目に見られるのは、人間のように修羅を生きる運命から自由な動物の生死の簡潔さへの憧憬である。このような眼差しは、東北の寒村に生まれて農業を営む父を持つという出自なくしては得ることがむずかしい。都市化の一途をたどっている現代短歌の現状で、このような眼差しは奇貨とすべきだろう。

 第一歌集『馬の骨』ですでに明滅しており、第二歌集『テネシーワルツ』で炸裂するのは、「人の生とはすべからく死へと至る道にすぎない」と断ずる人生観である。

 鈍牛が乾草を食む鈍重に生を咀嚼し死を消化する

 方形の卓に三人(みたり)が坐するまま我ら泉下の者となるべし

 よく冷えた西瓜四半分皿に置くいづれ一人の生き死にである

 生キ死ニニ意味無シソレハソレデイイノダガ蒼穹ヘ号砲ガ鳴ル

 この人生観はヨーロッパの文学・絵画でよく見られる Memento Mori「死を思え」というテーマと一見似ているようだが、実はだいぶちがう。「生とは徒労であり、人は生まれて飯を食い、子を成して死ぬだけである」という即物的無常観は、やはり仏教の国に生を受けた者ならではのものだろう。その文学的類縁種を探せば、おそらく深沢七郎の名があがるにちがいない。『楢山節考』「月のアペニン山脈」『笛吹川』などで深沢が執拗に表現したのも、このような即物的な東洋的無常観であった。深沢もまた、故郷山梨の土俗性を自分の文学の糧としていた点も、岩手出身の小笠原と共通するかもしれない。

 第二歌集『テネシーワルツ』ではかなり激烈に表現されているこの人生観は、第三歌集『春秋雑記』になるともう少し穏やかな諦観の風情を漂わせ始める。

 あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく

 知己の死を話柄としつつ老父母の朝餉そのままとどこほりなし

 食卓に卵(らん)ひとつあり一日のそしてすべての始まりとして

 しらほのねとひとかたまりとなりしかばすなはち立つる物質の音

 蹶然と土筆出てくる生まれてくるこの世のことは承知の上だ

 木に残る桃が順次に落下してしづかに腐る真昼の家郷

 「生には意味がない」と感じつつもそのことに煩悶していた年代を過ぎ、作者は意味のない生をとにかくお迎えが来るまでは生きるという思いに着地したかのようである。

 『新潮』2004年6月号で、車谷長吉が小笠原の歌評を寄稿している。車谷長吉といえば『赤目四十八瀧心中未遂』などの著者で、最後の私小説作家といわれている人である。車谷はこの文章のなかで、せめて文士や歌人は「生の目的は死であると覚悟したところで、文学に対処してほしい」と信条を披瀝して、小笠原はその覚悟がある近年珍しい人だと誉めている。続けて「生の目的は死である」と思い定めて生きるのはさぞかし辛かろうが、そういう人は「物のあわれ」を知る人だと断じ、それが真の歌人の運命であると結んでいる。車谷と言えば「文学の鬼」である。「文学の鬼」とは、全生活を文学に捧げ尽くし、そのためには女房を苦界に沈めることも厭わない人をいう。ちなみに車谷の奥さんは詩人高橋順子で、別に苦界に身を沈めているわけではないが。その車谷が認めたのだから、小笠原もまた「文学の鬼」なのである。短歌の世界で文学の鬼というと、穂村弘のような短歌が認められるようならば、自分は東京は青山墓地の茂吉先生の墓前で割腹すると言った石田比呂志や、「無名鬼」を主宰し自刃して果てた村上一郎などが頭に浮かぶ。私は好きで短歌を読んでいるだけなので、こういう人たちが怖くてならない。いきなり面と向かって、「お前には短歌に命を捧げる覚悟があるのか !」などと詰問されたら、「いえ、ありません、すみません」とひたすら謝って赦しを乞うしかない。

 小笠原の短歌にも似たような雰囲気が漂っているので、作者のこういう文学に対する姿勢が肌に合わない人は、何首も読むと心にアトピー反応を起こすかもしれない。心を大根おろしにかけられているような気がすることもある。そういう人は第三歌集『春秋雑記』になると多く見られる次のような、静かに覚悟を詠う歌を読むのがよろしい。

 しづまれる皿四枚が打ち合ひて音をたてたり小さき地震(なゐ)に

 この世のこと隈なく余すところなく暴いて夏の朝日が昇る

 みづからを嚆矢となして明けなづむ沍寒の空へ一羽飛び立つ

 躓いたお前をこえてゆくものは秋の終りの風のみならず

 「セレクション歌人」叢書『小笠原和幸集』に収録された歌論を見ると、歯に衣着せぬ物言いの人のようだ。特定の短歌の師もなく結社にも所属しない小笠原は、まさに孤高の人の名がふさわしい。おもしろい歌人であり、短歌界はその成果を正当に評価すべきだろう。

074:2004年10月 第3週 沖ななも
または、日常からかすかにずれる違和感の歌

道の端にヒールの修理待つあいだ
      宙ぶらりんのつまさきを持つ

           沖ななも『衣裳哲学』
 靴のヒールが壊れてしまい、道ばたで営業している靴修理屋に修理を頼むとき、片足だけ靴を脱いだ姿勢でどこかに片手でつかまりながら立つ。郊外鉄道の駅近くや、繁華街のガード下などで昔はよく見かけた風景である。掲載歌はこのときの姿勢の不安定さを詠ったものである。いつもなら履いているはずの靴が片方なく、ストッキングだけの足が剥き出しになって人目に晒されているのも居心地が悪い。歌のなかにはこの日常風景の描写以外のものは何ひとつないのだが、「宙ぶらりんの居心地の悪さ」がこのように意識的に詠われることによって、その感覚が日常の地平からわずかにはみ出す。沖の歌はこのように、日常生活の卑近とも言える具体的な断片を詠みながら、注意しなくては気づかぬほどわずかに非日常的世界へとずれ込むところに特徴がある。

 沖の作る歌が古典和歌や近代短歌のめざした「短歌的抒情」にたやすく回収されないのは、もともと詩人として出発したという経歴があるからだろう。「短歌的抒情」の一歩手前で、「オットドッコイ」と踏み止まる姿勢がある。沖はもともと自分の詩作の糧にするために、加藤克巳の「個性」に入会したという。だから第一歌集『衣裳哲学』には、加藤の作風を彷彿とさせるようなモダニズム風の歌が混じっている。

 おもいきり反り身で仰ぐ 鉄塔の先端鋭く鳥を削ぎにき

 波は波の風は風のかたちのまま止まり闇をむかえる夢想刻限

 博多湾めぐる長距離ランナーの脚のかたちが草刈鎌に似る

 荷を抛るおとこの腕が骨ばると高圧線は午後へたるんだ

しかし沖の独自の個性が光るのは上に書いたように、日常を詠いながらかすかに非日常へと転位する次のような歌である。永田和宏の言葉を借りれば、歌の開く「虚数空間」へと気づかないうちに移行する感覚である。

 さやえんどうの筋をとりつつ背中じゅうで義眼の視線を感じている

 九月 たとえば丸椅子の置場を変えるさりげなくまた確実に

 霊柩車が雨水はねて走りぬけしずかに水がもとにもどる間

 つたくさをたぐりよせればあらあらしひとの世界は饐えのきざしに

 まちはずれ不燃建材売る店の磨りガラスから犬の目ひかる

一首目、「さやえんどうの筋をとる」という台所の日常風景に、「義眼の視線」という非日常的なものがからまる。ただし義眼はいささか寺山風に作りすぎだろう。二首目、椅子の置き場を変えるのも家庭の日常的風景なのだが、下句で「さりげなくまた確実に」と締めると、それがのっぴきならない決定的選択であるかのような色合いを帯びてくる。部屋の空気が変わる感じがする。三首目はこちらを掲載歌に選ぼうかと迷った歌で、発想は葛原妙子の「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」とよく似ている。ただし、葛原が物質世界の形而上性に眼差しを注いでいるのにたいして、沖の視線はずっと地上的である。霊柩車が人の生き死にのはかなさを暗示し、乱された水溜まりの水がもとにもどるわずかな時間が、人生の短さを形象化している。四首目、蔦草をたぐり寄せるというのが何の行為なのかはよくわからないが、「あらあらし」を導く序詞と解釈することもできよう。「世界が饐え始めている」という漠然とした不安な予感と、蔦草のざらついた触感とが一首を成り立たせている。五首目、建材屋の磨りガラスもまた何の変哲もない光景だが、暗い屋内から光る犬の目によって、日常はわずかに歪み、そこから世界がずれ始める。

 『衣裳哲学』の中には、近代短歌の開発してきた短歌的抒情により近い作品もあり、それはそれでなかなか美しく、私はこのような燃焼系の歌を愛誦している。

 鳥の目に射すくめられたる冬の夜に薄手茶碗の割れる音きく

 性と愛かなしきものか草かげの迷いの黄蝶蔓にたゆたう

 葬列の行きすぎがてにからたちの実をもぎたれば空は澄みたり

 寒の卵(らん)冷えきわまりてたちまちにかなしみとなり朝(あした)割られる

 しかし、脈動する短歌的抒情の溢れるこのような作品は、第二歌集『機知の足音』以降は急速に姿を消して行く。なぜだろうか。それは、近代短歌における短歌的抒情を支えている「対象との同化」を、沖がいつの頃からか忌避するようになったからだと思われる。近代短歌の大きな水脈である「対象との同化」を、これ以上ないほどよく示す作品がある。角川『短歌』2004年8月号の特集「101歌人が厳選する現代秀歌101首」で紀野恵が選んだ歌である。

 とぶ鳥を視をれば不意に交りあひわれらひとつの空のたそがれ
             柏原千恵子 「七曜」26号 (2002年)

 「見る〈私〉」と「見られる鳥」とが歌人の視線の切り取る空間で一体化し、後にはたそがれの空だけが残るというこの歌の美しさは圧倒的である。人間と自然との主客合一の水脈は、古典和歌の世界に遡るし、もしかしたらもっと古い時代の、人間と神の合一を希求した祝詞にまでも遡行する可能性もあるだろう。この歌に典型的に見られる「対象との同化」が、言葉を詩へと昇華し、短歌的抒情を浮上させる重要な経路のひとつとして働いてきたことは疑えないことである。

 しかし「同化」とは彼我の差異を消去することだ。しかるに沖は掲載歌にも見られるように、「世界に対する異物感」に固執がある。「宙ぶらりんの居心地の悪さ」は、世界と同化することができないという感覚以外の何ものでもない。だから沖は、眼前の対象を見つめつつもそれには同化せず、かすかな違和感とともに距離を保つというスタンスを採るのである。その視線は時に皮肉な色を帯びる。

 世界地図に永世中立国のうすみどり漠然と見てからページを閉じる

 地獄極楽絵図みせられても、だまってまな板のぬめりを洗う

 陽だまりに蜘蛛おりてきて 昼火事のサイレン響く なまあくびする

 刃物屋のナイフがにぶく語りかける 買いたければこれは売りもの

 一首目の世界地図を漠然と見てから閉じるという動作は、世界を眼前に開きながらもそこには入っていけない自己のスタンスを象徴する。二首目、地獄極楽絵図は宗教や形而上学からの誘いと解釈してもよいのだが、どんなに魅力的な誘いであっても自分はそれには乗れない。三首目の蜘蛛や消防車のサイレンは不吉な予兆と世界の危機の形象化であるが、私はそれとは関係なくなまあくびをしているのである。ここには世界の進行と自分の体内リズムとの違和感の認識が顕著である。四首目のナイフはまるで挑むかのように私に語りかけているが、それは自傷行為か他傷行為へのふてぶてしい誘いである。

 このようなスタンスが作歌方法に反映されるとき、歌はどのような姿をとることになるだろうか。永田和宏は「「問」と「答」の合わせ鏡 I」(『表現の吃水』所収)のなかで、短歌の構造を上句の「問」と下句の「答」(またはその逆)の合わせ鏡と規定し、「その「問」をいかに遠くまで飛翔させ得るか、そしてその「問」をいかにうまくブーメランのように回収することができるか」が、定型短歌の生命線だと主張した。この手法を採ると「燃焼系」で「カッコイイ」短歌ができる。ところが沖のようなスタンスを採ると、日常生活の断片が提示する問を「遠くまで飛翔させる」ことにはならず、問は投げ損ないのボールのように目の前にボテッと落下する。すると永田が言うごとく「ブーメランのように回収する」ことは不可能になり、トボトボと拾いに行くしかなくなるが、それは作歌においては下句の崩れとなって現われる。次の歌の下句のズブズブ感は明らかに意図的である。

 家族眠るトタンの屋根をゆっくりとはらみ猫だろうかいま歩いている

 欲情したようにひかる自転車ブロックの塀にもたせかけてある

 折りあしくあるいはおりよく雨となり駆け込むというにはあらねど入る

沖のこのような作歌姿勢は、木への愛着、なかんずく上ではなく下へ伸びる枝に注ぐ眼差しとして、歌題としても顕在化しているのがおもしろい。

 皀莢(さいかち)の流れへ傾ぐ古幹の上へ向く枝下へむかう枝

 上向きの枝にまじって下向きの枝がおもいのほかにいきおう

天に向かってすっくと伸びる枝は、ややもすれば自己美化に向かう「カッコイイ」短歌への志向だが、自分はその道を採らず下へと向かう枝になるという沖の歌人としての生き方を詠ったものと取ってよい。この結果、沖の作る歌はつぶやくような「ただごと歌」にだんだん近づいて行くのである。次のような歌にはもう、初期の歌に見られた日常からのかすかなずれはなく、日常そのままである。

 汚れれば裏がえし折りかえし雑巾(ぞうけん)の四つの平らを使いきるまで

 セーターをとりだしやすいところから引っぱりだしてとりあえず着る

 ここで私ははたと考え込んでしまうのである。たとえぱ小池光も清新な抒情に溢れた初期の歌風をのちに自分で意識的に壊してしまい、ただごと歌とも見える短歌を作るようになる。次の一首目と二首目の懸隔は誰の目にも明らかだろう。

 あかつきの罌粟ふるはせて地震(なゐ)行けりわれにはげしき夏到るべし 『バルサの翼』

 ごきぶりはこどもらさへも一夜明くれば誘引剤にみなとらはれつ 『草の庭』

 何歳になっても青春の抒情を詠い続けるというのも、確かに気持ちが悪いかもしれない。それでは短歌界の引き延ばされたモラトリアムになってしまう。また同じ地点に留まって歌を作ると、自己模倣に陥ることも確かである。時間経過による歌風の変化は必定と言えるかもしれない。しかし沖のように、初期の作品に見られた非日常空間へのかすかな転位すらも消去してしまうと、言葉が詩の空間へと浮上する揚力を失ってしまうのではないだろうか。歌集を読み進むにつれて、好きな歌に付ける付箋がまばらになってゆくのが、何とも淋しい気がするのである。

073:2004年10月 第2週 伴 風花
または、〈私〉と三十一文字が向き合う原理主義者はせつなさが好き

なんどでもひかりはうまれもういちど
     春の横断歩道で出会う

          伴風花『イチゴフェア』〔風媒社〕
 伴風花は1978年(昭和53年)生まれ。履歴によると97年から作歌を始めたとある。結社には属さず、歌誌「かぱん」とラエティティアを活動の場とするニュータイプの歌人である。私はかねてより「かばん」のなかでは伴風花に注目していた。『イチゴフェア』は今年 (2004年) 5月に出たばかりの第一歌集であり、第一回歌葉新人賞で上位入選した連作「 Fairly Light」を巻頭に収録している。歌集を飾る写真には西崎憲のクレジットがついている。西崎といえば名作『世界の果ての庭』の作者ではないか。多能の人である。

 伴が作歌を始めたのはどういう時代だろうか。97年(平成9年)は、神戸で小学生殺人事件(酒鬼薔薇聖斗事件)が起きて世間を騒がせ、パリではダイアナ妃が事故死し、山一証券が破綻した年である。短歌の世界では「アララギ」が終刊し、パソコン通信のニフティーサーブで短歌フォーラムが開設された。このキーワードをつないで行くと、だいたい時代の雰囲気がわかる。91年頃に始まったバブル経済崩壊が大手証券会社の破綻という戦後初の事件を出来させ、不可解な猟奇的殺人が人々を震撼させるという不透明な時代にさらに暗雲が立ちこめたような気分である。「アララギ」の終刊は、戦前から戦後へと続いた近代短歌の終焉を象徴する。それに代わって台頭するのは、パソコン通信とその発展形としてのインターネット短歌である。口語ライトヴァースは、俵万智の『サラダ記念日』(87年)以後10年を経て、議論を巻き起こしつつもすでに短歌の世界に定着済みだ。このような時代に短歌を作り始める人は、何を / 誰をロールモデルとして歩み始めるのだろうか。もはや近代短歌の遺産との接続は完全に切れている。かといって、80年代に出現した山崎郁子『麒麟の休日』や干場しおり『天使がきらり』ら新世代の、バブル経済の明るさと都市的ポップさを背景とした気分と語法もまた過去のものとなっている。おそらく伴が短歌を作り始めるとき、手本となるロールモデルは存在しなかったのではないだろうか。

 川野里子は『短歌ヴァーサス』第5号で「歌論なき時代の祈りの群像」と題して若手歌人を論じ、その特徴として歌論の不在をあげている。それは、短歌をめぐる論戦や評論が歌壇に不在だという意味ではなく、実作としての短歌の中に内包される、もしくは作歌に前提とされる、歌人一人一人のなかで短歌形式を問い直すという沈黙の対話行為の不在をさしている。そして現代の若手歌人は、「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間、そのさまざまな試みや議論を捨象した最もスリムな形をして」(川野)おり、「三十一文字と『私』だけが居る」(同)シンプルな形をしていると指摘している。

 川野の指摘はおそらく的を射たものだろう。伴の短歌を見ても、そこには「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間」を感じさせるものはまったくない。まるで〈私〉が短歌という三十一文字の短詩形式を発見したかのようである。そして、おそらく伴自身も実感としてそのように感じているのではないか。裸の〈私〉と三十一文字だけが向き合うというシンプルな対峙の場からは、どのような歌が生まれるのだろうか。

 それはまず過ぎ去った少女時代を回想する歌と、思いの届かない恋人への相聞という形式を採る。そしてこのふたつはほとんど同じ性質のものである。

 三度目の夏をむかえて部員別「あれ」のなかみもだいたいわかる

 うらやましがられるけれど「南ちゃん」みたいに扱われたりはしない

 まっくろい靴下カバンに押しこんでむれたってはくルーズソックス

 空色のクレヨンばかり減っていた好きがあんなに見えていた頃

 もう二度と触れることなききみの髪 手をのばしたら届く距離でも

 初めの2首で〈私〉は野球部の女子マネージャーをしているのだろう。あだち充の名作『タッチ』のヒロイン南ちゃんと自分を較べている。最後の2首は恋人または憧れの人への相聞である。しかしこの相聞もまた、少女時代の回想と同じように、「もはや手の届かない所」への愛着と惜別という色に染まっていることに注意しよう。確かになかには現在形の恋愛を詠ったものもある。

 「うごく」「いや動かない」「いや」真夜中に二人そろってまりもを見張る

 しかし集中の初めの方に置かれているこの歌には、巻末近くの次の喪失の歌が呼応するのである。まるであらかじめ喪失が運命づけられているかのように。

 あの日から一年二ヶ月十二日まりもは一度もうごかなかった、と

 このように〈私〉はひたすら自分の思いを三十一文字に盛ろうとする。あとがきにあるように、伴にとって短歌とは「時々、一瞬、流れ星のようによぎってゆくきらきらした気持ちやできごと」を、「閉じこめておく」器なのである。このような短歌観から何が出て来るだろうか。自分の思いを閉じこめておく形式としての短歌と対をなすのは、感じたことを短歌に閉じこめようとする〈私〉である。短歌という鏡の前に、裸の〈私〉が立っている。〈私〉は素直でピュアであればあるほど、鏡に映った姿もピュアになる道理だ。これは短歌におけるプロテスタンティズムであり、一種の原理主義である。

 しかしここには重大な陥穽があることに気づかなくてはならない。それは鏡に映った〈私〉を素直でピュアな姿にしようとすればするほど、〈私〉は傷つき血を流さなくてはならないということである。〈私〉と三十一文字のあいだに媒介するものが何もなく、直接に向き合うという構図は、ある種の痛ましさを生み出す。川野里子の言うように、今の若手歌人の作る短歌に、「前衛短歌とは全く異なるもっと荒涼とした今」が感じられ、「モノローグの深い寂しさ」があるのは、そのためではないだろうか。煮ても焼いても食えないベテラン歌人は、こういうあまりにも剥き出しのスタンスは採らない。〈私〉と三十一文字のあいだに、第三項として機能すべき何かを注意深く配置する。それは結社であったり、結社の主宰であったり、継承すべき近代短歌の伝統であったり、破壊すべき伝統であったり、私淑する歌人であったりと、性格と実質は様々である。こうしておくと、〈私〉は直にではなく、第三項を媒介として三十一文字と向き合うことになり、〈私〉が皮膚を露出させて血を流すという事態は避けることができる。一種の安全装置と言えなくもない。だからこそ、このような安全装置を嫌う歌人がいても、これまたおかしくはないのである。

 〈私〉と三十一文字とが裸で向き合うという伴のようなスタンスは、実際の作歌にどのように反映されるだろうか。最も重要な帰結は「短歌的喩」の不在だろう。「短歌的喩」とは、吉本隆明が『言語にとって美とは何か』のなかで提唱した概念である。詳しくは、永田和宏『表現の吃水』に収録された「短歌的喩の成立基盤について」や、三枝昂之『現代定型論 気象の帯、夢の地核』のなかの「一回性の〈意味〉の屹立」のような優れた論考を参照していただきたい。話の必要上乱暴に要約すると、短歌はその詩形式としての構造上、原則としてすべてが喩として機能する説である。典型的には上句が下句の喩となったりその逆になったりするように、一種の内部に切れがあり互いに喩的関係を取り結ぶという構造となる。

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子  村木道彦

 暗渠の渦に花揉まれおり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ  塚本邦雄

 村木の歌で「めをほそめみるものなべてあやうきか」という青年期特有の危機感を一首の中核的意味と見れば、「あやうし緋色の一脚の椅子」はその意味を視覚化し形象化する「像的喩」となる。誰も座っていない緋色の椅子という鮮烈な映像が、青年期の不安定な心理を暗喩することで、歌の印象を深めている。逆に塚本の歌で「暗渠の渦に花揉まれおり」を仮に前景化したい光景であるとすれば、残りの「識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ」はその光景への意味づけとなる「意味的喩」として働く。この場合には、社会主義の聖地モスクワに対する知識人の失望であり、そこに暗渠を流れる花というほの暗いイメージがかぶさる。短歌はその内部に、喩的関係を軸とした対立を孕んでおり、この対立が歌の張りつめた緊張感を生み出す。もっともなかには一首のなかに切れがなく、全体でひとつの光景を詠んでいるものもある。

 はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる  塚本邦雄

 しかしこのような歌の場合にも、一読した後に何か言葉では表現されなかったものが残ると感じられ、吉本はこれを「空白喩」と呼んでいる。このような構造を踏まえて三枝は、「詩形内部にあって、一つの表現を喩的表現に転化させてしまう定型における『詩の形成力』を、いかに逆用してそこに自己の一回性の〈意味〉を屹立させるか、それが (… ) 定型詩短歌にかかわるものの最も普遍的な問題意識なのである」と結論している。

 このことを踏まえて伴の短歌をもう一度見てみよう。

 歯みがきをしている背中だきしめるあかるい春の充電として

 ふと顎をもちあげられてはじめての角度からみたはじめての青

 砂山にたてた小枝の一本をまもるごとくにふれあうふたり

 一読してわかるように、これらの歌のなかにはお互いが喩となる対立的関係を持つ切れがない。例えば一首目は、歯みがきをしている恋人を背中から抱きしめる情景を詠んでいるが、それを春の充電だと感じているのは〈私〉であり、前者が後者の、あるいは後者が前者の喩として働いているわけではない。三首目の「砂山にたてた小枝の一本をまもるごとくに」は直喩であり、確かに「ふれあうふたり」の比喩なのだが、これは一首のなかに対立する緊張関係を生み出す喩ではなく、結句を導く序詞的な比喩である。かといって、歌全体が喩となる空白喩かというと、そうとも考えられない。強いてこれを空白喩と取れば、その喩が照らし出すのはいつも決まって「〈私〉のせつない気持ち」なのだ。だから伴の短歌では、裸の〈私〉が三十一文字の前に無防備に立っているという構図になるのである。

 『イチゴフェア』の栞に文章を寄せた東直子は、ぱさぱさになった心に透明な液体のようにじんわりとしみこんでくる伴の短歌の美点を指摘している。また荻原は、澄んだ声のシンガーがむきになって詠いすぎたため咽をからしているようなぎりぎりな感じと表現した。いずれも得心のいく好意的な批評であり、伴の言葉遣いのしなやかさと歌の姿の可憐さは特筆に値しよう。しかし、「裸の〈私〉が三十一文字の前に無防備に立っている」という構図はあまりにも危うい。今の若手歌人たちを「少し遠目に眺めると多くの個性が一様に同じ色合いの孤独に包まれて見える」という川野の指摘は正しいのである。「遠目に見れば一様な孤独と一様なせつなさ」から脱却するためには、「裸の〈私〉」と三十一文字のあいだに第三項として働く他者を介在させる必要があるのではないか。でないと「〈私〉は〈私〉である」という同語反復に陥ることになる。同語反復の自家中毒の恐ろしさは多くの歌人の知るところであり、これ以上の多言を要すまい。

 最後に特に印象に残った歌をあげておこう。

 このキスはすでに思い出くらくらと夏の野菜が熟れる夕ぐれ

 香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに

 信号としての役目を終えてからこぼれるような青、赤、黄色

一首目には集中唯一と言っていい「短歌的喩」がある。二首目は算数の授業でりんごやみかんが変数xやyに変えられてしまうせつなさを取り上げて、対象に寄せるせつなさがうまく表現されている。三首目もまた交通の絶えた交差点の信号機の虚しい明滅に注ぐまなざしが、一首を歌として立ち上げている。

 これからの作歌過程で伴が〈私〉と三十一文字との媒介項となるどのような第三項を発見するのか、注意して見守りたい。

072:2004年10月 第1週 田中富夫
または、前衛派のコトバは人生のどこに着地するか

昼つ方先祖の墓の苔むして
    瓶のなか万緑のみづ燃ゆ

       田中富夫『曠野の柘榴』(青磁社)
 歌人のなかには、紀野恵のように弱冠17歳で角川短歌賞次席の栄誉を浴びて、19歳で第一歌集を上梓するという早熟の出発をする人もいれば、歌歴は長くとも歌集を持たない人もいる。今回取り上げた田中富夫もまた歌歴40年近い歌人でありながら、今年(2004年)7月に出版された『曠野の柘榴』が初めての歌集であるという。京都にある青磁社という小さな出版社から出た。帯文には河野裕子、栞文には永田和宏が寄稿している。今を去ること37年前の1967年(昭和42年)に、当時の立命短歌会と京大短歌会のメンバーを中心として、『幻想派』という同人誌が発刊された。田中富夫も河野裕子も永田和宏もこの『幻想派』に参加しており、そのため帯文も栞文も同志的友情溢れる文章となっている。あたかも同窓会の雰囲気である。

 1967年(昭和42年)とはどういう時代だったのだろうか。政治的には1965年に米軍によるベトナム北爆が開始され、小田実・飯沼二郎らによるベ平連(ベトナムに平和を市民連合)のデモが盛んになる。1966年には早稲田大学学費値上げ反対闘争が起こり(福島泰樹がこれに参加)、学生運動が全国に巻き起こる。政治的に熱い季節が到来したのである。短歌史を繙くと、1964年に深作光貞の肝煎りで中井英夫編集による『ジュルナール律』が発刊され、村木道彦が「緋色の椅子」で華々しくデビューした。新幹線開通の年である。66年には佐藤通雅の『路上』、69年には福島泰樹・三枝昂之の『反措定』が創刊されているから、歌誌的に見る限りあちこちから新たな声があがるという短歌的昂揚を示した時代だと言える。その一方で、既に確実な地歩を築いていた塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌に対して、64年頃から批判の声が巻き起こる。だから短歌的に言うと、政治へと傾斜する若者の心情をエネルギーとして短歌が吸収し、返す刀で旧守派から浴びせられた批判に抗して前衛短歌を擁護するという構図になるだろうか。まるで見てきたような書き方をしているが、この当時私は短歌にはまったく興味がなかったので、リアルタイムで見聞したことではもちろんない。短歌辞典年表などを参考にして再構成したものにすぎない。

 栞文から読みとれる断片的情報を総合すると、田中富夫は当時前衛短歌に激しく傾倒しており、『幻想派』で最も難解な短歌を作る歌人であったという。栞文に引用されている当時の歌を見ると、その歌風の一端を垣間見ることができる。

 トマト熟るるおとふくらむ乳腺のりこえて夜を買いとる業者

 からからと水上ながるる酸漿の清き秩序の家系図みつめり

 世界は宥されてあらむに炎天の舌に巻かれて死にたる蝶々

句割れ・句跨りによる伝統的短歌のリズムの脱臼、また「炎天の舌」「酸漿」などの語彙の選択に、塚本の影響が色濃いことが知れる。今回の歌集『曠野の柘榴』では、第二部「初期歌篇」に1970年以前の歌が収録されている。

 炎天のかくれんぼの影踏みつつもつとも近き処女の陰

 夕映えはさやかにわれの愛としり向日葵の大きさにひと日たまはる

 洋傘ひらき世界暮れゆけば悪とする林檎のうちをめぐる火事

現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てるという意図が明白である。しかし、塚本の語法の影響があまりに深く影を落していて、田中は塚本の前衛短歌に傾倒しながらその影から出ることができなかったようだ。「水煙に馬は洗はれ微熱もつ弟の今宵たましひ冴ゆる」という歌などを見ればそれは歴然としている。田中もそのことを意識してか、初期歌篇の収録数は少ない。しかし、興味を引かれるのは、「コトバによって美の世界を組み立てる」という出発点を持った歌人が、その後どのような自己展開を遂げたかという点である。

 華やかなドレスにつつまれうたかたの鶴と見粉ふ花嫁千鶴よ

 まるで蚯蚓のやうな字体にも孫が見え隠れして揺るるこころよ

 闇を抱き世界に抱かれ父は逝く天の咽喉に雨降り止まず

 痩身のわが身に睡る母こそは永遠(とは)の支へよカンナ燃え立つ

 水背負ふ みづのいのちを辿りきてさりげなく山茶花の花

 一首目は長男の結婚を詠んだ歌で、二首目は孫の誕生である。三首目は父の、四首目は母の死を悼む挽歌で、五首目はいちばん新しく最近の心境を詠んだものだろう。いずれも歌の主題は作者の人生の節目であり、これらは境涯歌以外の何ものでもない。短歌的には優れた歌もあり、挽歌の慟哭には心を打つものがあるが、ここではそういうことにはあえて目を瞑り問題としない。問いかけたいのは、「現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てる」という地点から出発したはずの歌人が、どのような経路を辿って現実にしっかりと投錨されたコトバを用いて短歌を作るようになるか、という点である。端的に言えば「コトバ派」から「人生派」への宗旨替えということだ。世間的には、「若気の至り」に対する「人生経験の深まり」という安易な用語で済まされてしまうのかもしれないが、これは短歌におけるコトバの位相を考える上で看過できない問題ではないだろうか。同時に私は「歌人はどのようにうまく歳を取るか」というジジムサイ問題に興味を持っているので、ますます見過ごす訳にはいかない。このような問いかけは、小笠原賢二が『終焉からの問い』収録の「前衛歌人の老い」のなかで、『詩歌変』以後の塚本邦雄にはそれまで排除してきたはずの作者の現実の人生が顔を出すようになると指摘し、前衛歌人の変貌をかなり手厳しく批判した問題意識とも重なるだろう。コトバは必ず人生に着地するのか。自分で歌を作らない私には、当面この問いに対して用意できる答はない。それに私が答えるのもおこがましい話であろう。

 田中の歌集の構成は、第一部が最近の歌、第二部が初期歌篇、第三部が中期の歌となっているが、細かく制作年代を辿れるようには配列されていないので、田中の作歌姿勢の変化を跡づけることは残念ながらできない。しかし、第三部のなかには次のように鏡の比喩による自己省察の歌があり、コトバによる美の世界から、コトバは光のごとく反射して自己へと還るという経路がほの見える。

 朝焼けの鏡にむかひ吾と対きあふ魂(たま)もうつりてをるや

 真夜の鏡にするどく光る刃物見ゆわが思惟の貧しきを問ふな

 若い頃の短歌から還暦に近い現在の短歌までを、一冊の歌集に収録するというのがままあることなのかどうか、歌壇に暗い私にはわからないのだが、このような構成を取ることで短歌観の変貌の過程が比較的よく見通せることが、このような問題提起をいやでも誘発してしまうのである。

 角川『短歌』は2004年7月号と8月号で、「101歌人が厳選する現代秀歌101首」という特集を組んでいる。8月号にはその結果を論じる岡井隆・三枝昂之・小島ゆかりの鼎談が掲載されているのだが、そのなかで三枝は、「こういう特集では壮年の歌があがりにくい」というおもしろい指摘をしている。三枝の発言を受けて小島は、「壮年は人生の停滞期であり、朗々と歌い上げることが出来にくい時期だ」と自分なりの説明をしている。確かに青春も迷いの多い時期だが、青春の彷徨はそのなかに自己陶酔を含んでいて、葛藤をストレートに短歌に昇華しやすい。それに何にも増して若者はイノセントであるという強みがある。イノセントとは「自分はまだ手を汚していない」と信じているということである。しかし、若者にもやがて自分の手で鶏を縊る日が来ることは言うまでもない。それに較べると、中年にさしかかったときに覚える人生に対する迷いは、ずっと屈折していて歌にしにくいのだろう。「中年の歌」というとすぐに頭に浮かぶのは、次のような歌である。確かに苦みを含んでいて、どこか深夜にひとり自分につぶやくような調子がある。

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき   小高 賢

 ポール・ニザンなんていうから笑われる娘のペディキュアはしろがねの星   同

 田中はどうなのだろうか。中年期に相当すると思われる第二部には、次のような歌がある。

 海を背にピアノの鍵盤(キー)を叩きをりかなしみの階段(きだ)のぼるといふや

 水道の蛇口捻れば執拗に貫かるる みづもろともの意志

 夏の雨に濡るる燠も壮年もびしよぬれの戸口に佇ちてをり

 あるときは中年といふ言葉のおもき量感に怯えていたり

 川底に紅葉なだれて鍋底のわが秋の血の煮らるるおもひ

 匙のなかへなだれこむ死こそは掬ふことすらできぬ塩の光れど

 未だ青年の清新さを感じさせる一首目や、強い意志の表明を含む二首目に比べると、三首目からは明らかに中年期の歌である。しかし、イノセントさを喪失した中年期の鬱屈や迷いが窺える歌はあまりない。「佇ちつくす」といい「怯える」といってはいるが、鬱屈した迷いとはどこかちがう。田中は歌人の中年期をうまくやり過ごしたのだろうか。一時は作歌を中断していたようだから、中年期はその間に過ぎ去ったのだろうか。巻末に配された歌友安森敏隆の解説によれば、短歌制作からしばらく離れていたのち、母親が亡くなる前後から毎晩何十首となく歌が湧いて来たという。これがコトバが人生に着地した瞬間なのだろうか。ならばそれまでのコトバはどこへ行くのか。等々ということを、考えさせられてしまう歌集なのである。

071:2004年9月 第5週 沢田英史
または、古語を駆使して現代に短歌の浮上を希求する歌

ビル抱く暗き淵よりせりあがり
   観覧車いま光都(くわうと)を領(し)れり

           沢田英史『異客』
 ちょっとした観覧車ブームで、ロンドンのテムズ河畔に世界最大の観覧車ができたと話題を集めたのはつい先日のことである。郊外の遊園地だけでなく、都会の真ん中にも観覧車が作られている。掲載歌はそんな夜の観覧車を詠んだものである。「ビル抱く暗き淵」は、コラールの名曲「我深き淵より御名を呼びぬ」Deprofundisを思い起こさせ、単なるビルの谷間の暗がりという以上の意味を暗示する。そんな暗がりから光輝く観覧車が姿を現し、夜のネオンと照明に輝く大都会に君臨するがごとくに、夜空を背景に回転するという光景を詠んだものである。単なる都市詠の叙景と読むこともできるが、短歌特有の二重の意味作用の働きによって、私たちは歌の言語の直示的意味の向こう側に、もうひとつの意味を読みとってしまう。それは現代の都市に生きる人間が置かれた状況をなべて「深き淵」と捉え、その淵から光輝きながら浮上することを幻視する人々の希求の深さというもうひとつの意味である。

 作者の沢田英史は1950年(昭和25年)生まれ。略歴によると兵庫県の高校を卒業後、京都大学文学部を卒業して、現在は高校の教員をしている。短歌を作り始めたのはずいぶん遅く、友人の訃報に接しふいに歌が口をついて出たという。「歌が降って来た」系の歌人で、こういうタイプの人はけっこういるようだ。時に沢田39歳のことであり、歌人としては遅い出発である。ポトナムに所属し上野晴夫の指導を受けて、1997年「異客」50首で第43回角川短歌賞を受賞。1999年に第一歌集『異客』を上梓、第25回現代歌人集会賞を受賞している。歌集は『異客』一冊のみだが、「セレクション歌人」(邑書林)には『異客』以後の歌も収録されている。

 沢田は年齢的には山田富士郎や藤原龍一郎や島田修三とほとんど同じ世代である。しかし歌人としての出発が遅いので、もう少し若い人かと勘違いしてしまう。そんな勘違いを持ったまま『異客』をひもとくとびっくりする。山田や藤原よりもずっと古語を多用する完全文語定型旧かな遣い派だからである。

 あはれとは人のことはり薄ら氷の液晶画面に出でし月かも

 とどめおく心やはあるいなづまの閃く隙(ひま)にうつろふものを

 たまかぎるゆふべの雨の水たまり秘話のごとくに草蔭を占む

 あかねさすテールランプの流れゆきかつは堰(せ)かるる滾(たぎ)ちの絶えね

 「あはれ」という古歌に多用された言葉、「たまかぎる」「あかねさす」といった枕詞、係り結びなど、現代短歌ではほぼ絶滅した言葉を復活させている。明治時代に短歌革新運動が起きたとき、近代的自我を詠う短歌には無用なものとして追放されたはずの言葉たちである。沢田はことさらにこういった言葉や語法を多用するので、まるで近代短歌がすっ飛ばされて、現代がいきなり明治以前の和歌に接続されたかのような奇異な感じを受ける。

 また沢田は古歌からの本歌取りの技法も好んでいるようだ。上の一首目は安倍仲麿の「三笠山に出でし月かも」を踏まえているし、次のような歌もある。

 ゆく車(カー)の流れは絶えずあかねさすテールランプを海渡しゆく

車を「カー」と読ませて、「行く川の流れは絶えずして」と掛けているのである。

 このような語法を多用する沢田の意図がどのあたりにあるのかは定かではないが、沢田のテーマのひとつである現代都市詠をこの古典語法で作ると、ミスマッチのためか一種独特の味わいが出ることは確かである。上にあげた一首目、「あはれとは人のことはり」と冷たく切って捨て、「薄ら氷の液晶画面に出でし月かも」と続けると、液晶画面に代表される現代のデジタル性と、「出でし月かも」の悠長な調子とがあいまって、現代都市の非情な貌が浮かんで来る。同じ趣向の歌をもう少しあげてみよう。

 摩天楼に住むといふなる隼の眼下夜ごとに銀河流れむ

 ふり仰ぐ高層ビルの水族館(アカリウム)地上はるかに満満たる水

 入りつ日の輻(や)の射し来れば街ながら硝子細工の脆さを帯びぬ

 『異客』には現代社会に住む人の身内に住まう空虚感を詠んだ歌が多くある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 朝ごとにくだる坂道昨(きぞ)の日の澱のよどみのかすかに臭ふ

 列なりて駅への道をくだりゆく背中せなかのそののっぺらぼう

 さういへば思ひつづけてゐたつけなどこへ行つても客でしかない

 胃袋を透過する青、坂道に澱む臭い、無個性な人の列は、現代の都市風景である。このような世界を生きて、作者は自分を客と感じるのだが、このような感覚は目新しいものではなく、他の現代歌人もまた多く詠んできた感覚である。例えば谷岡亜紀などには、現代への違和感を背景として、もっと毒と攻撃性を含んだ歌がある。

 毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり 『臨界』

 新宿は薬物テロを飾りおり危機に冷たく接吻(ベーゼ)する街 『アジア・バザール』

 しかし沢田の個性はと言えば、谷岡のような外に向かう攻撃性ではなく、現代に生きる自己と社会とを静かな眼差しで見つめる、どちらかと言えば内向きの視線であろう。次のような何気ない日常の光景を詠んだ歌に、その個性は生きているように思う。

 堀端の舗石はつかに間遠にて我の歩みを微妙にくづす

 小径にはゆきやなぎのはな散り敷けり避(よ)けて通れる足跡のあり

 ありふれた一本の樹がおごそかに光を放つゆうぐれがある

 操車場の線路に根づく雑草(あらくさ)の生ひて茂りて枯れてゆきけり

 また集中には次のような瑞々しい相聞歌があることにも注目すべきだろう。

 路地まがり悲しみの街さまよへばいづくのかどにも君の佇ちたる

 踏み分けて朽葉ひそけくわが腕に冷えたるからだ預け来たりつ

 あえかなる「夜間飛行」のつつむ背を抱けばともにくづほる 宙(そら)へ

 三首目の「夜間飛行」はゲラン社の香水 Vol de nuit のことで、彼女の体から香水の香りがかすかに匂うと詠んでいるのだが、それがいつの間にかふたり抱き合いながら夜空を飛んでいるイメージに転化しており、なかなか美しい。

 『異客』の巻頭歌と巻末歌とは、次のように見事に呼応していて、作者沢田の依って立つ視座を表わしている。それは広大無辺のこの宇宙に孤立して生きる私たちの孤独であり、今ここに生きているという不思議である。

 この空に数かぎりない星がありその星ごとにまた空がある

 われらみな宇宙の闇に飛び散りし星のかけらの夢のつづきか

 セレクション歌人シリーズ『沢田英史集』(邑書林)のあとがきに、沢田は「大げさでなく、いま短歌によって生かされている、と思っている」と書いている。びっくりするほど率直な告白である。また『現代短歌100人20首』(邑書林)の歌人の信条欄には、「歌によってひとすじのこの世につながる思いを持つ」と、同じ趣旨のことを述べている。思うに沢田には、文語定型短歌という形式に対する信頼感があるのだろう。言葉の虚しさがたまさか心をよぎることはあれ、全体として見れば短歌形式を自らが依ることのできるものとして信頼している。だからあまり定型を苛めることをしていない。

 話は飛ぶが、小笠原賢二は『終焉からの問い』のなかで、現代歌人は「魂の救済という潜在的な、しかし意外に強い衝動」を持っているとし、その証左のひとつとして現代短歌に頻出する「青」に注目してたくさんの例歌をあげている。

 未知の手に触れてうなじの燃え立つを淋しみ青いスカーフを巻く 太田美和

 ふかぶかとつきさせばまた吸われつつ夏おほぞらにひたと青旗 池田はるみ

 蒼穹は深き青もてみちたらふかなしき夢の仮睡ののちを 山田富士郎

 小笠原はこれら現代短歌に歌われた「青」が、不安・不充足のイメージを背景として、それらと背中合わせの形で救済の喩として憧憬されるといういびつな構造を持つ、と指摘している。つまり「青」から遙かに隔てられているからこそ、屈折した形で「青」を憧憬するというわけである。

 沢田の短歌にも「青」はよく登場するのである。沢田においては「青」は空の色として捉えられていることが多い。下にあげるのはごく一部で、これ以外にも「青」の歌はたくさんある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 ああぼくはこの青をみるためにだけけふまで生きてきたやうな空

 駆け出せば今なら間に合ふかも知れない青い空へと昇る歩道橋

 ゆふぐれの電車の窓をひたひたと青きエーテルの宵が打ち寄す

 鯖雲の蒼き輝きすべらせて硝子のビルの壁面の空

 二首目からも明らかなように、沢田にとっても青空は遙かに見上げるものであり、憧憬の対象として手の届かないものの表象であることがわかる。

 試しに小池光の歌集『バルサの翼』にどれくらい「青」が登場するか、数えてみた。「青」はわずかに以下の5首に見られるのみである。

 ひと夜さをわれと覚めゐし青き蛾といとほしむころ空はかたむく

 ガス蒼く燃ゆるたまゆらそのかみにさくらを焚けば胸を照らしき

 眼つむりし秋の青天 祭日の旗あざやかに狂院かかぐ

 青蛇の巣を探しゆくすこやかなズック海軍工廠あとへ

 われらが粗野にふるまひ遂げしのちのことはるかに夜の青空を見き

 注目すべきは、沢田の歌であれほど登場する青空が、小池においてはわずか二例しかなく、しかもそのうちひとつは狂院の空で、とてもピュアな憧憬の対象とは思われない。またもう一例も夜の青空であり、そこには憧れの対象となる輝く青色はないのである。残りは蛾と蛇とガスの色として表象されているに過ぎない。小池の歌には青空がない。小池の振り仰ぐ空は曇天か、さもなくば「溶血の空隈なくてさくら降る日やむざむざと子は生まれむとす」のように、不吉な血の色の空である。

 『バルサの翼』は1978年小池が31歳の時の歌集である。70年代の短歌よりも90年代の短歌の方により多く「青」が登場するのはどういう訳か。小笠原の言うように、「青」の形象化する境地から遠く隔てられているからこそ、手の届かないものとして「青」を詠うということがほんとうだとすれば、70年代の歌人よりも90年代の歌人のほうが、より「青」から遠く隔てられているということになる。確かに小池の『バルサの翼』を通読して、傷つきやすい青年の抒情という印象は受けるが、痛ましいという印象はない。ところが最近の若い歌人の歌を読むと、痛ましいという印象を受けることがよくある。頻出する「青」の象徴する魂の救済が、絶望的なほど遠ざかっているからかもしれない。

 その点、上にも書いたように、沢田は短歌定型に対して信頼感を抱いている分だけ痛ましさは少なく、沢田の詠む「青空」は本来の憧れの輝きを保ち続けるのである。沢田にとってもおそらく、短歌は祈りなのだろう。

070:2004年9月 第4週 中澤 系
または、システムという鉄条網のなかで拡散してゆく〈私〉

天使(エンジェル)の羽ならざれば
    温み持つ金具を外したる夕つ方

        中澤系『uta 0001.txt』(雁書館)
 特異な歌集であることは、その表題からもわかる。「ウタ ゼロゼロゼロイチ ティーエックスティー」と読むのだが書名としては異例だろう。末尾のtxtはパソコンで文書を作製するときの「テキスト形式」を意味する拡張子である。装丁もまた異例といえる。メタリック・シルバーの金属的な表紙がかかっていて、机に置いたとき、スタンドの照明が表紙に反射してまぶしく輝き、表紙に印刷された文字が見えなかった。私はそれを見て「これだ!」と感じた。その視覚的印象と同じように、この歌集では言葉がハレーションを起こしているのである。それは中澤が言葉に過剰なまでの意味を担わせようとしたからなのである。

 作者の中澤系は1970年生まれ。早稲田大学では哲学を専攻している。それ以前の作歌歴は不明だが、1997年から「未来」に参加している。1998年の「未来賞」受賞作を中心に、1997年から2001年までの短歌を歌友のさいかち真が編集出版したのが本書である。年号にこだわるのは、後述するが時間が中澤にとって大きな意味を持つからだ。

 中澤系という名前はペンネームである。最初は中澤圭佐という本名で歌を発表していたが、途中からこの名前に変えたという。「系」という名前は、「渋谷系」「電波系」「癒し系」のように、ある傾向や集団をさす接尾辞として使われている。中澤系という名前を選んだということは、作歌主体としての〈私〉は中澤圭佐という個人なのではなく、ある傾向の束としてしか捉えることのできない「拡がり」だということを意図している。この「どうしようもなく拡散した自己意識」が、中澤の作歌の核である。周到なペンネームの選択からも伺い知れるように、中澤の短歌に対するアプローチは方法論的であり、そのことが中澤の短歌の性格を大きく規定している。

 では中澤の描く世界はどのようなものだろうか。

 手のなかにリアルが? 缶を開けるまで想像していた姿と同じ

 明日また空豆の殻を剥くだろう同じ力をかけた右手で

 意図なんかしたくはないさひるひなかフレンチフライのMくらいしか

 模倣だよ 一定の間隔を保ち自動改札機を出る人々

 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに

 終らない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で

 類的存在としてわたくしはパスケースから定期を出した

 中澤の短歌の描く世界は、キーワードを抽出することでかんたんに理解できる (かんたんに理解できのは短歌にとってよいことだろうか)。一首目、どうしてもリアルさを感じられない日常のなかで、缶のなかにはリアルなものがあるかと期待するのだが、その期待は裏切られる。リアルなものはどこにもないのだ。二首目、私たちが生きている世界は、引き延ばされた日常であり、同じ空豆を同じ力で剥くのである。三首目、私たちがこの世界で選ぶことができるのは、マクドナルドでフレンチフライをSにするかMにするかくらいのものだ。私たちは世界のシステムに囲い込まれている。この認識は四首目へと続く。キーワードはもちろん「模倣」と「自動」と「一定」である。五首目は「システム」である。六首目の「終らない日常」は、現代社会について活発な発言を続ける社会学者宮台真司からの引用だろう。私たちは世界システムという鉄条網に囲われているのだが、トゲの先端は丸めて肌触りを良くしてあるので、私たちはなかなかそのことに気づかない。このような状況は当然、「個の喪失」を招く。七首目の「類的存在」とは、私が私ではなく類の一員としてしか把握されないという状況を表わしている。

 世界をこのように見れば、当然感じるのは無力感・不全感である。

 謂すでに細き骸となり果てたバッティングセンターにて空振りする

 ついに不発の炸薬なるか甘受する生活それも楽しきなどと

 開演の前に代役(アンダスタデイ)一人下手にて捕らえられたと言うが

 始発電車の入線を待つ朝霧に問ういつまでの執行猶予

 私たちはバッティングセンターで空振りするしかなく、世界を変革しようと仕掛けた炸薬も不発に終る。この世界という劇場で私たちは決して主役になることはできず、せいぜい代役が振られるにすぎない。まるで私たちは執行猶予の身の上なのである。

 いつの時代も青年は、既存の社会システムに疑いを持ったり反発を感じるものだ。また若者の矜持と無力感は表裏一体のものでもある。このような歌に表現された感覚は、例えば過去に石川啄木が感じた時代の閉塞感とどこがどうちがうのだろうか。確かに高度に複雑化した現代においては、過去に較べて撃つべき敵が見えにくくなっているということはあるかもしれない。同じ「未来」で机を並べていた高島裕と同じく、中澤には思想歌人という性格が濃厚なのだが、高島が連作「首都赤変」などで攻撃と破壊を幻視したのに較べると、中澤は「終りなき日常に囲い込まれた〈私〉」を自虐的に詠うことを、みずからの短歌の根拠としたように思える。だからこれは痛ましい歌集なのである。

 中澤の作る歌を読んでいると、短歌における言語の問題を考えさせる。基本的には口語短歌なのだが、なかに文語で作られた一連の歌が混じっていて、口語短歌の海のなかで孤立した島のように見える。掲載歌もこの一連から採ったものである。もう少しあげてみよう。

 双球にかひなは伸びて重力を支へる術もなき脂肪塊

 天球を突かぬ雨傘それぞれに起立させつつ急坂を征く

 舗装路(マカダム)のうへなるイコン踏みならす歌声とほく耳にしてをり

 掻き上げし黒髪刹那生るものは幻視宇田川町の路地裏 

 近代短歌の語法にのっとった作歌である。歌の元になった体験や出来事が仮にあったとしても、いったん短歌のなかに詠われると、それは事実という地平を離陸して喩という橋を渡り、言語の虚空間へと放り出される。歌の言葉はこうして虚空間にシリウスのように輝くのである。

 しかし中澤の口語短歌はまったく別のベクトルを志向していることに注意しよう。 

 靴底がわずかに滑るたぶんこのままの世界にしかいられない

 ハンカチを落とされたあとふりかえるまでどれだけを耐えられたかだ

 出口なし それに気づける才能と気づかずにいる才能をくれ

 小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

 ここには世界と直接触れようとする志向が濃厚である。おそらく中澤は、歌の言葉が喩を梃子として言語の虚空間へと送り込まれる回路では、自分と世界を救うことができないと考えたのだろう。中澤の口語短歌の言語には、世界への指向が過剰に担わされている。しかしこうして投げ出された言葉は、対象のつるつるの表面に乱反射してしまい、向こう側へと届くことがない。これが意味の過剰による言葉のハレーションとなっているのである

 しかしなかにはぎりぎりのところでその手前で止まっている歌もある。次の歌を含む風船の連作は、集中では珍しく焦燥感が希薄で、その分言葉が酷使されていない。

 幼な子の手をすり抜けて風船はゆらりとゆれて、ゆらりと宙へ

 その黄色き風船を手にすべきかは大いなる今日の問いかけにして

 風船はやがて空へと昇りゆく 救いにも似た黄の色を持ち

 また次のような歌では方法意識と言葉が均衡を保ち、美しい結実となっている。

 水風呂に沈む少年やわらかく四肢を胎児のごとくに曲げて

 ミートパイ 切り分けられたそれぞれに香る死したる者等の旨み

 このままの世界にぼくはひとりいてちいさなくぼみに卵を落とす

 吃水の深さを嘆くまはだかのノア思いつつ渋谷を行けば

 集中のこれらの歌よりも、ずっと上にあげた身を灼くような焦燥感と言葉のドライヴ感に満ちた歌の方が話題性があり、中澤の個性を代表する歌として長く伝えられるかもしれない。しかしそれらの歌は痛ましく読むのがつらい。私は集中にぽつぽつと点在する上にあげた四首のような歌を、中澤におけるひとつの達成と考えてあげたい。

 歌集末尾の歌は衝撃的であるが、それにはわけがある。

 ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ

 さいかち真の編集後記によれば、中澤は副腎白質ジストロフィーを発病し、現在は自分の意志すら伝えることのままならない状態だという。副腎白質ジストロフィーとは神経の鞘が壊れる病気で、2万から3万人にひとり、男性にのみ発現する遺伝病である。有効な治療法の確立されていない難病だという。解説に岡井隆が書いているように、発病してからの中澤の歌は急速に崩れていく。これもまた痛ましい。歌集末尾の歌は、キュブリックの映画『2001年宇宙の旅』で、人間に反乱を起こして停止させられるコンピュータのHAL9000が、素子を抜かれて狂いながら最後に歌うデイジーの歌を連想させる。そして「ぼくたちはこわ」でプツリと切れる唐突な切断が、作者中澤を襲った運命と反射しあって、『uta 0001.txt』を印象深い話題の歌集以上のものにしている気がするのである。

069:2004年9月 第3週 佐伯裕子
または、濃密な家族の物語から立ち上がるエロスと歴史性

我にまだ父ありたりし昨夜(きぞ)の皿
   デリシャスの果(み)は透きとおりたり

          佐伯裕子『未完の手紙』
 短歌のなかには、自分が主題を選ぶという姿勢で作られるものがある一方で、自分が主題に選ばれるのだとしか思えないものがある。その典型は人が避けることのできない病と死であろう。

 われの眼のつひに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る 明石海人

 失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ  中城ふみ子

 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅 小中英之

 ハンセン氏病を患い長島愛生園で生涯を終えた明石、乳ガン罹患を劇的に詠った中城、体内に不治の病を抱えて常に死を見つめていた小中。自分は病に選ばれたのであり、自らが作る短歌の主題もまたそれ以外のものではありえなかっただろう。短歌が人生と肉薄する瞬間である。

 佐伯もまたある意味で主題に選ばれてしまった歌人である。だから佐伯の歌集を通読すると、日々折々の歌が非常に少ない。機会詠も時事詠もほとんどない。佐伯の歌の背後には、むせ返るばかりの濃密な物語がある。直接にその物語に触れていない歌の背後にも、通奏低音のごとくにそれは響いている。これが佐伯の短歌に刻印された紋章なのである。

 佐伯の祖父の土肥原賢二は、東京裁判でA級戦犯として裁かれ、昭和23年12月23日に東条英機らとともに巣鴨プリズンで絞首刑に処された。刑死ゆえに遺骨はなく、護国寺にある墓の骨壺のひとつには、処刑前に遺書とともに本人から家族に送られた髪の毛と爪が、もうひとつには処刑された7人の戦犯のものがいっしょに混ぜられたわずかの遺灰が納められているという。1947年生まれの佐伯は、ひっそりと世を憚るように暮す戦犯の家で育った。処刑の前年に生まれた佐伯には、祖父の直接の記憶はないはずである。「くびらるる祖父がやさしく抱きくれしわが遙かなる巣鴨プリズン」という歌があるが、この時佐伯は二歳に満たないので、実際の記憶ではなく家族から聞かされたものだろう。しかし祖父の刑死は佐伯の精神形成に、巨木のような大きな影を落したのである。

 くびられし祖父よ菜の花は好きですか網戸を透きて没り陽おわりぬ 『春の旋律』(1985)

 祖父(おおちち)の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり 『未完の手紙』(1991)

 池袋サンシャインビルの下ならむ刑場ありてそこに雪降る 『寂しい門』(1999)

 くさぐさの長き短き裁判の一つにて祖父が裁かれし庭 『現代短歌雁』57号(2004)

制作年代の異なる歌集と歌誌からの引用であることからもわかるように、佐伯は祖父の刑死を執拗に歌にしている。二首目は『現代短歌雁』56号特集「わたしの代表歌2」で佐伯自身が自分の代表歌としてあげている他、『岩波現代短歌辞典』でも『現代短歌大事典』(三省堂)でも佐伯の代表歌とされている。時代は少しちがうが、2.26事件に連座した帝国陸軍少将(予備役)斉藤瀏を父に持つ斉藤文と、似た境遇と言えるかもしれない。

 戦犯を出した家は戦後民主主義の世の中では肩身が狭い。戦後の土肥原家は、賢二の遺書の一節を「戦犯の子孫は生涯を黙して暮すべし」と解釈し、世間にものを言うことを怖れて暮していたという。息を潜めるような暮しを思わせる歌がある。

 ワイパーの弧形の町を去りゆけり疫病神と彼ら呼びにし

 黙(もだ)シツツユケと手紙に遺(のこ)されてわれらひと生の言語障害

 さまざまな書きようのなか憐れなる族(うから)と記事にありき淋しさ

 寄るほかはなき族(うから)なり食卓の酸ゆき匂いのなかに点さる

 だから歌人としての佐伯が選ばれた物語とは、一族の血の物語なのである。残された勝ち気な祖母、父と母そして妹が共に暮す家は歌集では麝香の家と呼ばれている。「人びとのいのちの恨みが籠もっているから、仏間には麝香に似た香を焚きしめていた」ためである。家は濃密な物語を塗り込めて静かに発酵し朽ちてゆく。

 夜を狭くおし黙りたるいっさいは息となりゆき家発酵す

 家朽ちよ朽ちよと思うぬばたまの夜の玻璃戸に桜ふぶけり

 花の日は花降る庭に遊びたる家族逆光のなかにたたずむ

 佐伯が一族の物語の呪縛から解放されたように感じたのは、母親が死んで家を取り壊したときだという。

 わが家を壊す朝に散りたまる玻璃あり青き空を映して

 止まりたる時を立ちいし太柱今日きさらぎの風にくずるる

 このように濃密な物語を作歌の背景としていることから、佐伯の短歌の特徴がいくつか出て来る。そのひとつは連作の重要性である。前衛短歌のように一首の屹立性を重んじる作歌態度では、連作という構成主義はさして重要性を持たない。他の歌と孤絶して一首を立ち上げることが重んじられるからである。しかし佐伯のような大きな歴史を背景とした物語は、一首に閉じこめようとすると、どうしてもはみ出してしまう。短歌は31音の短詩形式であり、また31のなかには意味から見れば捨て音節があるので、伝達できる意味量にはおのずと限界がある。この不利を補うために連作が重みを増すのである。

 佐伯の連作題名には魅力的なものが多い。「闇にみる夜」「父の素足」「腐敗の庭」「麝香の家」「蕁麻の庭」「緋のダリア」など、いずれも物語性に富む題名である。ふつう連作には題名とは何の関係もない自由詠が混じっているものだが、佐伯に限ってはそういうことが少ない。このように短歌が濃密な物語性を喚起するという特徴は、語法も詩想の汲み上げ方もまったく違うので比較にはならないが、寺山修司の短歌と共通すると言えるかも知れない。寺山の短歌もまた背後に物語を強く感じさせ、それが若者が一度は罹ると言われる寺山病の原因ともなっている。

 と、ここまでが佐伯の短歌の表の物語である。佐伯の短歌は公式にはこのように理解され、短歌辞典などにもこの線に沿った解説と解題が掲載されている。作者自身の手になる歌集のあとがきやエッセーもまた、このような解釈を誘導するように書かれている。この公式の解釈にはもちろんまちがっている点はどこにもない。しかし、私が強く惹かれるのは、佐伯の短歌の底を流れている歴史と深くからみあった官能性なのである。あるいは官能性から捉えた歴史性と言ってもよい。

 過去の家族の生活と家とを回想する歌は、まるで全体がセピア色に染まった戦前のフランス映画か、サラ・ムーンの写真のように、甘くせつない雰囲気を湛えている。殊に次の三首目などはまるで映画のワンシーンを見ているようだ。支那絹のショールは、奉天特務機関長だった祖父の贈り物なのだろう。

 毒だみの花のいきれに湿りたる白き素足をもて余したり

 落ちぶれて売りたる銀の燭台が置かれてありぬ床の広きに

 支那絹の花のショールをとりだせば祖母の喀きにし血のあと仄か

 バンヤンの蔭なる琥珀の肌いろを母はかすかに卑しみていつ

 家族の場面ではいまだほのかな官能性は、父を恋う一連の歌になるとずっと色濃く現われる。

 玄関の西日明るしポマードのにじむ帽子が匂いはじめる

 ポインセチアの花より赤く散りにけり父がマントにはらうこな雪

 ああ空の何処も見えぬ父の背に負われてふかく血の博ちあえり

 父の籠りわれに添寝のおしころす唄より淋し息の匂いは

 「ポマードのにじむ帽子」が理解できる世代も限られるかも知れない。佐伯の父の世代の人は外出のときには必ず帽子をかぶっていた。だからしばしば帽子は父の暗喩なのである。上にあげた歌では、殊に三首目と四首目に強い官能性が認められる。父の背に負われてふたりの心臓の鼓動が共振するという父娘の一体感、添寝する父の吐息を間近に感じるというエロティシズムは、血の濃さをはるかに越えて濃厚である。

 佐伯の短歌の顕著な特徴は、これらの歌に見られる官能性が個のレベルに留まらず(それならば相聞歌に終始しただろう)、家族を巻き込んだ歴史に投射されるという視座を得たことにある。次の歌を見てみよう。

 花のふる窓辺にもたれファシズムの影を落していかなる我か

 英霊へ夏柑一顆放りあげてずぶ濡れの眼のなかの青空

 肉たるむハイカラーこそ光りいよ身を緊めて見し天皇もあわれ

 指先を湿らせて繰る〈パル判決書〉にジャムのごときが赤く凝りし

 歴史その勝ちたる者の証なる金の背文字は光らせておく

 宵待草(よいまち)の花咲きたれば顕ち巡る〈戦後〉を断(き)りし有刺鉄線

 明日壊さむ廊下に居間に灯を点す自刃前夜のエロスのひかり

 一首目は、私には拭いきれない戦前のファシズムの影が染みついているという、戦後生まれの自己に澱む歴史性の認識を示す。二首目は戦時中は英霊と讃えられ、戦後は語られなくなった戦死者へのオマージュである。昭和の歴史は天皇に収斂するが、三首目はハイカラーの首の肉がたるむという老いた天皇を見ている。四首目のパル判決書は東京裁判の判決である。判決書に透かし見る赤色はもちろん幻視であるが、それは家族の物語に繋がるだけに現実感がある。四首目は父親の書斎に並ぶ本を詠んだものだが、勝者が敗者を裁いた東京裁判において、敗者の立場に立たされた者の弁である。五首目ははっきりと戦後民主主義の日本を問う歌となっている。

 佐伯には三島由紀夫を詠んだ歌が数首あるが、注目すべきは上の六首目である。ここには明日壊される予定の家という家族の記憶を象徴するものと、明日自決する人間とを重ね合わせる視点がある。戦後を総括することになる家の取り壊しに、死を希求する激しいエロスが混ざり合う。ここに他には見られない佐伯の短歌世界の魅力がある。

 このように佐伯の短歌は、一族の血の物語を深く内包することで、結果的に昭和という時代を鋭く問う短歌となった。また歴史と時代を外部から観念的に捉えるのではなく、細部に宿る官能性という角度から捉えているという点に、短歌ならではの現実把握があることも注目すべきだろう。上にあげた三首目の、ハイカラーにたるむ肉という視点が、短歌にできる現実への切り込み方である。重く身内に籠もる昭和という時代を官能的に詠うことで、佐伯の短歌世界は一家族が歴史に翻弄された物語という事実の地平を離れて、鋭い射程を持つ形象として結実することになった。その成果はもっと評価されてしかるべきだろう。私は佐伯の歌を読んでいて、どうしても佐々木六戈の次の歌を思い出してしまうのである。

 昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から

 最後に『現代短歌雁』57号(2004)掲載の「鳥」と題された連作から佐伯の最近の歌を数首あげておこう。

 それがまだ木であった日の電柱の根もとに小さな落ち鳥のいて

 博物館の帆柱となる始祖鳥に冷えしガラスの目は嵌まりいん

 電線の鴉赤かり追放の記憶の蕾ひらきゆくとき

068:2004年9月 第2週 地名の歌

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に
       雪降るさらば明日も降りなむ
               山中智恵子

神田川流れ流れていまはもう
       カルチェラタンを恋うことも無き
               道浦母都子

不易糊(ふえきのり)賣りゐるよろづ屋があるはうれし
       太秦和泉式部町(うづまさいづみしきぶちやう)
               塚本邦雄

 上の三首の歌に共通するのは、いずれも地名が詠み込まれている点である。「鳥髪」は出雲国は簸之川上流の船通山の古名で、実在の地名である。記紀神話では素戔嗚尊が天上から追放され、初めて降り立った土地だとされており、山中の歌では生きるすべての悲しみが凝結する場所と表現されている。「神田川」は東京の学生街を流れる川であり、南こうせつを中心としたフォーク・グループ「かぐや姫」の往年のヒット・ソングのタイトルでもある。「カルチェラタン」はパリ5区の学生街で、1968年の学生運動の舞台となった。「太秦和泉式部町」は、京都市右京区の太秦(うずまさ)に実在する町名。太秦は平安遷都の以前から、渡来系の秦氏が住んでいた古い土地である。

 上の三首では詠み込まれた地名が、歌の意味作用にとって欠かせない働きをしている。まず「鳥髪」という地名を構成する「鳥」も「髪」も、短歌の世界では重く意味を備給されている語で、それが結合した「鳥髪」には一種異様なまでのイメージ喚起力がある。それだけではない。この歌は記紀神話を背景とし「鳥髪」を入り口として古代へとワープすることで、現在と古代とが重層する世界を作り出している。この意味作用は「鳥髪」という地名なくしては実現することが難しかっただろう。

 道浦の歌では、「神田川流れ流れて」に複数の意味が託されている。神田川の水が流れるという字義通りの意味、神田川の水が流れたのと同量の時間が経過したという比喩的意味、そしてフォーク・ソング「神田川」のメロディーが巷に流れたという意味である。この歌で表現されているのは、かつては学生運動に参加した自分も年齢を重ねて遠い所にやって来たといういささか安易な感慨だが、学生運動の「ガ」の字も言わずにそれを間接的に表現することを可能にしているのは、ここでもまた地名の持つ喚起力である。

 塚本の歌は、もう文房具屋で見かけなくなった不易糊が売られていたという嬉しさと、和泉式部町という地名を見つけたときの嬉しさとを一首のなかに並べたという、ただそれだけのものである。塚本の歌に登場するのはほとんどが実在の地名で、天使突抜や空鞘町など創作としか思えないものも、実在の地名である。この歌のおもしろさもまた、和泉式部町という地名の発見がなくては成り立たない。

 永田和宏は、最近の若い女性たちの作品に固有名詞が極端に少なく、特に地名が少ないという興味深い指摘をしたことがある(「普遍性という病 – 読者論のために」『喩と読者』所収)。永田の文章はもともと『国文学』昭和58年2月号に掲載されたものだから、ここで言う「最近」とは1983年から見ての最近である。永田は科学者らしく、「最近の若い女性たちの作品」を『短歌現代』58年3月号の「30代歌人の現在」に収録された24名の女性歌人の作品に限定したうえで、より年長の女性歌人、同年代の男性歌人を比較集団として統計調査し、その上で「最近の若い女性たちの作品」には固有名詞の出現率が低いことを確認している。

 他の集団と比較して、昭和58年当時の若い女性たちの作品に固有名詞が少ないという、統計的に有意な偏りを説明する仮説として、永田はふたつの可能性を指摘する。

 ひとつは若い女性たちの短歌が、想像力のみによって構成され、「いつ」「どこで」「何を」「誰と」といった〈事態の個別性〉を必要としていないという可能性である。この道を突き進むと「想像力の自家中毒」に陥ると永田は警告している。ただし、歌人を乱暴に「言葉派」と「人生派」に二分すれば、「言葉派」の人たちは言語によって / のなかで喚起される想像力を梃子として作歌するのだから、「想像力のどこが悪い」という反論も可能だろう。

 もうひとつの可能性は、短歌の胚珠となった歌人個人の体験の〈事実性〉が故意に隠蔽されていることが、固有名詞減少の理由だとするものである。なぜ体験の〈事実性〉を隠蔽するのか。それは重要なのは〈事実〉ではなく、事実の奥に潜む〈真実〉だというテーゼが信じられているからである。素朴リアリズムから脱却するには、事実の具体性・個別性よりも、真実の抽象性・普遍性を志向するのは当然のことである。しかし永田はこのような態度にも潜む危険性を指摘し、それを「普遍性という病」と呼んでいる。「想像力の自家中毒」と「普遍性という病」が相乗作用を起こすと、「ある日ふと気がつくと、どれもこれも似たりよったりの抒情の、ヴァリエーションばかりを読まされている気にもなる」という訳なのである。

 永田の立論はなかなか刺激的だが、ここではその議論の妥当性を吟味するのは控えておこう。それより問題にしたいのは、「最近の若い歌人の歌には固有名詞が少ない」という事実認識の方である。というのも永田が今から20年前に行なった検証は、現在でも有効であるのみならず、ますますその傾向に拍車がかかっているようにすら思えるからである。

 言うまでもなく地名は、和歌においては歌枕として数多く歌に詠み込まれてきた。試みに『歌枕歌ことば辞典』(笠間書院)をひもとくと、なかにはおびただしい地名が収録されている。そして吉野といえば桜、宮城野といえば萩、竜田川や小倉山といえば紅葉というように、地名はそれと結びつく美的概念の記号として駆使された。小池光は地名という〈実〉が概念という〈虚〉をさす記号となったと述べているが、そのとおりである。古典和歌はこのようにして共有された美意識を場とする〈虚〉空間として展開されたのである。

 明治になって短歌の革新運動が起きたとき、真っ先に否定されたのが歌枕であったのは当然のことだ。短歌がそれまで共有されていた美意識の場を離れて写実の地平に降りたとき、〈虚〉以外の何ものでもない歌枕は否定されざるをえない。しかしだからといって短歌から地名が消えたわけではない。写実を通しての個の表現となった短歌において、地名は個と結びつくものとして生き残った。斉藤茂吉の最上川、佐佐木信綱の大和、佐藤佐太郎の蛇崩がよい例である。

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 茂吉

 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 信綱

 蛇崩の道の桜はさきそめてけふ往路より帰路花多し 佐太郎

 『現代短歌雁』34号は「地名の喚起力」という特集を組み、近代と現代短歌に詠み込まれた地名を並べている。小池光『現代歌まくら』もまた、歌枕は現代の短歌でもしぶとく生き残っているという視点から編まれた好著である。おそらく短歌という定型の文学形式そのもののなかに、地名という〈実〉を〈虚〉の空間へと絶えず誘い出す契機が内在しているのだろう。

 しかし改めて感じるが最近の若い歌人の短歌には地名が少ない。サンプルとして取り上げるのは気が引けるが、試しに佐藤りえの『フラジャイル』のなかで地名が詠み込まれている歌を探すと、見つかるのは次の4首にすぎない。(念のため断っておくが、地名の有無と短歌としての優劣には関係はない。また佐藤の『フラジャイル』は優れた歌集であり、私の好きな歌がたくさんあるので付箋だらけである)

 きらきらに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる

 神様が降りると聞いた雨雲の切れ間の空に抱かれる渋谷

 コンビニを探す真夜中核直後なのか人無き西新宿は

 後ろ手にコートを脱いで話し出す遠きワルシャワの春のこと

 「美しが丘」はいかにもありそうな郊外ベッドタウンで、「光が丘」でも「つくしが丘」でもいっこうにかまわない。個という次元で考えても、ここでは地名にもはや〈虚〉への喚起力はない。残りの「渋谷」「モスクワ」にも同じことが言えるだろう。ただし「西新宿」だけには、「核直後」と共鳴する未来都市=廃墟の意味作用が認められる。同じモスクワでも塚本邦雄の次の歌では、どうしてもモスクワでなくてはならない必然的な理由がある。それは社会主義の聖地として、かつて多くの知識人が希望を託した土地から立ちあがる意味作用である。ここでは地名は歌枕であり、私たちを〈虚〉へと誘う喚起力を保持している。

 暗渠の渦に花揉まれおり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ

 佐藤りえの短歌を改めてこのような視点から読み直してみると、具体的な地名は意図的に消されているのではないかと思えて来る。例えば次の歌などどうだろう。

 かくはやく流れる川を眺めおり 向こう岸から手を振らないで

 朝焼けの街をわずかに消え残る水銀灯を数えて帰る

 声をあげて泣くことがもう難しい商店街をアリアがよぎる

 「かくはやく流れる隅田川」ではないのだ。「朝焼けの高円寺」でもなく、「天神橋筋商店街」でもない。単に「川」「街」「商店街」でしかない無名性は、作者の意図したものだろう。もし「かくはやく流れる隅田川」としたら、歌に詠まれた出来事は特定の地点に個別化される。「川」の無名性はこの個別化を忌避する担保として働いている。だから地名の無名性は故意なのだと思う。これは果たして永田が20年前に指摘した「想像力の自家中毒」あるいは「普遍性という病」という診断が当てはまる現象なのだろうか。どうも微妙にちがうような気がするのである。

 短歌は31文字の短詩型なので、一首で完結する意味を盛り込むには限度がある。だから古典和歌では本歌取り・掛詞・歌枕のような装置を発明して、一首の歌をそれまでに詠まれたすべての歌が構成する広大な「短歌空間」という場に置いて味わうという技法を開発した。いいかえれば歌枕は、外部から意味が流れ込んで来る蛇口である。しかし近代短歌の革新運動を経て、前衛短歌の時代を迎え、「一首の屹立性」が重視されるようになると、この蛇口は邪魔になる。外から意味が流れ込んで来ては具合が悪いからである。では蛇口を閉めましょうということになる。歌枕に代表されるような意味の喚起力のある地名が現代短歌に少ないのは、このような背景があるからだろう。

 では例としてあげた佐藤りえのような短歌はどうか。私は前衛短歌とはまた少しちがう意味で、佐藤たちの短歌も「一首の屹立性」をめざしているのだと思う。ただし、塚本の短歌のように、屹立することによって強烈な意味作用の磁場を放射することを目的としているのではない。今の若い歌人は例外なく内省的である。いや、内省的という言葉は少しそぐわないので、〈ワタシ的〉と言い換えておこう。〈ワタシ的〉とは自分の心・自分の感覚をなによりも重視する心性をさす。〈ワタシ的〉心性の持ち主にとって、短歌は言うまでもなく自分の心を盛り込む器である。一首が100%自分の心でなくてはならない。そこに異物があっては〈ピュアなワタシ〉は表現できない。だから外から流れ込む意味作用の喚起力を持つ地名や固有名は、異物として排除されるのである。お出入りを許されるのは、ワタシのお眼鏡にかなったアイテムだけである。このような〈ワタシ純度100%〉のモルトウィスキーのような傾向を極端に強めているのが、例えば加藤千恵の『ハッピーアイスクリーム』だろう。

 まっぴらなまっぴるまにも立っている赤いポストはいつもの場所に

 昼休み友達がくれたポッキーを噛みくだいてはのみこんでゆく

 投げつけたペットボトルが足元にころがっていてとても悲しい

 加藤の言葉の選択は実に巧みで感心するが、これらの歌は私の愛するラフロイグにも劣らぬ〈ワタシ純度100%〉である。ちなみに『ハッピーアイスクリーム』に地名はひとつもなく、さらには固有名は「小沢健二」と「キディランド」のふたつだけという事実が、〈ワタシ純度100%〉の財務省酒税局品質保証である。

 さて、ここからは「オジサンの説教」めくので恐縮だが、〈ピュアなワタシ〉というのは幻想であり、〈純度100%のワタシ〉は必ず痩せ細ってゆく。〈ワタシ〉を育てる栄養は〈外部〉から来るのであり、それは〈ワタシ〉にとって本質的に異物だからである。〈ワタシ〉のお眼鏡にかなったアイテムにしか出入りを許さないようでは、〈ワタシ〉の成長に必要な栄養素は摂取できない。だから若い歌人たちも自分の短歌に地名や固有名を詠み込むことで、〈ワタシ〉の外部と通底する回路を短歌の意味作用に組み込んだ方がよいのではないだろうか。

 最後に地名ではないが固有名が詠み込まれた代表的現代短歌をひとつあげておこう。若くして亡くなった仙波の代表歌であり、一読して忘れることのできない秀歌である。

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで 仙波龍英

067:2004年9月 第1週 林 和清
または、異界と自在に交通する想像力は痩せ知らず

白壁の一本の罅たどりつつ
    いのちのやぶれ目を見てゐたる

       林和清『木に縁りて魚を求めよ』(邑書林)
 我流の素人短歌評論を書いていて楽しみなのは、一冊の歌集からどの歌を冒頭に挙げようか、あれでもないこれでもないと迷う時である。なるべくならその歌人の作歌傾向を代表する歌を挙げたい。しかし、自分が好きな歌はそれとはちがうこともある。楽しい迷いであり、時間が過ぎるのを忘れてしまう。今回挙げた歌は、詩想や歌のしらべの点で、集中で必ずしも私がいちばん好きな歌ではないが、作者の歌づくりの根源を表わすと思われることから選んだ。白壁に一本ひびが入っているのを見ているというだけの歌であり、難解なところはどこにもない。しかし、そのひびが「いのちのやぶれ目」であると見る視点がこの歌の命である。そしてこの歌を十分に味わうためには、次の歌と遠く遙かに呼応していることも知らなくてはならない。壁に消える光は命の光なのである。

 真萩ちる庭の秋風みにしみてゆふひのかげぞ壁に消えゆく 永福門院

 林和清は1962年(昭和37年)京都生まれ。『玲瓏』会員で、第一歌集『ゆるがるれ』で第18回現代歌人集会賞を受賞している。『木に縁りて魚を求めよ』は第二歌集。林は佛教大学国文科で中世和歌を専攻した国文学徒だから、古典の知識は豊富で、なかでも永福門院を中心として研究しているという。永福門院は京極派の歌人であるが、京極派は二条派に押されるようにして衰弱した。だから永福門院の歌は滅びゆくものの歌である。ボッチチェリやルドンの絵を見てもわかるように、主流を外れて滅びゆくものはみな美しい。

 林の短歌を特徴づける感覚をひと言で言うならば、それは「異界との交通」だろう。「異界」とは、私がここでこうして生きている世界ではない世界をさす。時間軸においては、それは過去であり未来である。輪廻転生においては、それは前世であり来世となる。異界はとりわけ死者の暮す世界である。林の短歌は、このような異界との交通感覚を基に成立しており、その交通を可能にするのはしばしば日常の現実に生じたわずかな「裂け目」である。だから掲載歌の白壁にできた「いのちのやぶれ目」は、林がそこを通じて異界と交通する入り口なのだ。この歌集でしばしば睡眠と覚醒、そして夢が詠われていることも、これで理解できる。夢占や夢枕に立つなどの言い伝えからもわかるごとく、夢は最も身近な異界への入り口である。

 わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり

 炭酸水のどいらいらとくだるとき覚えのなき記憶よみがへる

 前の世は濃みどりの藻のみなぞこに眠りゐしわれ さるにても鯉魚

 まくなぎの霞のむかうはらからのひとり立つわが知らぬ者なれど

 先をゆく仄しろき足袋ふたひらを追ひて見知らぬ棟に入りたり

 一首目、自分が眠っているとき、自分ははるか昔の式部が見る夢だという。現在と過去とは等価交換の関係にあり、夢と現もまた入れ替わる。世界は「胡蝶の夢」であるという思想は荘子の昔からある。この世は巨大な亀または魚が見ている夢に過ぎないという思想もある。短歌は世界の認識を表現するものであり、林が捉える〈現実〉とは決して「今・ここ」に狭く限定されるものではなく、異界と交通するものである。二首目、炭酸水を飲む時に蘇る「覚えのなき記憶」とは、前世の記憶に他ならない。このことは、自分の前世は水底に眠る鯉だったという三首目にいっそう明らかである。三首目、「まくなぎ」とは夏の季語である小さな羽虫のこと。霞の向こうに立つ顔もはっきりせず、自分が知らない兄弟とは、異界から出現した者に他ならない。五首目、白い足袋をはいて前を行くのは、たぶん女性だろう。私はそれを追いかけるようにして、見知らぬ建物、つまり異界に入り込んでゆく。「足袋ふたひら」とだけあって、足袋を履いている人の顔も姿もはっきりしないところが、いっそう異形感覚を強めている。まるでひらひらと飛ぶ二頭の白い蝶に誘われているかのようだ。

 次の歌にはもっとはっきりと死者が登場する。

 死者が来てゆふぐれを食ふ気配せり目には水揺るるのみなれど

 門灯のさゆらぐあたりわれよりも体温たかき死者が来てをる

 秋の塩きららの撒きて喪のひとは急にひかげる面輪をもてり

 しかし、ここに暗さや怖れはまったくない。手招きして自分を誘う異界や死者は肉親のように親しいものであるかのようだ。なぜだろうか。それは林が京都という町で生まれ育ったからではないだろうか。少なくとも林自身はそのように認識している。『現代短歌最前線』(北溟社)の自選200首に添えた「京都時間のベクトル」という文章のなかで、林は次のように書いているのである。

 「京都に生まれて、いまも住みながら、やはりここは不思議なところだなと思うことが、しばしばある。時間が、重層構造をなして存在しているのが見える。いまこの瞬間にも、過去の時間が重なりあってひしめいている。京都が存在しつづける価値は、時間の認識のしかたを示唆してくれることだろう。京都では、現在より過去の力のほうが大きいと思うことがよくある。」

 時間が降り積もり、天神さん(菅原道真)やお大師さん(空海)が町衆のなかに生き続けている京都では、異界や死者は遠く恐ろしいものではなく、すぐそこにある親しいものだ。この世と冥界とを往還したという小野篁のような人までいる土地柄である。歌人は知らず知らずのうちに、異界との境界に引き寄せられるのだろうか。

 荒神橋の凍霜の夜にいきづける百合鴎くれなゐのいきぎも

 鴨川に懸かる荒神橋は、京都に住む歌人には馴染み深い地名だろう。岡井隆を中心として最近まで開かれていた「左岸の会」の前身は「荒神橋歌会」と称した。荒神橋は荒神口に懸かっている。荒神口は洛中から洛外に出る7つの口のひとつで、ここから志賀街道が伸びている。人も知るように、出口・入り口は異界との交通の場所である。

 林は「京都時間のベクトル」のなかで、日本画家・上村松篁の描く鳥の絵は、忠実な写生でありながらナマの動きではなく、絵のなかに仕留めきったとでもいうような静謐な美を見せているという。鳥は絵のなかで生命に溢れながら、同時に死のベクトルをまとっている。生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡、それが一瞬と永遠をつなぐ架橋になると結論する。松篁の絵に仮託した林のこの文章は、この上ない自歌解説ともなっていることに気づかされる。「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」、それはしばしば日常のなかにふと生じる微かな〈揺らぎ〉を契機として表現される。上にあげた死者の歌に詠われた水面のわずかな揺れ、門灯のかすきな瞬き、このような微少な〈揺らぎ〉に心を留める感受性が林の歌の入り口であり、その〈揺らぎ〉をワームホールとして「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」へと想像力を飛翔させるのが林の歌の技量である。だからこの歌集には、日常の〈揺らぎ〉が予感として満ち満ちている。

 天使の裸体ころぶす卓にひとはりのグラスの水はゆれやまずけり

 柔らかくくろく土ある園のすみに茸ののぴる音を聞きたり

 声あぐるほどの予感は満ち来たり合歓うすくれなゐのひとけぶり

 昏昏とねむる夢見るまくら辺のヒヤシンスみづに根を延ばしをり

 白壁のひびのようなかすかな〈揺らぎ〉を入り口とする〈異界〉との往還は、〈今・ここ〉(hic et nunc) に縛られることのない振幅と奥行きのある〈私〉の表現を、林の短歌において可能にした。これは考えてみる意味のある問題である。なぜなら現代短歌は、近代短歌の切り開いた道である「個の表現」としての短歌を追求するあまり、〈個の個別化〉と〈日常の断片化〉の道に踏み込んで、「〈私〉の痩せ細り」現象を招いているからである。

 折しも今年度の短歌研究新人賞が発表された。受賞者は1971生まれの嵯峨直樹、受賞作品は「ペールグレーの海と空」である。

 髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた

 「残酷な優しさだよね」留守電の声の後ろで雨音がする

 午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち

 この先は断崖 声を涸らしつつ叫ぶよ何をたとえば 愛を

 ここに表現されているのは、〈今・ここ〉に拘禁されて一歩も動くことのできない〈私〉である。「生まれたらもう傷ついていた」と自分を感じるひ弱さ、「大切な鞄ひしゃげたまま」という無力感、そのような感受性も短歌は表現することができるが、「〈私〉の痩せ細り」は覆うべくもない。残念ながらここに決定的に欠けているのは、〈私〉を世界に向かって開く契機である。その契機はイラク戦争や9.11テロのような「大事件」である必要はない。林の歌を読めばわかるように、日常のかすかな揺らぎも十分な契機となりうるのである。

 最後に『木に縁りて魚を求めよ』から白眉と思われる歌を挙げておく。いずれも林の感性の住む時空の広がりを感じさせてくれる歌である。

 死の側の水田のひかりわが刻のすぎゆくさまを月に見られて

 刃当つればおのづと割るる甘藍にみなぎるものををののきて見つ

 肌うすき者へ驟雨のつぶて来る死の前脚の垂るる空より

 一首目はすごい。「死の側の水田」とは、幽明の境界を越えた向こう側だから、これはあの世から世界を見ているのだ。想像力を梃子として実現される視点の重層性である。このような視点を持ちうる〈私〉が痩せ細ることは絶えてあるまい。

066:2004年8月 第4週 佐藤弓生
または、自己表現としての近代短歌の呪縛から自由に

風鈴を鳴らしつづける風鈴屋
  世界が海におおわれるまで

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』(沖積舎)


 今では見なくなったが、江戸時代には屋台に風鈴を積んで売り歩く商売があったらしい。風鈴と朝顔は江戸の都市文化の風物で、関西にはあまりない。掲載歌に詠まれた風鈴屋は、どことなくこの世のものではないようである。世界が海に被われるまで風鈴を鳴らし続けるのだから、永遠の生命を生きるか、あるいはそれに近い存在であろう。一首を流れる決して暗くはない終末感と、次第に強く鳴り響くように思える風鈴の音とが共鳴しあって、叙景でもなく抒情でもない、独特の夢幻的世界が作り出されている。

 掲載歌は歌集の表題が採られた歌であり、佐藤の代表歌と見なしてよいだろう。『短歌WAVE』2003年夏号の特集「現代短歌の現在 647人の代表歌集成」では、佐藤は掲載歌に加えて次の二首を自分の代表歌としてあげている。

 ぼんやりと街のはずれに生えている水銀灯でありたいわたし

 こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ

 佐藤弓生は1964年生まれ。「かばん」を拠点として活動している。唯一の歌集『世界が海におおわれるまで』は2001年に出版されている。詩集と英国小説の翻訳があり、歌集に収録された職場詠を見ると会社勤めもしているようだが、あまり歌のなかで自分を語らない人なのでよくわからない。この「自分を語らない」というのが佐藤の短歌の特徴でもある。

 荻原裕幸は『短歌ヴァーサス』4号の連載のなかで、近代短歌は手短に言えば「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」だが、90年代を迎えて状況が変化したと述べている。荻原のいう自己表現としての近代短歌とは、例えば次のようなものである。

 ペシミズムにまたおちてゆく結論にあらがひて夜の椅子をたちあがる 木俣 修

 たたかひを終りたる身を遊ばせて石群(いはむらが)れる谷川を越ゆ 宮 柊二

 桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり 築地正子

 表現が直接的であったり、隠喩を用い暗示的であったりする手法の差はあれ、これらの短歌の中には明確に結像する「自己像」がある。それは、「心が暗い方向に傾斜する〈私〉」であったり、「戦争に疲弊した心を抱える〈私〉」であったり、「生を抱えつつ死の観念におののく〈私〉」であったりする。〈私〉の位相はさまざまであるが、いずれにしてもこれらの短歌は「自己表現」だと言ってまちがいない。明治時代の和歌革新運動の結果、短歌はそれまでの共有された美意識に基づく花鳥風月の世界から離れ、近代的自我を表現する器となった。佐佐木幸綱のことばを借りれば、普遍性・抽象性・集団性から、個別性・具象性・個人性へと移行したのである。その結果として近代短歌は、上にあげた三首にも色濃く滲み出ている孤独感を引き受けることになった。

 21世紀を迎えた今でも、短歌の裾野を形作る人たちの短歌観は変化していない。新聞の歌壇に投稿されるおびただしい数の短歌は、「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」という近代短歌のセオリーをいささかも疑っていない。

 背に花火聞きつつ帰る抱いた子の重さも今日の思い出として 船岡みさ

 またひとり癌に倒れし友ありて同窓会の夏さむくなる 吉竹 純

 疎開児の袋に蝗わけくれし顔もおぼろなひとりの少年 林 理智

 2004年8月16日の朝日歌壇から引用した。近代を特徴づけるのはデカルトあたりを嚆矢とする「自我への信仰」である。どのような経験をくぐっても疑えない自我の一貫性は、近代の産物である。しかし、荻原は90年代あたりから、短歌の世界においてこの状況が変質したという。代わって目に付くようになったのは、枡野浩一の短歌に代表される「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自分のことばだと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」だという。これは「コピーライト短歌」である。もうひとつは、「東直子に見られるような、読者の側の自在な補完によってはじめて『自己像』が成り立つ文体」だとする。これは「何かが欠けている文体」と言える。埋めるべき情報のスロットがいくつか埋まっていないで、不飽和状態なのである。荻原は出版されたばかりの『短歌、WWWを走る』(邑書林)のあとがきでもほぽ同じ趣旨の文章を書いているが、こちらで指摘されているのは「自己像が何らかのかたちで明確に結んでしまうことを拒むような文体、もともと世界から断片化されている短歌の記述をさらに断片化するような記述」だとしている。こちらはポストモダンの「リゾーム的文体」とでも言うべきか。明治以来百数十年を経て、「近代的自我の一貫性」はそろそろ空洞化してきたようなのである。

 佐藤弓生もまた短歌の中で自己像を明確に結像させることに、あまり関心がないようだ。佐藤の短歌の文体は、荻原の分類したなかの二番目の文体に近い。確かに佐藤の短歌は、補完すべき情報が欠けている「不飽和文体」の代表選手である東直子や小林久美子の文体と、どこか共通するところがある。

 いつまでも薬はにがいみどりめくめがねの玉をみがきにみがく

 押しこんでぎしぎしかけたかけがねがひかるたとえば春の砂場に

 いくとせののちあけがたにくる人は口にみどりの蝉をふくんで

 いささか恣意的に選んでみたが、これらの歌に「明確な自己像」を探すことは不可能であるし、そもそもどのような情景が詠われているのかすらはっきりしない。しかしここにはリズムがあり、そのリズムはまぎれもなく短歌のリズムである。「みどりめくめがね」「みがきにみがく」の「み」と「め」の交替と連続、「かけたかけがね」の「かけ」の連続が生み出すリズム感は耳に心地よい。かつてヴァレリーは詩論のなかで、ことばによる意味の伝達が終って目的を遂げたその果てに、なおもそのことばを耳にしたいと願う欲望が詩の発生であると論じたが、その意味からすればここにはまぎれもなく「詩」がある。しかしこれは「近代的自我の表現」としての短歌とは相当にちがう位相で、詩と美を生み出そうとする短歌文体だと言わなくてはならない。今までの短歌理論や短歌批評は、このような新しい文体を正当に分析してきただろうか。

 佐藤の短歌は上にあげた三首のように、意味朦朧としたものばかりではない。

 白の椅子プールサイドに残されて真冬すがしい骨となりゆく

 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏を運ぶ

 秋の日のミルクスタンドに空瓶の光を立てて父みな帰る

 さくらんぼ深紅の雨のように降るアルトの声の叔母のお皿に

 牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力

 一首目、プールサイドに放置されたプラスチックの白い椅子が冬の陽を浴びて、動物の骨のように見えるという情景は、夏と冬という正反対の季節の対比のなかに、生と死があざやかに視覚的に対比されている。二首目、鏡のように静かな湖に浮かぶ小舟と水面に映るその影は、水面を対称軸としてたしかに開いた豆の莢のように見える。発見の歌であり、静かな晩夏の印象が美しく、私の特に好きな歌である。三首目、駅のホームのミルクスタンドだろうか。通勤途中のサラリーマンが、牛乳を飲み干して、空になった瓶をそのままにして去ってゆく情景である。人の去ったミルクスタンドに光が立っているという描写が秀逸であり、神なき世界にささやかに立つ小さな神のような趣きすらある。四首目、さくらんぼが皿に降るというのはわかりにくいが、さくらんぼを水洗いした叔母さんが皿に勢いよく盛りつけているのだろうか。「深紅の雨」と「アルトの声」の取り合わせがポイントだろう。五首目、また牛乳瓶の歌だが、二本並んで神様を待つというのは、ベケットの不条理演劇の名作『ゴドーを待ちながら』が下敷きにある。ここにもまた神なき世界のかすかな終末感が漂っていて、印象に残る歌である。六首目、「卵の歌」のところでも引用した歌だが、卵の凸と手のひらのくぼみの凹の照応から、アインシュタインの重力場理論へと飛躍する発想が秀逸で、極小の卵と極大の星との対比が宇宙論的視野の広がりを感じさせる秀歌である。

 最近の作品も見てみよう。『かばん』2004年7月号から。

 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は

 淹れたての麦茶が澄んでゆくまでを沈める寺に水泡立つ見ゆ

「虚空からつかみとりては」は、「虚空を一閃して花束を掴み出す」と言った中井英夫を思わせる。佐藤も詩人の営為をそのように理解しているのだろう。「沈める寺」は、ドビュッシーの楽曲の題名だが、私の好きな日本画家・智内兄助の仏画のような連作の題名でもある。

次は『短歌、WWWを走る』から。

 秋天の真青の襞にひとしずく真珠くるしく浮くまでを見つ  題「浮く」

 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか  題「蒟蒻」

 エヴァ・ブラウンそのくちびるの青きこと世界を敵と呼ぶひとといて  題「敵」

 まよなかにポストは鳴りぬ試供用石鹸ふかく落としこまれて  題「石鹸」

 ひともとの短歌を海に投げこんでこれが最後のばら園のばら  題「短歌」

 三首目のエヴァ・ブラウンはヒトラーの愛人だから、「世界を敵と呼ぶひと」はヒトラーその人をさす。四首目「まよなかに」は背筋がスッと冷えるような気がして、特に印象に残る歌である。だいたい真夜中にポストに投函されるのは不吉な知らせである。それが実は試供用石鹸という日常的で無害なものなのだが、下句の「ふかく落としこまれて」によって異次元にワープしている。石鹸をポストに深く落しこむことには、何か深い意味があるように感じられてくる。佐藤はこのような言葉の使い方が非常にうまい。それは言葉を日常的意味作用とは別の次元で把握しているからである。優れた詩人はみなそうなのだが。

 近代短歌のセオリーである「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」を追求している歌人は、近頃あまり元気がないようだ。それは『短歌ヴァーサス』3号における「男性歌人を中心とする〈不景気な感じ〉」という荻原裕幸の発言が指摘していることでもある。生沼義朗『水は襤褸に』のような登場の仕方をした人を読んでいても、「この先いったいどこへ行くのだろう」という不安を感じてしまう。そこへいくと、自己像を描かない佐藤弓生のような短歌には、不思議と不景気感もなく、先細り感もない。ある意味で近代短歌の呪縛から自由な地平から詩想を汲み上げているからかもしれない。

佐藤弓生のホームページ