067:2004年9月 第1週 林 和清
または、異界と自在に交通する想像力は痩せ知らず

白壁の一本の罅たどりつつ
    いのちのやぶれ目を見てゐたる

       林和清『木に縁りて魚を求めよ』(邑書林)
 我流の素人短歌評論を書いていて楽しみなのは、一冊の歌集からどの歌を冒頭に挙げようか、あれでもないこれでもないと迷う時である。なるべくならその歌人の作歌傾向を代表する歌を挙げたい。しかし、自分が好きな歌はそれとはちがうこともある。楽しい迷いであり、時間が過ぎるのを忘れてしまう。今回挙げた歌は、詩想や歌のしらべの点で、集中で必ずしも私がいちばん好きな歌ではないが、作者の歌づくりの根源を表わすと思われることから選んだ。白壁に一本ひびが入っているのを見ているというだけの歌であり、難解なところはどこにもない。しかし、そのひびが「いのちのやぶれ目」であると見る視点がこの歌の命である。そしてこの歌を十分に味わうためには、次の歌と遠く遙かに呼応していることも知らなくてはならない。壁に消える光は命の光なのである。

 真萩ちる庭の秋風みにしみてゆふひのかげぞ壁に消えゆく 永福門院

 林和清は1962年(昭和37年)京都生まれ。『玲瓏』会員で、第一歌集『ゆるがるれ』で第18回現代歌人集会賞を受賞している。『木に縁りて魚を求めよ』は第二歌集。林は佛教大学国文科で中世和歌を専攻した国文学徒だから、古典の知識は豊富で、なかでも永福門院を中心として研究しているという。永福門院は京極派の歌人であるが、京極派は二条派に押されるようにして衰弱した。だから永福門院の歌は滅びゆくものの歌である。ボッチチェリやルドンの絵を見てもわかるように、主流を外れて滅びゆくものはみな美しい。

 林の短歌を特徴づける感覚をひと言で言うならば、それは「異界との交通」だろう。「異界」とは、私がここでこうして生きている世界ではない世界をさす。時間軸においては、それは過去であり未来である。輪廻転生においては、それは前世であり来世となる。異界はとりわけ死者の暮す世界である。林の短歌は、このような異界との交通感覚を基に成立しており、その交通を可能にするのはしばしば日常の現実に生じたわずかな「裂け目」である。だから掲載歌の白壁にできた「いのちのやぶれ目」は、林がそこを通じて異界と交通する入り口なのだ。この歌集でしばしば睡眠と覚醒、そして夢が詠われていることも、これで理解できる。夢占や夢枕に立つなどの言い伝えからもわかるごとく、夢は最も身近な異界への入り口である。

 わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり

 炭酸水のどいらいらとくだるとき覚えのなき記憶よみがへる

 前の世は濃みどりの藻のみなぞこに眠りゐしわれ さるにても鯉魚

 まくなぎの霞のむかうはらからのひとり立つわが知らぬ者なれど

 先をゆく仄しろき足袋ふたひらを追ひて見知らぬ棟に入りたり

 一首目、自分が眠っているとき、自分ははるか昔の式部が見る夢だという。現在と過去とは等価交換の関係にあり、夢と現もまた入れ替わる。世界は「胡蝶の夢」であるという思想は荘子の昔からある。この世は巨大な亀または魚が見ている夢に過ぎないという思想もある。短歌は世界の認識を表現するものであり、林が捉える〈現実〉とは決して「今・ここ」に狭く限定されるものではなく、異界と交通するものである。二首目、炭酸水を飲む時に蘇る「覚えのなき記憶」とは、前世の記憶に他ならない。このことは、自分の前世は水底に眠る鯉だったという三首目にいっそう明らかである。三首目、「まくなぎ」とは夏の季語である小さな羽虫のこと。霞の向こうに立つ顔もはっきりせず、自分が知らない兄弟とは、異界から出現した者に他ならない。五首目、白い足袋をはいて前を行くのは、たぶん女性だろう。私はそれを追いかけるようにして、見知らぬ建物、つまり異界に入り込んでゆく。「足袋ふたひら」とだけあって、足袋を履いている人の顔も姿もはっきりしないところが、いっそう異形感覚を強めている。まるでひらひらと飛ぶ二頭の白い蝶に誘われているかのようだ。

 次の歌にはもっとはっきりと死者が登場する。

 死者が来てゆふぐれを食ふ気配せり目には水揺るるのみなれど

 門灯のさゆらぐあたりわれよりも体温たかき死者が来てをる

 秋の塩きららの撒きて喪のひとは急にひかげる面輪をもてり

 しかし、ここに暗さや怖れはまったくない。手招きして自分を誘う異界や死者は肉親のように親しいものであるかのようだ。なぜだろうか。それは林が京都という町で生まれ育ったからではないだろうか。少なくとも林自身はそのように認識している。『現代短歌最前線』(北溟社)の自選200首に添えた「京都時間のベクトル」という文章のなかで、林は次のように書いているのである。

 「京都に生まれて、いまも住みながら、やはりここは不思議なところだなと思うことが、しばしばある。時間が、重層構造をなして存在しているのが見える。いまこの瞬間にも、過去の時間が重なりあってひしめいている。京都が存在しつづける価値は、時間の認識のしかたを示唆してくれることだろう。京都では、現在より過去の力のほうが大きいと思うことがよくある。」

 時間が降り積もり、天神さん(菅原道真)やお大師さん(空海)が町衆のなかに生き続けている京都では、異界や死者は遠く恐ろしいものではなく、すぐそこにある親しいものだ。この世と冥界とを往還したという小野篁のような人までいる土地柄である。歌人は知らず知らずのうちに、異界との境界に引き寄せられるのだろうか。

 荒神橋の凍霜の夜にいきづける百合鴎くれなゐのいきぎも

 鴨川に懸かる荒神橋は、京都に住む歌人には馴染み深い地名だろう。岡井隆を中心として最近まで開かれていた「左岸の会」の前身は「荒神橋歌会」と称した。荒神橋は荒神口に懸かっている。荒神口は洛中から洛外に出る7つの口のひとつで、ここから志賀街道が伸びている。人も知るように、出口・入り口は異界との交通の場所である。

 林は「京都時間のベクトル」のなかで、日本画家・上村松篁の描く鳥の絵は、忠実な写生でありながらナマの動きではなく、絵のなかに仕留めきったとでもいうような静謐な美を見せているという。鳥は絵のなかで生命に溢れながら、同時に死のベクトルをまとっている。生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡、それが一瞬と永遠をつなぐ架橋になると結論する。松篁の絵に仮託した林のこの文章は、この上ない自歌解説ともなっていることに気づかされる。「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」、それはしばしば日常のなかにふと生じる微かな〈揺らぎ〉を契機として表現される。上にあげた死者の歌に詠われた水面のわずかな揺れ、門灯のかすきな瞬き、このような微少な〈揺らぎ〉に心を留める感受性が林の歌の入り口であり、その〈揺らぎ〉をワームホールとして「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」へと想像力を飛翔させるのが林の歌の技量である。だからこの歌集には、日常の〈揺らぎ〉が予感として満ち満ちている。

 天使の裸体ころぶす卓にひとはりのグラスの水はゆれやまずけり

 柔らかくくろく土ある園のすみに茸ののぴる音を聞きたり

 声あぐるほどの予感は満ち来たり合歓うすくれなゐのひとけぶり

 昏昏とねむる夢見るまくら辺のヒヤシンスみづに根を延ばしをり

 白壁のひびのようなかすかな〈揺らぎ〉を入り口とする〈異界〉との往還は、〈今・ここ〉(hic et nunc) に縛られることのない振幅と奥行きのある〈私〉の表現を、林の短歌において可能にした。これは考えてみる意味のある問題である。なぜなら現代短歌は、近代短歌の切り開いた道である「個の表現」としての短歌を追求するあまり、〈個の個別化〉と〈日常の断片化〉の道に踏み込んで、「〈私〉の痩せ細り」現象を招いているからである。

 折しも今年度の短歌研究新人賞が発表された。受賞者は1971生まれの嵯峨直樹、受賞作品は「ペールグレーの海と空」である。

 髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた

 「残酷な優しさだよね」留守電の声の後ろで雨音がする

 午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち

 この先は断崖 声を涸らしつつ叫ぶよ何をたとえば 愛を

 ここに表現されているのは、〈今・ここ〉に拘禁されて一歩も動くことのできない〈私〉である。「生まれたらもう傷ついていた」と自分を感じるひ弱さ、「大切な鞄ひしゃげたまま」という無力感、そのような感受性も短歌は表現することができるが、「〈私〉の痩せ細り」は覆うべくもない。残念ながらここに決定的に欠けているのは、〈私〉を世界に向かって開く契機である。その契機はイラク戦争や9.11テロのような「大事件」である必要はない。林の歌を読めばわかるように、日常のかすかな揺らぎも十分な契機となりうるのである。

 最後に『木に縁りて魚を求めよ』から白眉と思われる歌を挙げておく。いずれも林の感性の住む時空の広がりを感じさせてくれる歌である。

 死の側の水田のひかりわが刻のすぎゆくさまを月に見られて

 刃当つればおのづと割るる甘藍にみなぎるものををののきて見つ

 肌うすき者へ驟雨のつぶて来る死の前脚の垂るる空より

 一首目はすごい。「死の側の水田」とは、幽明の境界を越えた向こう側だから、これはあの世から世界を見ているのだ。想像力を梃子として実現される視点の重層性である。このような視点を持ちうる〈私〉が痩せ細ることは絶えてあるまい。

066:2004年8月 第4週 佐藤弓生
または、自己表現としての近代短歌の呪縛から自由に

風鈴を鳴らしつづける風鈴屋
  世界が海におおわれるまで

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』(沖積舎)


 今では見なくなったが、江戸時代には屋台に風鈴を積んで売り歩く商売があったらしい。風鈴と朝顔は江戸の都市文化の風物で、関西にはあまりない。掲載歌に詠まれた風鈴屋は、どことなくこの世のものではないようである。世界が海に被われるまで風鈴を鳴らし続けるのだから、永遠の生命を生きるか、あるいはそれに近い存在であろう。一首を流れる決して暗くはない終末感と、次第に強く鳴り響くように思える風鈴の音とが共鳴しあって、叙景でもなく抒情でもない、独特の夢幻的世界が作り出されている。

 掲載歌は歌集の表題が採られた歌であり、佐藤の代表歌と見なしてよいだろう。『短歌WAVE』2003年夏号の特集「現代短歌の現在 647人の代表歌集成」では、佐藤は掲載歌に加えて次の二首を自分の代表歌としてあげている。

 ぼんやりと街のはずれに生えている水銀灯でありたいわたし

 こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ

 佐藤弓生は1964年生まれ。「かばん」を拠点として活動している。唯一の歌集『世界が海におおわれるまで』は2001年に出版されている。詩集と英国小説の翻訳があり、歌集に収録された職場詠を見ると会社勤めもしているようだが、あまり歌のなかで自分を語らない人なのでよくわからない。この「自分を語らない」というのが佐藤の短歌の特徴でもある。

 荻原裕幸は『短歌ヴァーサス』4号の連載のなかで、近代短歌は手短に言えば「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」だが、90年代を迎えて状況が変化したと述べている。荻原のいう自己表現としての近代短歌とは、例えば次のようなものである。

 ペシミズムにまたおちてゆく結論にあらがひて夜の椅子をたちあがる 木俣 修

 たたかひを終りたる身を遊ばせて石群(いはむらが)れる谷川を越ゆ 宮 柊二

 桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり 築地正子

 表現が直接的であったり、隠喩を用い暗示的であったりする手法の差はあれ、これらの短歌の中には明確に結像する「自己像」がある。それは、「心が暗い方向に傾斜する〈私〉」であったり、「戦争に疲弊した心を抱える〈私〉」であったり、「生を抱えつつ死の観念におののく〈私〉」であったりする。〈私〉の位相はさまざまであるが、いずれにしてもこれらの短歌は「自己表現」だと言ってまちがいない。明治時代の和歌革新運動の結果、短歌はそれまでの共有された美意識に基づく花鳥風月の世界から離れ、近代的自我を表現する器となった。佐佐木幸綱のことばを借りれば、普遍性・抽象性・集団性から、個別性・具象性・個人性へと移行したのである。その結果として近代短歌は、上にあげた三首にも色濃く滲み出ている孤独感を引き受けることになった。

 21世紀を迎えた今でも、短歌の裾野を形作る人たちの短歌観は変化していない。新聞の歌壇に投稿されるおびただしい数の短歌は、「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」という近代短歌のセオリーをいささかも疑っていない。

 背に花火聞きつつ帰る抱いた子の重さも今日の思い出として 船岡みさ

 またひとり癌に倒れし友ありて同窓会の夏さむくなる 吉竹 純

 疎開児の袋に蝗わけくれし顔もおぼろなひとりの少年 林 理智

 2004年8月16日の朝日歌壇から引用した。近代を特徴づけるのはデカルトあたりを嚆矢とする「自我への信仰」である。どのような経験をくぐっても疑えない自我の一貫性は、近代の産物である。しかし、荻原は90年代あたりから、短歌の世界においてこの状況が変質したという。代わって目に付くようになったのは、枡野浩一の短歌に代表される「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自分のことばだと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」だという。これは「コピーライト短歌」である。もうひとつは、「東直子に見られるような、読者の側の自在な補完によってはじめて『自己像』が成り立つ文体」だとする。これは「何かが欠けている文体」と言える。埋めるべき情報のスロットがいくつか埋まっていないで、不飽和状態なのである。荻原は出版されたばかりの『短歌、WWWを走る』(邑書林)のあとがきでもほぽ同じ趣旨の文章を書いているが、こちらで指摘されているのは「自己像が何らかのかたちで明確に結んでしまうことを拒むような文体、もともと世界から断片化されている短歌の記述をさらに断片化するような記述」だとしている。こちらはポストモダンの「リゾーム的文体」とでも言うべきか。明治以来百数十年を経て、「近代的自我の一貫性」はそろそろ空洞化してきたようなのである。

 佐藤弓生もまた短歌の中で自己像を明確に結像させることに、あまり関心がないようだ。佐藤の短歌の文体は、荻原の分類したなかの二番目の文体に近い。確かに佐藤の短歌は、補完すべき情報が欠けている「不飽和文体」の代表選手である東直子や小林久美子の文体と、どこか共通するところがある。

 いつまでも薬はにがいみどりめくめがねの玉をみがきにみがく

 押しこんでぎしぎしかけたかけがねがひかるたとえば春の砂場に

 いくとせののちあけがたにくる人は口にみどりの蝉をふくんで

 いささか恣意的に選んでみたが、これらの歌に「明確な自己像」を探すことは不可能であるし、そもそもどのような情景が詠われているのかすらはっきりしない。しかしここにはリズムがあり、そのリズムはまぎれもなく短歌のリズムである。「みどりめくめがね」「みがきにみがく」の「み」と「め」の交替と連続、「かけたかけがね」の「かけ」の連続が生み出すリズム感は耳に心地よい。かつてヴァレリーは詩論のなかで、ことばによる意味の伝達が終って目的を遂げたその果てに、なおもそのことばを耳にしたいと願う欲望が詩の発生であると論じたが、その意味からすればここにはまぎれもなく「詩」がある。しかしこれは「近代的自我の表現」としての短歌とは相当にちがう位相で、詩と美を生み出そうとする短歌文体だと言わなくてはならない。今までの短歌理論や短歌批評は、このような新しい文体を正当に分析してきただろうか。

 佐藤の短歌は上にあげた三首のように、意味朦朧としたものばかりではない。

 白の椅子プールサイドに残されて真冬すがしい骨となりゆく

 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏を運ぶ

 秋の日のミルクスタンドに空瓶の光を立てて父みな帰る

 さくらんぼ深紅の雨のように降るアルトの声の叔母のお皿に

 牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力

 一首目、プールサイドに放置されたプラスチックの白い椅子が冬の陽を浴びて、動物の骨のように見えるという情景は、夏と冬という正反対の季節の対比のなかに、生と死があざやかに視覚的に対比されている。二首目、鏡のように静かな湖に浮かぶ小舟と水面に映るその影は、水面を対称軸としてたしかに開いた豆の莢のように見える。発見の歌であり、静かな晩夏の印象が美しく、私の特に好きな歌である。三首目、駅のホームのミルクスタンドだろうか。通勤途中のサラリーマンが、牛乳を飲み干して、空になった瓶をそのままにして去ってゆく情景である。人の去ったミルクスタンドに光が立っているという描写が秀逸であり、神なき世界にささやかに立つ小さな神のような趣きすらある。四首目、さくらんぼが皿に降るというのはわかりにくいが、さくらんぼを水洗いした叔母さんが皿に勢いよく盛りつけているのだろうか。「深紅の雨」と「アルトの声」の取り合わせがポイントだろう。五首目、また牛乳瓶の歌だが、二本並んで神様を待つというのは、ベケットの不条理演劇の名作『ゴドーを待ちながら』が下敷きにある。ここにもまた神なき世界のかすかな終末感が漂っていて、印象に残る歌である。六首目、「卵の歌」のところでも引用した歌だが、卵の凸と手のひらのくぼみの凹の照応から、アインシュタインの重力場理論へと飛躍する発想が秀逸で、極小の卵と極大の星との対比が宇宙論的視野の広がりを感じさせる秀歌である。

 最近の作品も見てみよう。『かばん』2004年7月号から。

 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は

 淹れたての麦茶が澄んでゆくまでを沈める寺に水泡立つ見ゆ

「虚空からつかみとりては」は、「虚空を一閃して花束を掴み出す」と言った中井英夫を思わせる。佐藤も詩人の営為をそのように理解しているのだろう。「沈める寺」は、ドビュッシーの楽曲の題名だが、私の好きな日本画家・智内兄助の仏画のような連作の題名でもある。

次は『短歌、WWWを走る』から。

 秋天の真青の襞にひとしずく真珠くるしく浮くまでを見つ  題「浮く」

 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか  題「蒟蒻」

 エヴァ・ブラウンそのくちびるの青きこと世界を敵と呼ぶひとといて  題「敵」

 まよなかにポストは鳴りぬ試供用石鹸ふかく落としこまれて  題「石鹸」

 ひともとの短歌を海に投げこんでこれが最後のばら園のばら  題「短歌」

 三首目のエヴァ・ブラウンはヒトラーの愛人だから、「世界を敵と呼ぶひと」はヒトラーその人をさす。四首目「まよなかに」は背筋がスッと冷えるような気がして、特に印象に残る歌である。だいたい真夜中にポストに投函されるのは不吉な知らせである。それが実は試供用石鹸という日常的で無害なものなのだが、下句の「ふかく落としこまれて」によって異次元にワープしている。石鹸をポストに深く落しこむことには、何か深い意味があるように感じられてくる。佐藤はこのような言葉の使い方が非常にうまい。それは言葉を日常的意味作用とは別の次元で把握しているからである。優れた詩人はみなそうなのだが。

 近代短歌のセオリーである「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」を追求している歌人は、近頃あまり元気がないようだ。それは『短歌ヴァーサス』3号における「男性歌人を中心とする〈不景気な感じ〉」という荻原裕幸の発言が指摘していることでもある。生沼義朗『水は襤褸に』のような登場の仕方をした人を読んでいても、「この先いったいどこへ行くのだろう」という不安を感じてしまう。そこへいくと、自己像を描かない佐藤弓生のような短歌には、不思議と不景気感もなく、先細り感もない。ある意味で近代短歌の呪縛から自由な地平から詩想を汲み上げているからかもしれない。

佐藤弓生のホームページ

065:2004年8月 第3週 三枝浩樹
または、青春の光芒を放つ短歌の行く末は孤独な歩行者か

透視図法の焦点となるかみしみの
      かなたにくらく森がにおえり

            三枝浩樹『銀の驟雨』
 短歌には「家族性」という、他の芸術には見られない特徴があるようだ。短歌に親しむようになった理由として、父または母が短歌を詠む人だったという家族的理由があげられることがよくある。例えば、加藤治郎の場合、もともと母親が短歌を作っていて、加藤治郎が歌人になると、兄と妹も歌を作るようになり、父はしかたなく短歌評論を始めたそうだ。一家総出である。永田和宏と河野裕子夫妻、その子永田紅のケースもある。

 これはなかなか面白い問題である。父子(母子)相伝による技芸といえば、歌舞伎・狂言のような高度の身体的修練を必要とする伝統芸能を除くと、造形芸術の分野では、やはり長期間の技術的修練が必要な画家・彫刻家にいくつか例を見いだすことができる(高村光雲と高村光太郎、上村松園とその子・孫など)。しかし、文芸の世界ではあまり例がないのではないだろうか。親が小説家で、その子もまた机に向かって物を書く親の後姿を見て育ち、長じて自分も小説家になるという例は少ない。親が詩人で子も詩人という例もあまりない。もちろん、森鴎外と茉莉、幸田露伴と文、太宰治と津島佑子、中上健次と紀の例はあり、皆無というわけではないが、その他にあまり例が思い浮かばない (なぜかみんな娘なのも興味深い点である)。

 関川夏央『本よみの虫干し』(岩波新書)は、明治以来の文学をめぐる時代情況と、とりわけ文学の経済的側面に焦点を当てた好著だが、関川流思考を援用すれば、文芸の世界で親子相伝がない理由は自明である。十中八九は食えないからだ。親が食えない小説家で、子供の頃から貧乏を強いられて育った子供が、自分も小説家になろうと考えるはずがない。

 しかしこの理論では解明できない問題も残る。詩人の場合である。小説家とは異なり、もともと詩だけで食べている人は少ないので、詩人は実社会で職業を持っている。たとえば清岡卓行はプロ野球のスコアラーであり、吉岡実は出版社に勤務していた。だから詩人の場合、経済的問題が親子相伝の否定的要因となる可能性は低い。にもかかわらず、親も詩人で子も詩人というケースは稀だ。

 このちがいはおそらく詩と短歌の文芸としての特性に由来している。詩の「孤独性」と短歌の「公共性」の相違である。詩は夜中にひとりで孤独に言葉を彫琢する過程から生まれる。詩とは詩人が世界に向けて放つ孤独な発語である。しかし短歌は、少なくともその発生においては「座」の文学であり、その名残は結社という主宰を頂点とする人の輪に残っている。短歌は人前で披露され、その場で評価されるものであり、孤独な発語ではない。これが短歌の公共性を支え、その開かれた性格が、短歌の「家族性」の理由となっているのではないだろうか。

 しかし、最近この短歌の「家族性」は危うい。現代短歌が「孤独性」を深める傾向にあり、現代詩との境界線が薄らいで来たからである。これは案外重要な問題で、文芸としの短歌の本質を変容させかねない問題だと思う。

 世はインターネット時代を迎え、短歌の「家族性」に替わって最近目につくのは「(擬似)友達性」である。若い女性によく見られる、「○○ちゃんの短歌ホームページ見ました。とってもカワイイ♥♥。私もこんな短歌を作ってみました」というノリである。この「(擬似)友達性」が、短歌の文芸としての本質に何を付け加えるのか(何を削減するのか)、私にはまだわからない。

 ほんの前置きのつもりが長い枕になってしまった。三枝浩樹の父は窪田空穂門下の歌人で、兄の昂之もまた歌人である。三枝もまた家族性歌人なのだ。歌人としては、歌集も多く、怜悧な批評家として知られる兄の昂之の方がよく知られている。兄の昂之も弟の浩樹も、ともに1960年代という政治の季節に短歌的出発を行なったという点で、深く時代の刻印を受けた歌人である。昂之は1944年生まれで、早稲田大学に入学し2年生のとき1966年に早大闘争が起きた。政治の季節にまともにぶつかったことが昂之の短歌を刻印した。浩樹は1946年生まれだから兄より2歳年下で、1965年に法政大学に入学している。第一歌集『朝の歌』に収録された歌が作られたのは1964年から1973年までで、政治の季節の昂揚と終息に正確に呼応している。だから『朝の歌』は時代の歌であり、この時代の空気を吸った人間にとっては、心の痛みなくしては読むことのできない歌集である。

 一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷

 透明な朝の光だ 傷ついた窓をあけいまは眼をみひらかん

 はかなさを美へとすりかえるいっしゅんの虚偽を射よ 杳(くら)き眼光もて

 スペインへ ! わが思想的昂揚へ ! ’69年冬の窓あけながら

 ああされど 火中(ほなか)に立ちて問うこともせず問われるままに過ぎゆきつ

 優しさを撃て 隊列のくずされてゆく一瞬の真蒼な視野

 ここには時代を撃つ姿勢と並んで、時代から受けた傷を自己の核として詠う姿勢がある。「虚偽を射よ」「優しさを撃て」「わが思想的昂揚へ !」という高らかな呼びかけと平行して、「問うこともせず問われるままに過ぎ」る姿勢への自己批判と悔悟とが共存していて、時代の波に引き裂かれる痛ましい青春がくきやかに描かれている。ここには、希望・夢・迷い・挫折といった、青春を彩るものすべてがある。青春の光のなかでは傲慢ですら美しい。

 関川夏央は、「短歌はやはり『青春』を表現するときもっとも力量を発揮するジャンルなのかとも思う」と書いた(『現代短歌そのこころみ』NHK出版)。三枝浩樹の『朝の歌』はまさに青春の歌集である。関川はそれに続けて、「しかし、あざやな光彩は持続しにくい」と付け加えることを忘れてはいない。あざやかな青春の歌集を持った歌人は、例外なくこの重い課題と向き合うことになる。

 『朝の歌』を一読して、ここには現代短歌がほとんど失ってしまったひとつの特質があると感じた。それは「他者への真摯な呼びかけ」である。

 純子、君のため書きしるすレクイエムの火のかなしみをふりしずめつつ

 ああソーニャ、霜おく髪の孤独より失意よりわれを発たしむなかれ

 60年代は集団と大衆の時代であり、他者との連帯が信じられていた。「手をつなぐ」こと、「呼びかける」ことが意味を持っていたのである。それがいかに幻想であれ。青春の精神の昂揚を定着する形式としてだけでなく、短歌はまた「呼びかける」形式として好適である。短歌から相聞と挽歌を除いたら何が残るかと、誰かがどこかで述べていたが、相聞と挽歌はともに「呼びかける」ことを本質としている。ふたつの違いは、呼びかける相手が生きているか死んでいるかの差にすぎない。もちろん相聞と挽歌では、それと相関的に逆照射される〈私〉の位相には違いはあるが。三枝の歌には「呼びかけ」がある。それは三枝が歌を生み出した地点には「他者」があるということを意味する。しかし現代短歌の多くはこの「よびかけ」という短歌の根底にあったはずの特性を失ない、孤独な「つぶやき」になってしまった。そう感じるのである。

 第二歌集『銀の驟雨』以降、三枝はキリスト教受洗をひとつのきっかけとして、急速に内省的傾向を深めてゆく。その主調音は内省を通じての自己省察である。三枝の好みの言葉を使えば、「自己の内に深く降りてゆく」作業である。その過程から生まれる歌もまた美しく私たちを打つ。

 あやめざるこころのなかへひきかえす夏のゆうべの火のほとりより

 南天の実のかたわらを過ぐるとき杳(とお)き悲傷の火のにおいくる

 告げなむとして翳る舌 灯のなかにわれらしずかな死をかさねあう

 雨の午後しずかに昏れてうつうつとむらさきの葡萄ジャムを煮つむる

 『朝の歌』で多用された「朝」「青空」という語彙は少なくなり、代わって「夕暮れ」「黄昏」と「雨」が頻出するようになる。第三歌集『世界に献ずる二百の連祷』でもその傾向は加速されてゆく。『朝の歌』で詠われた「青空」は、もはや痛みを伴う回想のなかにしか存在しない。

 喪失というくうかんを知りし日の青空 いまもわが内に棲む

 鳥のためかなしみのため鳥籠を買いて戻れる雨の夕暮

 神よいかなる諸力のもとにつかのまの光芒としてあゆむわれらぞ

 三枝が一貫して歌に詠み込む対象に「樹木」がある。三枝は「木の歌人」と呼ぶのがふさわしい。しかし対象としての木の詠み方その種類も、時代とともに変化している。

 日常の視界のかなた何ゆらぎつつあらん ひと群の樅そよげるを 『朝の歌』

 崩おれんばかりあわあわとせるゆうべいっぽんの樹の戦ぎにむかう

 風がふたたび閉じてしずまるゆうぐれをあかるくさむく銀杏こぼるる 『世界に献ずる二百の連祷』

 夕映えを支うるごとき樫の木の黒き塊(マッス)あり西はかなしも

 おのずから散るを見守りていたりけり友のごとしも庭の櫟は 『歩行者』

 ゆく人も来る人もなしひもすがらこまかなる葉をこぼすからまつ

 『朝の歌』でよく詠まれているのは、樅の木とポプラである。どちらも北方の樹木であり(北方の精神性)、空へと高く屹立する。この空の高みを目指すゴシック的特性が、青春の昂揚とよく似合う。またその詠まれ方も、一首目では樅の林は日常性のかなたに揺曳するものの象徴であり、二首目では心萎える自己を鼓舞するものの象徴である。いずれも極めて観念性の強い詠まれ方である。

 ところが歌に詠まれる木の種類も針葉樹系統は少なくなり、銀杏のようなふつうの街路樹や樫の木が登場する。また銀杏や樫は自らの心象の投影ではあるが、もはや初期の歌のような観念性はない。これが2000年に出版された第五歌集『歩行者』になると、樹木はもはや心象の投影ですらなく、より具体性を帯びて親しい友のように詠われている。

 『朝の歌』のあとがきに、「即物感と抽象感覚に充ちみちた歌を、というのが、かねてからのぼくの希求してきたところであった」と書いた三枝も、歳を重ねるにつれて、青春の観念性が洗い落とされ、より具体的にまた平明に身の回りの事物を歌にするようになる。

 秋の陽を日すがら浴びて育ちたる柿の実ならん食めば甘しも 『歩行者』

 むらさきのすずしき花の揺れいたり紫苑の庭と今日より呼ばん

 『朝の歌』に描かれた〈私〉と世界の厳しい対峙にひりひりするような感動を覚えた者には、〈私〉を自然に溶け出させるようなこの歌境は、物足りなく感じられるかも知れない。『歩行者』の歌境と修辞は、まるで大正・昭和初期の近代短歌への逆行ではないかとも感じられる。しかし、関川も書いたように、青春の光芒は一瞬にして去る。あとに残されるのは長い残りの人生である。観念性を洗い落した後に、なおも歌を作り続けようとすれば、市井に生きるひとりとしての境涯を詠む他はない。『歩行者』はひとり孤独に歩む人で、そこにはかつての他者への「呼びかけ」はもうない。三枝の歩みは、青春時代にあまりに光輝に満ちた歌集を持ってしまった歌人の困難さを象徴しているように思われる。それと同時に、『朝の歌』のように一瞬の光芒を永遠に定着したような歌集を生み出したあの時代から、私たちは何と遠く来てしまったのだろうという感慨を禁じることができない。今の時代に「青春歌集」を生み出すことは、ほとんど不可能なことなのである。

064:2004年8月 第2週 島田幸典
または、眼前の小さな手触りにこだわる歌

たましいを預けるように梨を置く
       冷蔵庫あさく闇をふふみて

         島田幸典 『no news』(砂子屋書房)
 掲載歌は2002年に刊行された著者の第一歌集『no news』の巻末歌である。歌集の構成に腐心する歌人は、歌の配列に工夫を凝らす。なかでも巻頭歌と巻末歌は、歌集の始まりと締めくくりを受け持つ歌だから、自信作を配することが多い。著者も掲載歌になにがしかの思い入れがあるのだろう。もっとも『現代短歌雁』56号の「わたしの代表歌」では、島田は同じ歌集の「首のべて夕べの水を突く鷺は雄ならん水のひかりを壊す」を代表歌としてあげている。

 掲載歌の「ふふむ」は古語で「含む」と書くが、木の芽がつぼみの状態である意と、現代語の「含む」の意とがある。冷蔵庫は闇をその内部に含んでいるのだが、それはたんに中に闇があるというだけに留まらない。その闇は、木の芽が春雨を浴びて膨らむように、時間の経過とともに膨張し浸食し溢れ出すのである。しかし、私は自分の魂を梨の実のように冷蔵庫の闇に預ける。それが私たちの生の有り様だからである。この歌のポイントが「あさく」にあることにも注意しよう。まだ闇は深くはないのである。このかすかな諦念と静かな表現が歌人・島田幸典の持ち味である。歌の姿に無理がなく、言葉の連なりがなめらかな点もまた特筆に値しよう。

 歌集『no news』で2004年に第47回現代歌人協会賞を受賞した島田幸典は、1972年(昭和47年)生まれで、今年32歳になる京都大学法学部の助教授である。専門は比較政治学。ホームページには、「英独両国を中心として、国家構造(国制)の形成・発展・変容を、遠く中世から現代に到るまで、比較史的に考察している」とある。私の勤務する京都大学には永田和宏その人ありと知られているが、法学部にこのような優れた歌人がいることは、ごく最近まで知らなかった。

 山口県で高校生活を送っていた島田は、すでに中学時代から短歌を作っていたらしい。高校生の時、九州で「牙」を主宰する石田比呂志が選者を務める新聞の短歌欄に次のような歌を投稿している。高校生らしからぬ、すでに短歌の結構を心得た作であり、静かな歌という体質はすでにこの頃に定着していたのか。

 海べりの駅に夜汽車は停まるらし沖の水面に漁り火見えて

 石田は山口県の柳井まで赴いた折りに、前途有望な高校生をあろうことか酒場に誘い出し、「歌人を志す男が酒がのめなくてどうする、酒と悪行なくして何の修行じゃ」と迫ったという。島田はこの無頼への誘いはやんわりと遠ざけて、京都大学法学部に無事合格し、京大短歌会に所属する。だから島田は、石田比呂志→永田和宏という一風変わった師筋を持つ歌人なのである。(このあたりのエピソードは関川夏央『現代短歌そのこころみ』による)

 島田の短歌のまず目に付く特徴は、確かな措辞に裏付けられた端正な歌の姿と、決して荒げることのない静かな声である。静かすぎる声と言ってもよい。

 冬の気をあつめ李朝の青磁あり唇うすき佳人思えり

 梅林を破線のごとく言葉継ぎ過ぎりつ花の喘ぐ重さに

 中庭を吹き惑う風花散ると見えしは風の白日夢かは

 見破ってほしい嘘あり花陰にまさりて暗き葉ざくらの影

 故郷近くなりて潰せるビール缶の麒麟のまなこ海を見るべし

 時代はちがうが、福島泰樹の「樽見、君の肩に霜降れ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」のような腹の底から噴き上げる情熱、あるいは高野公彦の「たましひを常飢ゑしめてかの冥き深き淵よりのがれむとする」のような自己のほの暗い内面への下降沈潜、はたまた阿木津英の「産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」のような、カッコ良すぎるほどの高らかな思想宣言に類するものは、島田の短歌世界のどこを探しても見あたらない。だから人によっては島田の短歌を一読したときに、淡く薄い印象しか持ち得ないという感想もありうるだろう。事実、歌集評のなかにはそのような感想も散見される。

 一方、ニューウェーヴ短歌のプロデューサー加藤治郎は、島田の『no news』は「問題歌集だ」と言う。どこが問題歌集なのだろうか。『no news』は「底知れぬアナーキーな歌集」であり、「大正期の自我の確立から、戦後のリアリズム、前衛短歌を経て、体性感覚(篠弘)、高野公彦の闇の領域の獲得からニューウェーブの情報化された自我まで」という「短歌史のフィールドからは、手付かずの位置にあり」、島田は「短歌のサンプリングをやっているのだ」という仮説を提案している。(http://www.sweetswan.com/jiro/naruo2.cgi) 加藤の仮説は刺激的なものではあるが、具体例に基づいた分析がないので、現時点ではその妥当性を判断することができない。

 加藤は同時に、島田の短歌には「感覚的に生々しい、あるいは闇を抱えた〈私〉が、出てこない。そこがすこし物足りない」とも述べている。こちらの方はよくわかる。「闇を抱えた〈私〉」とは、若い世代で言うと、例えば「過ぐる日々に神経叢は磨り減ってまぶたの裏に白き靄立つ」と詠った生沼義朗、「いまや過去を切断すべし梅雨空の裂けて眩しき紫陽花断首」と詠う高島裕、はたまた「廃屋のアップライトを叩く雨すべてはほろぶのぞみのままに」と詠う佐藤りえあたりがすぐ頭に浮かぶ。生沼が浮上させるのは、都市的現実に囲繞された神経症的〈私〉であり、高島の押し上げるのは、自らの生きる時代と絶交した思想的流竄者としての〈私〉、また佐藤が描くのは、バブル崩壊後の大衆消費社会のなかで行き場を失った午後4時の〈私〉である。確かにこういった歌人たちの作る短歌と島田の短歌を較べてみると、「歌によって押し上げられる〈私〉」の位相が異なっていることに気づくのである。

 では島田の短歌の根底にある〈私〉とはどのようなものだろうか。

 朝夕に往き還りする舗路(しきみち)を散る山茶花はしずかに汚す

 昼ふけの踊り場ふかく蔵(しま)われし春のひかりの返されていつ

 白桜は灯火のいろに移ろえり元の花街、ちいさき稲荷

 プロセイン史に戦いの記述ひとつ終り湯を沸かす、瓦斯のかすかな匂い

 これらの歌を読んで気づくのは、歌人としての島田の眼差しが注がれるのが、毎朝起きて通勤電車に揺られる日常の〈私〉の周囲で起きる「微細な揺らぎ」「静かな移ろい」だということである。一首目、毎日の通勤で通る道路に山茶花の花が散っているという微細な日常の変化。二首目、場面は勤務先の大学か、階段の踊り場に溢れる春の光。三首目は白い桜の花びらが灯火を映して色を変えるという、これまた微少な推移。四首目、政治学の論文を書き終り、ガスを点けるとかすかにガスが匂うというだけのこと。これらの歌に不在なのは、たとえば路上に散る山茶花の花を見て私が抱いた「感慨」や「思い」である。

 認識はすべからく〈客体〉と〈主体〉との相互作用であり、短歌表現もまた〈叙景〉と〈叙情〉を軸として成立する。短歌に詠まれた情景は、その情景の表現を鏡として、それを見る〈主体〉を照らし出す。こうして否応なしに〈主体〉が照らし出されることによって、詩としての短歌的抒情が成立する。しかし島田は、日常の「微細な揺らぎ」「静かな移ろい」を描写しながら、その情景が送り返すはずの〈私〉を提示しない。だから読者は、島田の短歌は「控え目でおとなしい」「印象が淡い」という印象を抱くのである。

 私は歌集題名の『no news』を見たとき、もう少し何とかならないかと感じた。それは小池光の『日々の思い出』という題名を見た時の第一印象とよく似ている。しかし、歌集に収録された歌を読み、あとがきの「『目新しいことひとつない(ノーニューズ)』青年期であったが、そのありふれた事柄でさえ、的確にコトバで捉えたと実感できる瞬間はごく稀にしか訪れない」というくだりを読んで、得心するところがあった。

 これは小笠原賢二の次のような言葉と、遠く呼応するように思われる。

 「現代歌人たちは、のっぺらぼうに広がる時空を前に、辛うじて定型によって自らに根拠を与え続けざるを得ない。その空しさに日々耐え、充足させようのない渇きをとりあえず満たすために、強迫的に歌わざるを得なくなった。平和と豊かさのなかで爛熟した時代の、シーシュポスの神話を身をもって実践さぜるを得ないのである」(「同義反復という徒労」『終焉からの問い』所収)

 島田が日常の身の回りの「微細な推移感覚」に拘泥するのは、時代論的にはこのような背景があるのではないだろうか。このような認識を踏まえて見れば、三枝昂之の次のような評は正鵠を射ているように思われて来るのである。

「島田の歌に虚無があるのではない。むしろ逆で、眼前の小さな手触りに心を傾けることが世界へ触手を伸ばすことに繋がるといった悲観も楽観もない強い意志がそこにはある。それが文語表現の凝集力を伴った説得力になっているところに、島田の新しさがある」(三枝昂之「青春歌の風向き」『短歌年鑑』平成16年度版)

 永田和宏は島田を評して、「老成している」と述べたそうだ。青春の昂揚を歌わず、「眼前の小さな手触りに心を傾ける」のは、確かに生活圏の狭くなった老人の眼差しにどこか似ている。また加藤治郎は、「制御不能な破れたものが浸出したとき、定型との対話が始まるのではないだろうか。島田幸典を注視したいと思っている」と述べている。島田の上手すぎる定型の措辞が、制御不能になる時が来るのだろうか。それもまた楽しみなことである。

 最後に一首あげておこう。便器がこのように美しく詠われたことはかつてなかろう。これもまた「眼前の小さな手触り」の一例であることは言うまでもない。

 ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに

063:2004年8月 第1週 魚村晋太郎
または、修辞的技巧のかなたに垣間見える虚無を立ち上げよ

罎の内側から見ると恋人は
    救世主(メシア)のやうに甘く爛れて

        魚村晋太郎『銀耳』(砂子屋書房)
 歌集の題名は「ぎんじ」と読む。中華料理の食材として、また漢方薬として珍重される白木耳を乾燥させたものをいう。銀耳を甘い砂糖液で煮たデザートは、歯ごたえが楽しく、私も愛好する一品だ。「銀耳」という漢字には強いイメージの喚起力があり、中国音「インアル」もまた美しい。集中にある「中華スープの銀耳(しろきくらげ)が生えてゐる場所をある日の憧れとして」から採られたものである。作者魚村はこの銀耳30首で2001年に第44回短歌研究新人賞次席に入選している。イメージの喚起力の強い漢字へのこだわりと、掲載歌の初句・二句の大胆な句跨りから容易に推測されるように、魚村は塚本邦雄の主宰する「玲瓏」会員である。

 「罎の内側から見る」というあり得ない仮想の視点への想像力による移動、メシアというキリスト教用語の喚起する世紀末の匂い、そして「恋人が甘く爛れている」という終末的快楽の暗示。魚村の構築する短歌の世界は、このように選ばれた言葉が織りなす交響曲のようなイメージの世界であり、その鍵は抜群の修辞の力だと言ってよい。

 包丁に獣脂の曇り しなかつた事を咎めに隣人が来る

 ゆつくりと人を裏切る 芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて

 人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる

 核心に触れない 服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指

 パエーリヤに口開く貝 物分りのいい恋人の舌がつめたい

 いささか恣意的に集中より何首かあげたが、ここには魚村の作歌技法の特徴がよく出ている。その第一は二句切れが多いことである。三枝昴之『現代短歌の修辞学』(ながらみ書房)所収の討論において、塚本邦雄は自分の短歌の特徴として、「二句切れが多い」「第五句が一音足りない」「初句に字余りが多い」の三点をあげている。実例を見てみよう。 

 日常にわれら死す 夏ひばり火の囀り耳の底に封じて (二句切れ)

 あたらしき墓立つは家建つよりもはれやかにわがこころの夏至 (第五句一音欠落)

 聴きつつ睡るラジオの底の夏祭りそこ曲がり紫陽花を傷むるな (初句字余り)

 だから魚村に二句切れが多いのは、塚本の修辞を綿密に研究した結果なのである。

 上にあげた魚村の短歌のもうひとつの特徴は、「叙景表現」と「情意表現」の切断である。一首目、「包丁に獣脂の曇り」は肉を切った脂の曇りが包丁に残るという叙景で、残りの「しなかつた事を咎めに隣人が来る」は出来事の叙述ではあるが、一首の意味の重心はこちらにあり、濡れ衣を着せられた〈私〉の困惑が当然想像される。ところが、「包丁に獣脂の曇り」という叙景表現と三句以下は、一字あけによって切断されており、ここには期待される短歌的喩の関係が不在である。しかし、この不在は読みの多様性を生む。包丁に残る獣脂の曇りは、実は私が犯した犯罪の痕跡かもしれない。また時系列を逆転し、濡れ衣を着せられたことで、私に殺意が芽生え、それを受けて包丁が曇ったのかもしれない。このように、二句切れによる宙吊り感に加えて、「叙景表現」と「情意表現」を意図的に切断することによって、作者はその切断面に新たな意味が生成されることをめざしているのではないかと思える。

 二首目でもやはり、「ゆつくりと人を裏切る」という前半と、「芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて」のあいだは一字あけで切断されて、しかもごていねいに倒置されている。三首目「人間の壊れやすさ」は内心の思いであり情意表現であるが、三句以下の「と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる」は、その思いを受け止める常識的な喩とはなっていない。つまり、短歌の韻文としての基本構造を、「問」と「答え」による「合わせ鏡の構造」に求めた永田和宏の定理をいかにずらした地点で短歌を成立させるかという試みが、魚村の作歌の中核を成しているのではないかと推察される。

 これに比べれば、四首目と五首目はもう少しわかりやすい。「服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指」は叙景表現でありながら、「核心に触れない」という相手 (女性であろう) の蛇の生殺しのような態度の喩として成立している。また、「パエーリヤに口開く貝」は叙景としても読めるが、三句以下を導く単なる修辞的喩としても読める。

 韻律の点でも魚村の修辞力は発揮されている。

 夜明け 林檎の歯型みるみる鮮やかになりて恋敵の秘密知る

 子らは父を仕留めにでかけ薄ら陽の路上にランドセルが置きざり

 一首目は三音初句切れと見るとあんまりなので、ここは一字あけによる視覚的効果と、韻律的切れをずらしていると見るべきだろう。二首目でも、初句「子らは父を」は一音増、「路上にランド / セルが置きざり」という句跨りがあり、前衛短歌の修辞を十分に自家薬籠中のものとしていることがわかる。

 さて、では魚村がこのような抜群の修辞力を駆使して作る短歌が描こうとする世界とはどのようなものか。これがいまひとつはっきりと結像しないうらみが残るのである。

 「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり

 どれが私の欲望なのか傘立てに並ぶビニールの傘の白い柄

 冥途の土産なき身の丈を夜行バスの座席に預けつつ冬の旅

 ぼくたちは失敗のあとを生きてゐるポットにティーの葉ををどらせて

 注文した通りのピッツァが届くだろう悪役が死をたまはる頃に

 一首目に漂っているのは、並列化された世界にたいする漠然とした倦怠感のようだ。この感覚は二首目にも顕著で、傘立てに並ぶビニール傘がどれも似ているように、自分の欲望すらも並列化されている。三首目は自分には冥途の土産がないという達成感の欠落。四首目はもっとはっきりしたペシミスムと終末感が漂う。五首目、TVドラマで悪役が定石通りに死ぬまでのわずかな時間のあいだに、注文通りの宅配ピザが届くというのは、意外な展開のないシステム化された日常を詠っているようだ。

 1965年生まれで、バブル経済の最盛期に成人を迎え、今年で39歳になる魚村にとって、撃つべき相手とは何か。これはむずかしい課題である。荻原裕幸と穂村弘はともに1962年生まれだから、世代的には魚村もニューウェーヴ短歌に与してもよい世代なのだ。魚村の抜群の修辞力の陰に隠れてしまっているが、魚村も「ぼくたちはつるつるのゴーフルだ」と書いた穂村と、世界観の点ではそれほど違わない地点にいるのかも知れないと感じてしまうのである。

 歌人は短歌によって世界の認識を語る。そのなかに否応なく認識する主体としての〈私〉が浮上する。魚村の短歌には、まだ滲み出る苦い〈私〉が希薄なようだ。撃つべき相手を認識したとき、魚村の〈私〉も相関的に立ち上がるだろう。

 最後に集中特に印象に残った歌をあげておこう。

 失意にも北限はあり雨中(あまなか)を荷主不明の百合の貨車着く

 かつて天動説 傾ぐオリオンを蹴り上げて少年筋斗切る

 神戸ルミナリエ 鎮魂の灯につながりて彼方に原子炉の火黙せり

 肉挽き器(ミンサー)を溢るる挽肉(ミンチ)かなしみは悲しむひとを容(ゆる)しやすくて

 死ではない終はりを持つてゐるひとがありの実を剥く皮をたらして

ぬばたまの鴉は生と死のあはひにて声高く啼く──大塚寅彦の短歌世界

 大塚寅彦が1982年に「刺青天使」30首により短歌研究新人賞を受賞したのは、若干21歳の時である。繊細な感受性が震えるようなその端正な文語定型短歌は、とても20歳そこそこの青年の手になるものとは思えないほどの完成度を示している。それから20年余を経て、口語ライトヴァース全盛の現在となっては、もはや遠い奇跡のようにすら感じられる。穂村弘は、大塚の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」を引いて、「このような高度な文体を自由に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と述べた(『短歌ヴァーサス』2号)。ちなみにここに言う「彼ら」とは、大塚、中山明、紀野恵の三人をさす。大塚はこのように文芸において早熟の人なのである。そしてこのことは、大塚の短歌に深い刻印を残しているように思われる。

 1985年の第一歌集『刺青天使』を代表すると思われる二首がある。

 烏羽玉の音盤(ディスク)めぐれりひと無きのちわれも大鴉を飼へるひとりか 

 翼痕のいたみを忘るべく抱くと淡く刺青のごとき静脈 

「烏羽玉の」は「黒」にかかる枕詞だから、古風に音盤と書かれたレコードは、黒光りするLPレコードか、ひょっとするとSPレコードかもしれない。「大鴉」はもちろんエドガー・アラン・ポーの長詩 Ravenで、Nevermore と陰気にリフレインを響かせたあの鴉である。「われも大鴉を飼へるひとり」とは、自己の内部に鴉に象徴されるものを秘めているということだろう。それは自らの内に刻印された運命としての資質であり、大塚の詩想の源泉でもある。大塚には他にも鴉の歌があるが、『ガウディの月』所収の「選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て」にも明らかなように、自らを宿命によって選ばれた者であるとする密かな矜持がある。これは『刺青天使』において特に強く感じられるように思う。

 右にあげた二首目は、歌集の題名にもなった歌である。「翼痕」とあるのだから、何ゆえか天使が羽をもがれてこの地上に堕されている。浮き出す青い静脈が刺青のように見えるという歌だ。地上に堕された天使は、天上的特性と地上的特性を併せ持つ両義的存在である。天上と地上のあいだで引き裂かれている天使は、この世に生を受けて生きている不思議と不全感の喩として、歌集全体を紋章のように刻印している。それは集中の次のような歌に明らかである。

 いづくより得し夢想の血 をさなくてみどり漉す陽に瞑りてゐき

 わが鳥のふかき飛翔を容るるべく真冬真澄の空はあらむを

 せいねんの肉体を持つふしぎさに 夜半の鏡裡に到るときのま

 いつの頃からか宿った夢想の血、地上にあって青年の肉体を持つ違和感、自らを堕天使と思いなす感覚、これは文芸において早熟な若者が抱きがちな魂の影である。ランボーの塔の歌を、ラディゲのペリカンを、三島由紀夫の貴種流離幻想を思い出すがよい。客観的に見れば確かに青年のナルシシズムである。しかし、このような魂の影は文芸の胚珠であり、そこから次のような美しい歌が生まれる。

 みづからの棘に傷つきたるごとし真紅の芽吹きもつ夏薔薇は

 花の屍ににじむつきかげ いもうとの匂ひ百花香(ポプリ)のうちにまじりて

 ところが、自らを羽をもがれた天使に仮託した青年の矜持と幻想は、第二歌集『空とぶ女友達』、第三歌集『声』、第四歌集『ガウディの月』と読み進むにしたがって、だんだんと薄れて行くように感じられる。かわって目につくようになるのは、世界と自分とのかすかな違和感を詠んだ歌と、倦怠と孤独を感じさせる歌である。

 天使想ふことなく久してのひらに雲のきれはしなす羽毛享く

 倦怠を肝(かん)のせゐとし臥しをればジョニ赤の男(ひと)卓を歩めり

 炙かれゐたる魚の白眼うるみつつ哀れむごとしわが独りの餉

 地上に長く暮していると、天使を思うことも少なくなる。天上的特性が薄れて、地上的特性が優位を占めるようになる。天使といえどもこの汚濁の世に生きれば、否応なく日々の塵埃にまみれるのである。かわって表に顔を出すのは、早熟の代償としての老成である。次のような歌に注目しよう。

 モニターにきみは映れり 微笑をみえない走査線に割かれて

 秋のあめふいにやさしも街なかをレプリカントのごとく歩めば

 育ちたるクローンに脳を移植して二十一世紀の終り見たし

 モデルハウス群しんかんと人間の滅びしのちの清らかさ見す

 SF界の鬼才フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を映画化した『ブレード・ランナー』に登場する人造人間レプリカントのように街を歩く私。ハウジングセンターに人間が滅亡した未来を幻視し、恋人はもはやモニターに映し出されるヴァーチャルな存在にすぎない。『現代短歌最前線』(北溟社)上巻の自選100首に添えられた文章は「2033年トラヒコ72歳」と題されている。AIに生活全般を世話されている72歳の老人になったトラヒコの物語である。この設定は意味深長と言わねばならない。

 この短文を読んで、小松左京の『オルガ』というSF短編を思い出した。舞台は人間がサイボーグ化により200歳もの長命を獲得した未来社会である。しかし人間はその代償として生殖能力を喪失している。主人公の老人は公園で思い切って見知らぬ婦人にいっしょにオルガを飲まないかと誘う。婦人は顔を赤らめるが承知し、ふたりは喫茶店でオルガを飲む。オルガとは長命の代償として失った性的快感の代替品なのである。喫茶店の外を見ると、そこにはヒトという種が迎えた晩秋の荒涼とした風景が広がっているという、なぜか心に残る物語である。

 文芸の世界で早熟は栄光であると同時に災厄でもある。穂村弘が「高度な文体を使いこなす若者たち」の一人として名をあげた中山明は、第二歌集『愛の挨拶』以後短歌の世界から距離を置き沈黙して久しい。最後の歌集『ラスト・トレイン』は中山のホームページ翡翠通信で読めるのみであり、そこに収められた歌には透明な惜別感が充満していて、胸が痛いほどである。これにたいして大塚は、第一歌集を見事に刻印した早熟の代償として、早すぎる老成を自ら選択したように思えるのである。

 第四歌集『ガウディの月』には、それまでの歌集にはあまり見られなかった作者の日常の出来事に題材をとった日常詠・機会詠が多く収められている。

 独りの荷解く夜の部屋の新畳にほへば旅のやうな静けさ

 職場出て芝に憩へばくちなはの陽の沁みとほる蛻のわれは

 うすべににこころ疾む日やひいやりと弥生の医師の触診を受く

 親の死、姉の入院と手術、また自分自身の手術、先輩歌人永井陽子の死、転居と、人生の節目となるような出来事が続いて起きたことがここに作用しているのは明らかである。しかし、それだけがこのような歌風の変化の原因とは思えないような気がするのである。私はここで「方法として選択された老成」という言葉を使ってみたくなる。その意味するところは、より日常の些事に拘泥することで、地上的特性が優位を占めこの世に生きる自分の身辺のなかに静かに抒情を歌うというほどのことである。『ガウディの月』に収められた歌の中にしばしば顔を出す諦観と疲労感は、このような短歌に対する態度と無縁ではないだろう。もちろんこのような態度からも美しい歌は生まれる。それは次のような歌であり、これらを読むとき私たちのなかには、静かだが深く心に刺さるものが残されるのである。

 蜻蛉は透き羽にひかりためながらわがめぐりを舞ふ死者の軽さに

 わがめぐりのみにゆらめき世界より隔つる冬の陽炎のあり

 湖にみづ倦みをらむ明るさをめぐりてあればいのち淡かり



『短歌』(中部短歌会)2004年7月号掲載

062:2004年7月 第4週 喜多昭夫
または、あくまで目線低く「ズムルケ感」にあこがれる歌

水の面にはなびらはのり
   はなびらの運ばるるゆゑみづぞ流るる

          喜多昭夫『夜店』(雁書館)
 掲載歌は作者の故郷であり、現在も住まいのある金沢の桜を詠ったものである。水面にはなびらが流れるゆえに水が流れるというのは論理的には誤謬だが、短歌的には真実である。普段は水の流れを意識しないゆるやかな水流でも、その面に桜の落花があると、動きがよくわかり、ああこんな溝のような川でも流れているのだなと気づかされる。喜多昭夫の『夜店』は、短歌は世界を詠うのではなく、世界の〈認識〉を詠う文学形式であることをあらためて教えてくれる歌集である。

 掲載歌は姿形も韻律も流れるように美しい歌だが、歌集『夜店』を代表する歌とは言い難い。むしろこの歌集では少数派に属する。多数を占めているのは次のような、まったく趣のちがう歌である。

 紫電改といふいかめしき名前もつ育毛剤ありがたく振る

 どこからが頭なのか分からねどなでなでしたきこの大海鼠

 そのむかしバス停近くの看板に水原弘は殺虫剤(アース)を持ちたり

 地味といふことをいふならなかんづく切手の裏に付着せし糊

 眉にやや力を込めてうな重のたれ少なきを嘆く妻はや

 次の世はどさんこに生れ競はずに愉しみ駆けよサイレントスズカ

 手首には真白きテニスバンド巻き伏目がちなるリスカをとめご

 掲載歌のように美しく、いかにも短歌的な歌も作ろうと思えば、巧者の喜多ならばいくらでも作れるのだ。しかし、喜多の目指すラインはちがっている。上に挙げた歌群を特徴づけるのは、韻律的には「トーンの低さ」であり、主題的には「目線の低さ」である。詠い上げるのではなく、変な言い方だが「詠い下げる」ことを目指していると思える。

 一首目、紫電改というごたいそうな商品名の育毛剤を自分の頭に振る作者は、どうしようもなく中年男である。喜多は1963年生まれなのでまだ40歳だが、薄毛が進行しているのだろうか。二首目のすぐ前には海鼠になりたいという歌もあるので、海底にうずくまる海鼠は作者の自己像である。三首目のバス停近くの看板は、今では懐かしい琺瑯看板だろう。水原弘が「黒い花びら」を歌って第1回レコード大賞を受賞したのは1959年のことだから、喜多はまだ生まれていない。だから「そのむかし」は現実の記憶ではなく、偽装された記憶であり、喜多は描く自己像は実際よりも年寄りなのである。四首目は「地味尽くし」の連作のなかの一首。切手の裏の糊という、文字通り日の当たらない存在をわざわざ取り上げていて、作者の「目線の低さ」を象徴する。この歌集には妻を詠った歌が多いが、五首目はその白眉。たれの少なさに眉に力を込めて嘆くというところに、おかしみと日常の些事へのこだわりがある。六首目、サイレントスズカは、圧倒的強さを誇りながら、1998年11月1日、府中競馬場で開催された天皇賞レースで、第三コーナーを曲がったところで骨折し、薬殺された悲劇の競馬馬である。生まれ変わったらのんびり暮らせと詠うこの歌は、だから挽歌である。七首目のリスカは、リストカットの略で、思春期の少女に多い自傷行為。作者は高校教員で、カウンセラーの研修を受けた折りのことを詠んだ歌もあるので、これは職場詠ということになろう。

 歌集のなかに「こころがけ」という連作があり、これは作歌の心得を歌にしたものである。

 才能は歌殺すゆゑ才八分くらゐにとどめ歌ふこと大事

 ふだん着のこころで歌ふこと大事あとはなあんにも考えるなよ

 「才八分」で「ふだん着」が信条だから、変に肩に力の入った歌は作らないという決意表明なのだ。「目線の低さ」のよって来る処である。

 喜多にはすでに『青夕焼』『銀桃』という歌集があり、『夜店』は第三歌集だという。私は例によって歌壇に昏いので、今までの歌集は読んだことがないのだが、『夜店』は注目されているらしく、あちこちに書評が載った。今井恵子は『歌壇』2004年5月号の「最近、おもしろい歌集を読みましたか 私の見つけた名歌集」という特集で『夜店』を取り上げ、「負性の肯定」という言葉で語っている。「表通りからはずれた路地の暗がりで、声もあげずに埋没していってしまうような感情や意識」を取り上げて肯定するという作者の目線にその特徴を見いだしている。確かにそうなのだが、それでは上に挙げた歌群が結像する「海鼠になりたいと思いながら育毛剤を頭に振る〈私〉」がこぼれてしまう。また今井は、「路地裏の小さな感情や意識は、人間の普遍へとつながり膨らむのである」と結んでいるが、本当に喜多はそんなことを目指しているのだろうか。「ふだん着」が信条の喜多が、「人間の普遍」など目指すはずがない。

 中部短歌会の『短歌』2003年11月号には、岡嶋憲治の長文の書評がある。岡嶋のトーンは苦言であり、かつて「青空にレモンの輪切り幾千枚漂ひつつも吾を統ぶ、夏」のような秀歌を残した喜多が、『夜店』では「調子が落ちて」「若々しさやエネルギーが失われて」おり、「『青夕焼』の切り開いた地平からの後退」だと断じている。私は『青夕焼』『銀桃』を読んでいないので、大きなことは言えないのだが、本当に岡嶋の言うとおりなのだろうか。『夜店』のトーンの低さや、どこか腑抜けたようなズルズル感を、「後退」とのみ断じていいのだろうか。

 この問題を解く鍵は、中部短歌会の『短歌』2004年7月号に掲載された喜多自身の文章「ぽっかりと口ひらく 香山ゆき江歌集『水も匂わぬ』を読む」にあるようだ。喜多は最近読んだ歌集で「スゴイなあ」と思ったものとして、高野公彦『渾円球』、前登志夫『鳥総立』、馬場あき子『九花』と並んで、無名の香山ゆき江『水も匂わぬ』を挙げている。「名歌集」ではなく「スゴイなあ」と思った歌集という所がポイントである。喜多は香山の次のような歌を引用して褒めている。

 まむしのような目をして夫が手招くに気合いを入れてわれの近づく

 錯乱の夫の眼はどんよりと底力ありわれはたぢろぐ

 わたしより視線はなさぬ遺影なり右に左に動いてみるが

 照れくさき顔して夫の逝きしより一回忌来てわが厚化粧

 喜多は香山ゆき江を評して、「この歌人は人道主義に陥らない」で「ただあるがままに受けとめる」、人だとし、「やっぱり生。生がいい。このズルムケ感がたまらなくいいのだ」とまとめている。

 「批評とは畢竟自己を語ることである」と喝破したのは小林秀雄だが、人の歌集の評価はそのまま己に還ってくる。喜多が香山ゆき江の歌集に贈る言葉は、喜多自身が自分の歌集で目指している境地に他ならない。「ズルムケ感」とは、表面を取り繕うことなく皮膚を晒しているということであり、また剥がれた皮膚の下から血を流しているということでもある。この「ナマ感覚」が、現在の時点での喜多が短歌に見いだしている「リアルなもの」なのだろう。「リアルでないもの」は、「作り物」「お体裁」「人道主義」「トーンの高さ」である。喜多はだから、「トーンの低さ」と「目線の低さ」を徹底することで、「リアルなもの」を掴めと主張しているのである。これを岡嶋のように、「『青夕焼』の切り開いた地平からの後退」と、一方的に断定されては、作者の立つ瀬がなかろう。私は個人的には、喜多の言う「ズルムケ感」が今の短歌にとっていちばんよいものとは思わないが、喜多がそのような境地に惹かれる理由は理解できるし、それが岡嶋の言うような「後退」だとも考えない。ある意味でそれは喜多の作歌態度の「深化」とも言えるからである。散見した書評には、このような解釈を前提として書かれたものは見られなかった。喜多が『夜店』で示した姿勢は、「現代の短歌にとってリアルなものとは何か」という重要な問題に繋がるものなのに、残念なことだ。

 喜多が『夜店』で実践して見せた「目線の低さ」と「裸丸出しの自己像」(もちろんこれも演出のひとつである)が、岡嶋から「後退」と否定的評価をされてしまうのは、喜多のような姿勢がひょっとしたら短歌の生理とは相性が悪いためかもしれない。というのは、伝統的和歌は祝祭的出自を持っているし(宮中の歌会始に続く伝統) 、山下雅人が言っているように、「短歌はすべて挽歌である」というところがあるからだ(福島泰樹の短歌を見よ)。祝祭の晴れがましい場に「ズルムケ感」は闖入者のようにそぐわないし、挽歌はその生理としてなべてトーンが高い。

 これに関しては、『夜店』のあとがきに長谷川櫂への謝辞があって、おやっと思った。喜多は俳句と近いところにいるのであり、私が知らないだけで句作もあるのかもしれない。いやあるにちがいない。そう思って見れば、『夜店』に収録された歌には、俳句・川柳・都々逸の調子の歌がある。

 たとえば次の坪内稔典の俳句と比較してみたらどうだろう。

 春の坂丸大ハムが泣いている

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

 河馬は坪内お好みの自己像であり、喜多の海鼠と通じるところがある。俳人にはこのように、プロメテウス的に高い処を目指すのではなく、諧謔と軽みをまぶして自分を低くする態度がある。また草の花や水道の蛇口などに寄せる視線は、徹底的に日常的で低い視線である。だから喜多の『夜店』のトーンの低さは、作者の俳句的世界認識の型に由来するのかもしれないのである。

 最後に、短歌的修辞と喜多の考える「リアルなもの」とのバランスが均衡していると思われる歌をあげておこう。これらは私には十分に美しいものと思えるのである。

 目薬の目に落つるまで飛行せり春の一日の最終便か

 睡蓮の蕾思ひて夕暮れの大観覧車に一人乗り込む

 卓上にありて遙かなサンキスト・レモンに緑の刻印はあり

 風受くることなきままに常しへに帆をあげてゐるボトルシップは

 砂丘(すなおか)に膝折りたたみ腹這ひていかなる神も持たず駱駝は

 煮えてゆく小豆の粒のやはらかさ死までの時間あとどのくらゐ

 側溝の泥にまみれてくれなゐの都こんぶの小さき箱あり

061:2004年7月 第3週 ひぐらしひなつ
または、足を折るきりんの世界はしずかに崩れてゆく

フィルムに風をとどめて三脚は
      しずかに倒れる春の渚に

         ひぐらしひなつ『きりんのうた。』(BookPark)
 まだ春浅い海辺で写真を撮っているのだろう。春とはいえ風はまだ冷たい。三脚を使っての撮影だから、かなり本格的な撮影か、セルフタイマーを用いての本人を含めたスナップ写真と思われる。しかしシャッターが切れる瞬間に、三脚は風に煽られたのか、ゆっくりと静かに倒れていく。この「ゆっくりと静かに」というのがポイントである。カメラのレンズは撮すべき人物から逸れて、虚しく蒼穹を印画紙に定着する。写真に写っているのは春浅い空を吹く風ばかりである。ここはやはり撮そうとしたのは〈私〉と恋人で、セルフタイマーを使ってふたりの記念写真を撮ろうとしたのだと解釈したい。カメラのレンズがふたりから逸れて行くというのは短歌的喩であり、これからのふたりの関係が壊れて行くことを暗示している。現実において三脚が倒れるのは一瞬の出来事なのだが、それをまるでスローモーションのように無音の世界において描いており、この喩よって私たちに差し出される世界の崩壊感覚は、静かなだけにいっそう印象的である。ひぐらしの短歌を特徴づけるキーワードは、この「静かな崩壊感覚」だと言ってよい。それは「ももいろひとさしゆび」と題された章の冒頭の詞書きに明らかに示されている。

 芽吹くものが平衡を狂わせてゆく。
 絢爛と壊れながら、ぼくたちは何を見ていたのだろう。

 この「静かな崩壊感覚」は、次のような美しい歌群にとりわけ顕著である。

 ヴィヴァルディの春奏でつつ駐車場七階から墜ちるメルセデス

 グラスから矢車草は抜き取られわたしがしずかに毀れはじめる

 木漏れ日を吸い込むたびにゆるやかに崩れていった爪のさきから

 あたたかな雨が鎖骨を濡らす日はむかし滅んだ国の話を

 不眠症の駱駝の睫毛を震わせて異国の闇に燃え尽きる星

 特に一首目の、CDプレーヤーからヴィヴァルディの『四季』を大音量で流しながら、ゆっくりと駐車場ビルの上の階から墜ちて行くメルセデスというイメージは鮮烈である。それは絢爛たる崩壊であり、壮絶な蕩尽でありながら、奇妙に静謐な美しさを湛えている。私の知る限り、駐車場から墜落するメルセデスが短歌に詠まれたことは一度もないのではなかろうか。

 ひぐらしは1967年生まれ。プロフィールによれば、広告代理店勤務を経て、現在はフリーライターでドラム奏者でもあるという。注目すべきはひぐらしの詩的活動は、最初からインターネット上で行なわれたという点である。パソコン通信アサヒネットの歌会で短歌を作り始め、現在は「ラエティティア」を活動の場としている。『きりんのうた。』は荻原裕幸らの「歌葉」プロジェクトのプロデュースでオンデマンド出版された著者第一歌集である。その出自からして生粋のネット歌人だと言ってよいだろう。

 歌集のあとがきはおもしろい。殊にそれが処女歌集の場合は、作者も初めて自分の歌集が世に出ることに感慨ひとしおであり、驚くほど率直な内面の吐露が見られることがある。第一歌集のあとがきから韜晦をかましたり、読者を煙に巻くようなことをするのは、よほどの筋金入りのへそ曲がりである。

 ひぐらしのあとがきは「いつも雪が降っていたような気がする」という一文で始まる。もちろんこれは北海道に住んでいたというようなことではなくて、ひぐらしの心象風景であることは言うまでもない。ひぐらしは続けて、「ただ椅子に腰かけて、音も色もない世界をじっと見ていた」という。ここからまず、ひぐらしは世界を自身の心象風景として見る人であることがわかり、そこから生まれる短歌もまた作者の心象風景だろうという推測が成り立つ。これはひぐらしの作る短歌が、写実主義(アララギ派)や生活実感派の重んじる「素材主義」や「日々の思い」とは対極的な地点に成立するものだということを意味している。

 同じくあとがきによれば、ひぐらしの心象風景はある日「突然色づき」、音や色や臭いといったものが一斉に押し寄せて来たという。自分を世界から隔てていた堰がある日決壊したのである。しかし、本人はいまだに「うまくやれなかった自分」を意識しており、「人並みのしあわせ」の枠からはみだしてしまった自分を感じている。そんな自分にとって「一度は失いかけた自我の奪還を目指して」走る伴走者として短歌があったという。

 これはとてもよく出来た物語である。ここで「物語」という用語を使うのは、それが「作り話」だとか「自己劇化」だとか言っているのではない。なぜなら誰もが自分の「物語」を切実に必要としているからであり、誰にとっても「物語」は自分がこの世界にある理由を根拠づけるものであると同時に、ときに希望を未来に向かって投射する梃子だからである。ひぐらしに関して言えば、ひぐらしの作る短歌が上のような物語を基盤として成立しているということが重要なのである。だから、この歌集には言葉遊びのように記号をもてあそぶ歌が一首もない。短歌はひぐらしにとって楽しい遊びではないからである。また現実の出来事をそのまま詠んだ歌もひとつもない。現実の出来事はそのままでは何の意味を持たないからである。また次のように、一首のなかで自己を相対化し、自分で自分を距離を置いて見つめるような歌もない。

 高野(あいつ)にはちよつと優しくしてあげて飲ませてごらんあつぱらぱあとなる 
                     高野公彦『水苑』

 高野氏を離れて一夜(ひとよ)憩ひをる背広と靴と鞄、眼鏡ら

 このような自己相対化は、長らくこの世に生きてきた人にだけできるオジサン芸なので、若い人には無理だろう。

 このようにひぐらしの短歌世界は、自分を詠ったものではなく、自分と世界の関係を詠ったものでもなく、ひたすら自己の心に映じた心象風景を詠ったものなのである。ではその心象風景とはどのような色に彩られているか。先に「静かな崩壊感覚」というキーワードを使った。それ以外に目につくのは「未遂のもたらす不全感」である。

 組みかけの模型なくして湖のほとりに立てば深まるみどり

 「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日

 読みかけの新潮文庫を閉じるときあのはつなつの開脚前転

 届かない小石は水面に落ちたままあなたのかたちを知るためのゆび

 あかまつの林に入れば描きかけの画帳が風に捲れるばかり

 春の星座になりそこなった白熊が眠るよ春の星座の下で

 模型は永遠に「組かけ」であり、オルゴールは最後の旋律を鳴らすことなく停止する。新潮文庫は読みかけであり、向こう岸に向けて投げた小石は届かない。画帳は書きかけのまま林のなかに置き忘れられ、白熊は星座になりそこなって眠るのである。この「未遂のもたらす不全感」は、ひぐらしの描く心象風景をほろほろと崩れるショートケーキのように、透明であると同時にはかなくせつないものにしている。

 ここでひとつ押さえておかなくてはならないことがある。ひぐらしの描く心象風景は、「わたしたちはなんて遠くへきたのだろう四季の水辺に素足を浸し」と詠った佐藤りえ(『フラジャイル』風媒社)の描く世界と、一見似ているようで実は微妙にちがうという点である。栞文で香川ヒサが的確に分析しているように(香川ヒサはいつでも論理的で的確である)、佐藤がバブル崩壊の90年代に歌人として出発したことが作品を決定づけており、佐藤の描く世界に充満する喪失感と無力感は、バブル崩壊後の失われた10年という時代情況を背景としている。ところがひぐらしの心象風景に満ちている崩壊感覚と不全感は、時代から来るものではなくもっと個人的であり、自分の心のなかの傾いた暗がりに端を発するものなのである。

 この点がひぐらしの作る短歌の位相を決定づけているようだ。なぜならば時代情況からは目を逸らすこともできるし、場合によっては時代に逆襲をかけることだってできる。人は時代情況に全的に規定される存在ではないからである。しかしひぐらしの方は自らの心象風景に満ちる崩壊感覚と不全感から逃れることはできない。それは自分を取り巻く時代情況という外部にあるのではなく、自分の内部にあるからである。だからひぐらしの作る歌は100%すべてが、〈私〉の内部の喩であるといってよい。

 文体について一言述べると、ひぐらしの短歌は口語定型である。俵万智以後燎源の火のごとく広まったライトヴァースは口語定型が基本なのだが、ひぐらしの歌はそのようなライトヴァースとははっきりと一線を画している。ひぐらしの歌を他の口語ライトヴァース短歌と並べてみればすぐわかる。 

 きんのひかりの化身のごとき卵焼きを巻き了へて王女さまの休日  山崎郁子

 コンビニの袋に入れて持ち帰る賑やかな孤独ポテトチップスの  杉山理紀

 自転車をこぐスピードで少しずつ孤独に向かうあたしの心  加藤千恵

 ケータイの普及のおかげで突然に女便所で振られた私  柳澤真実

 膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして ひぐらしひなつ

 山崎の「きんのひかりの化身のごとき」は喩だが、それは「卵焼き」をにかかる直喩であると同時に、過剰の時代であった80年代の気分を一般的に表わす隠喩にすぎない。杉山の「コンビニの袋に入れて持ち帰る」「ポテトチップス」は「孤独」の喩であるが、それはささやかな感覚であり明日には解消されるものだ。加藤の「自転車をこぐスピードで」もまた、孤独に向かう心の喩ではあるが、これは単なる比喩であり、ひとつの世界を立ち上げるような短歌的喩ではない。ひぐらしの「膝を折るきりんの檻」はそのイメージの結像力のレベルがちがう。ひぐらしの心象風景の世界を立ち上げる喩であり、一首はこの喩を梃子として日常の世界から離陸するのである。

 最後に心に残った歌をもう少しあげておこう。

 骨と骨つないでたどるゆるやかにともにこわれてゆく約束を

 心音はいつか途切れてゆうぐれの湖底を滑るぎんいろの魚

 膝がしら並べていたねゆるしあう術もないまま蝶を飛ばせて

 夜の河に金魚を放つ今つけたばかりの名前をささやきながら

 ゆるやかに漕ぎ出す舟は河口へと着く頃しずかに燃え尽きるだろう


ひぐらしひなつのホームページ Very Very WILD HEART

060:2004年7月 第2週 安藤美保
または、寒天質に閉じこめられた若さはそのまま永遠に

君の目に見られいるとき私は
    こまかき水の粒子に還る

       安藤美保『水の粒子』(ながらみ書房)
 「君」はもちろん私が心を寄せている男性である。君のまなざしは、私を即自的存在から対自的存在に変える。そのとき私は人間としての輪郭を失って、ばらばらの水の粒子に還るような気がすると詠っている。「還る」というからには、私は元は粒子から成る存在であったと認識している訳だ。青春のほのかな愛を詠った歌であり、愛を受動的態度で表現しているところに、作者の控え目な人柄と世界にたいするスタンスが滲み出ている。

 作者の安藤美保は1967年生まれ。心の花会員。お茶の水女子大学文教育学部国文科に学び、研究テーマは藤原(後京極)良経。1991年修士課程の学生のときに、京都研修旅行中、比叡山の急斜面で滑落死する。享年24歳。『水の粒子』は翌年出版された遺稿歌集である。巻末に佐佐木幸綱の悲痛な跋文と、歌集編纂にあたったご両親のあとがきがあり、これも心を打たれる。

 作者本人が歌集を編むとき、最も腐心するのは歌の取捨選択と配列であろう。なかでも配列は歌集の印象を決定づける。編年順の場合、作られた時代順に歌が並んでいるので、作者の技量の向上、短歌世界の深化を時系列で辿ることができるという読者にとっての利点がある。しかし、なかには逆編年順の配列もあり、この場合一番最近作った歌が最初に並ぶことになる(例 錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』)。作者の意識からすれば、最近作った歌が今の自分に一番近い歌なので、近作を歌集冒頭に配したいということなのだろう。だから逆編年順は読者のためではなく、作者の自己意識の現われである。編年順と逆編年順は、時間という要素を基準とした配列だが、配列原理から時間を排除すると、作者の構成意識が前面に出る。例えば寺井淳『聖なるものへ』は、全体が35の節から、各節は10首の歌から成るという均整美を追求している。また節の表題が逆五十音順に並んでいるという凝りようである。

 作者の短歌観と歌の配列に相関関係はあるのだろうか。詳しく調べたことはないのだが、日々の歌、折々の歌を作る日常生活実感派(別名、人生派)は編年順を好み、短歌から日常の〈私〉を排して美的世界を追求する歌人(別名、ことば派)は、編年順によらない構成的配列を好むように思う。

 安藤美保『水の粒子』のような遺稿集は、作者本人の意思による配列を反映していない。残された家族や友人の手になる選歌・配列であり、ある意味で作者本人の意思を裏切ることを宿命づけられているとも言える。ご両親のあとがきは、夭折した娘を悼む言葉に満ちていて、歌集編纂の経緯や方針は一言も述べられていない。だがいろいろな手掛かりから推測すると、多少の出入りはありながらもおおむね編年順に構成されていると思われる。そしてこの選択は、結果的には安藤美保という歌人の個性とマッチしているように感じられる。

 歌集冒頭には1989年に「心の花」連作20首特集で一席となった「モザイク」が置かれている。家族に題材を採った日常詠であり、視線が及ぶ世界の狭さを感じさせると同時に、安藤が短歌に詠むことを望んだ心の肌理を率直に表わしている。それは時々は波立つこともあるが基本的には穏やかな日常の世界であり、決して燃え上がる情熱でも思想的煩悶でもないのである。

 木材でしきられた空間を住み処とし母は手長き蜘蛛に似ている

 縄跳びをうならせて跳ぶ弧のさなか、父と我とが見つめ合うなり

 世界に対するこのような態度は、多くの歌に詠まれた作者の木への偏愛にも感じることができる。

 「前世は木だったかもね」自動車の扉を開けて吾をふりかえる

 思うまま幹うねらせて芽ぶきたる樟のした男二人おり

 『歌壇』2004年6月号に、三枝昴之による山中智恵子のインタヴューが掲載されている。そのなかで三枝は「木が好きな人もいますが山中さんは空ですね」と述べ、山中も「そういえば私はあまり木をうたわないですね」と応じている。確かに山中は空と鳥をよく詠っている。

 わが生みて渡れる鳥と思ふまで昼澄みゆきぬ訪ひがたきかも

 青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや

 空と鳥はこの地上の人の世では叶わぬ魂の希求の象徴である。それに対して木は地上にどっしりと根を張る安定感のある存在であり、魂の飛翔よりは日常への愛着を表わしていると言えるだろう。安藤は手の届かない空と鳥を希求する歌人ではなく、目線低く日常のわずかな波紋に目を留めるタイプの歌人なのである。

 とはいえ日常にも心を騒がせるささいな揺らぎはある。揺らぎによって自意識は乱される。安藤の短歌の魅力は、その揺らぎを静かに内省的な態度でそっと捉えるところにある。

 ふくらみをつぶす小鳥の肋骨に指あててすいと押さえるように

 悔いありて歩む朝(あした)をまがなしく蜘蛛はさかさに空を見ており

 うす青き扉(ドア)になりたし叩く人のなきまま昼も灯に照らされて

 真紅の林檎胸に蔵(かく)して渡る人くつくつと笑い見ており川は

 手をつなぎ桜をくぐる少女らの頬に影さし影はうつろう

 そして誰もいなくなった座席には鋏で切り刻まれた春の陽

 『現代短歌全景 男たちの歌』(河出書房新社)巻末の「戦後夭折歌人の系譜」を執筆した山下雅人は、「この『うす青き扉』に象徴される硬質で透明な不在感覚が、もしかしたら安藤美保のたましいの原質であるかもしれない」と評し、その才能を惜しんでいる。確かに次のような歌がある。

 寒天質に閉じこめられた吾(あ)を包み駅ビル四階喫茶室光る

 自分を「寒天質に閉じこめられ」ていると感じるのは、自己に未決定の部分が多く、また社会と直接につながっていないという若さ故である。しかしその感覚を思想的にいじくり回すこともなく、かといって自虐的になることもなく、このように素直に表現できるのは、ひとつの才能なのだろう。

 河野裕子によれば、短歌を作り始めるきっかけのひとつに肉親の死があるという (『現代うた景色』 京都新聞社)。「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ」という絶唱を残し交通事故死した小野茂樹の夫人である小野雅子は、夫の死後作歌を始め『花筐』という歌集を残した。また「地震(なゐ)太く轟き過ぎし夜半にして青春に入る思ひひそけし」などの思春期の痛みと不安を詠い、18歳で宇都宮大学農学部の屋上から転落死した杉山隆の父親杉山浩もまた、息子の死後作歌を始め、歌集『夜半の地震』を出している。安藤美保の父聰彦氏もまた、歌集巻末のあとがきに「涙して娘の遺作編む窓越しに冬の曙光すでに拡がる」という自作短歌を一首だけ挿入している。短歌としての出来不出来を云々することなど論外である。ただただそのままに受け取るしかない歌というものもある。

059:2004年7月 第1週 尾崎まゆみ
または、光と闇の合わせ鏡で世界を知的に構築する短歌

花びらを掬ふてのひら染み透る
      面影はまだ指のあひだに

           尾崎まゆみ『酸つぱい月』
 邑書林の「セレクション歌人」叢書は、歌壇に暗い私にまだ馴染みのない歌人と出会う絶好の企画である。叢書12巻目として刊行された尾崎まゆみ集は、作者の第一歌集『微熱海域』のごく一部と、第二歌集『酸つぱい月』完本から構成されている。

 この叢書は巻末に詳しい作者略歴が添えられているのも特徴である。それによれば、尾崎は1955年生まれ、子供時代から文学に親しみ、1985年頃から短歌を作り始める。1987年塚本邦雄の「玲瓏」に入会。1991年に「微熱海域」30首で第34回短歌研究新人賞を受賞している。

 掲載歌はイメージの美しい歌なのだが、韻律の面であまり尾崎らしい歌とは言えない。歌集を読み始めて、なかなか作者の短歌世界に没入できないでいらいらするのだが、それは作者独特の文体のせいなのだとやがて気づくことになる。その文体に少し慣れて、尾崎がどのような工程を経て短歌を組み立てているのかがほの見えるようになると、その世界を味わうことができるようになる。それまで少し時間がかかるのだ。

 尾崎の文体の一番の特徴が、定型を守りながらも句割れ・句跨りを多用した破調のリズムだということは、大方の認めるところである。試しに尾崎らしい韻律の短歌をいくつか見てみよう。

 背中のくぼみばかりの並ぶ踏切を須磨行きの電車過ぎ昼過ぎ

 雨のまなざしの驟雨に消えさうな曼珠沙華またそり返る蘂

 月がふくらむまでの時間を両方の瞼上下をあわせてしまふ

 ひそかに眺められて三日月横顔の眠りの波へ呼吸合はせて

 一首目は33音の字余りである。自信はないが、一応定型に近い音数に区切ってみると、次のようになるだろう。音節数を数えやすくするため、拗音は現代風に表記する。

せなかのくぼみ(7)|ばかりのならぶ(7)|ふみきりを(5)|すまいきのでん(7)|しゃすぎひるすぎ(7)

 初句・二句が14音で破調なのに加えて句跨りがある。四句・結句は14音だが、ここにも語割れが見られ、全体として破調感の強い韻律である。ついでながら、「電車過ぎ昼過ぎ」には「紫野ゆき標野ゆき」の亡霊が揺曳しているようにも感じられる。

 残りの歌も同じように区切ってみる。二首目は31音で音数は定型だが、初句・二句に句跨りがある。

あめのまな(5)|ざしのしゅううに(7)|きえさうな(5)|まんじゅしゃげまた(7)|そりかへるしべ(7)

 三首目は33音の字余りで、初句・二句はどう区切ってよいのかわからないほど一体化している。

つきがふくらむ(7)|までのじかんを(7)|りゃうほうの(5)|まぶたじゃうげを(7)|あはせてしまふ(7)

 四首目は32音で、これも初句・二句のひと連なり感が強い。

ひそかになが(6)|められてみかづき(8)|よこがほの(5)|ねむりのなみへ(7)|こきゅうあはせて(7)

 小池光は「リズム考」(『街角の事物たち』所収)で破調の韻律を詳しく分析し、減音破調は増音破調に比べてパリエーションが圧倒的に少なく、そのほとんどが禁制であると指摘している。その理由は、増音破調は増えた音の上を駆け抜けるようにして読むことで、短歌の定型感を決定的に破壊することなく処理できるという点にある。尾崎の破調も残らず増音破調となっているのは、小池の分析を傍証しているようだ。また破調が上二句に集中していることも注意すべきだろう。

 伝統的和歌の韻律を破壊しようとしたのは、いうまでもなく尾崎の師に当たる塚本邦雄である。塚本が戦後の前衛短歌運動の旗手として立ったときに、当面対抗しなくてはならない相手は、桑原武夫の「第二芸術論」と、小野十三郎の「奴隷の韻律」論であった。「オリーブ油の河のなかにマカロニを流したような」和歌の韻律を意識的に壊すために、前衛短歌が句割れ・句跨りを駆使したということはよく知られている。尾崎の破調は塚本の影響下に生まれたものだろうが、塚本の短歌と比べたとき、破調感が一層強いのはなぜだろう。それはたぶん塚本が徹底して文語・旧字・旧かな遣いを墨守しているところに生じるある秩序感覚に対して、尾崎がひらがなを多用し一部口語を混ぜているためではないだろうか。文語ベースの口語に漂う独特の屈折感、屈曲感、抵抗感が、尾崎の文体の特徴なのである。

 しかし塚本譲りとは思えない文体上の特徴も指摘しておかなくてはならない。それは次の歌に見られるような名詞の羅列である。穂村弘はこの手法を「よこはま・たそがれ」式と呼んでいる。言うまでもなく「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」で始まる五木ひろしの歌を踏まえてのネーミングである。

 傲慢不遜あざみひと株帰り道紙の袋の底にカサッと

 オートリヴァースくちびるの線紅葉が思ひあふれて散りしきるなり

 名詞連続のいちばんの特徴は、名詞と名詞のあいだの論理的関係が表示されず、読む人が想像力で補わなくてはならない点にある。「よこはま たそがれ ホテルの小部屋 くちづけ 残りは 煙草の煙」くらいならば、ありふれた歌謡曲的シチュエーションなので、理解するのに想像力はそれほど必要としない。しかし白状すると、私は「傲岸不遜」「あざみひと株」「帰り道」のあいだの関係や、「オートリヴァース」と「くちびるの線」の繋がりがわからない。「傲岸不遜にあざみひと株を持ち帰る」ということなのだろうか。カセットテープの「オートリヴァース」と「くちびるの線」にいったいどのような関係性があるのだろう。このように名詞を羅列する手法は、読者の理解をその場で停めてしまう危険性があることは留意すべきである。

 同じことは名詞連続ではないが、次のような文体にも言える。

 分解掃除された去年の蒼穹の空井戸深く眠るほほゑみ

 春風駘蕩午後あさく聴く青空を四方隈無く閉ぢるラベルと 

 これは「喩の畳みかけ」とでも呼べばいいのだろうか。「喩の速射砲」でもいい。読者は次々と繰り出されるイメージを着地させる場所を見つけることができず、ただ頭がくらくらしてしまうのである。

 尾崎が短歌の遺産を十分に踏まえて作歌していることは、次の例を見てもよくわかる。

 縄跳びを駆け抜けるため光・闇二面の鏡平行に置く

 これは塚本の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」へのオマージュに他ならない。師の提示した公案に対する尾崎なりの解答であろう。光と闇は尾崎の短歌の至る所に見られるモチーフである。また次の歌は、後京極良経の名歌「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」の本歌取りであろう。

 「ゆふすげびと」のページ開きて手に鳴らす明日秋風はここより立たむ

 次の歌は伊勢物語第123段を踏まえており、横尾昭男の「深草の鶉のたまご下敷きのおほいなる愛母の臀あり」と響き合う。

 粗食は人をやはらかくする深草の草と鶉の卵を食べて

 尾崎の作歌上のもうひとつの特徴として、擬音語・擬態語をよく使う点があげられる。折しも『歌壇』6月号が「短歌におけるオノマトペの可能性」という特集を組んでいて、教えられる所が多かった。また小池清治『日本語は悪魔の言語か?』(角川oneテーマ21)には、俳句に比べて短歌ではオノマトペを余り使わないという指摘もある。なかなかおもしろい問題なのだが、考察はまたの機会に譲ることにして、尾崎の歌からいくつか例をあげるに留める。

 春までを眠りつくした錠剤のヴィタミンCをさりさりと噛む

 機知よりも理知の夕焼けピッカリと甘いピアスの三日月の先

 手の会話水の耳鳴りゆふまぐれ秋の硝子がひりひりと鳴る

 郵便切手少しななめに美しくしらしら眠る百合の蕾と

 文体の問題を離れて、歌われた意味の世界に話を進めよう。巻末に藤原龍一郎の評論があるが、これは見事に藤原節になっていておもしろい。尾崎は神戸に住んでいて1995年の阪神淡路大震災を経験している。そのため破壊された神戸の町と死者への鎮魂の歌が多く、これらの歌群は心に沁みる。藤原は、震災詠を離れても尾崎の歌には濃密な虚無と喪失があるというのだが、いささか自分の世界に引き寄せすぎかとも感じるところだ。生と死と破壊はいつも変わらぬ短歌のテーマである。

 酢と塩にふみしだかれた夏の日の残照のピクルスの苦瓜

 揚羽蝶一頭二頭たはむれにあるいは生命(いのち)とほりすぎたり

 ひかり媚態と観念と死とやはらかくかたちを変へるみづの感傷

 破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける

 尾崎の描く短歌世界は、破調の抵抗感のある文体と、やや硬質な語彙の選択によって、知的に構築された短歌という印象が先行する。その印象はまちがいではなく、確かに知的に構築されてはいるのだが、私が魅力と感じるのは、その知的構築性が抽象的思念の世界から演繹的に発するのではなく、肉感的とも言える具体の地平から立ち上がっているという点である。例えば次のような歌がそうである。

 面影の玉葱を剥き二、三日前の世界を薄く刻めば

 たましひの重さの夢のワンピース睡りたゆたふ空におぼれて

 ゼムクリップにとどめるひかりとめどなく真夏あたしを溶かしつづけて

 空をただ溢れる雨がアスファルトを濡らす瞳の黒が抒情す

 今日が流れる酸つぱさ苦さ縦割りの檸檬を齧る役割の歯へ

 ふかき淵にも食卓はある親指の朱のマニキュアはひびに重ねて

 玉葱を薄く刻むという台所での日常的行為と、もはや面影しか残っていない別れた人、あるいは見知っていたはずの世界を対置させ、「世界を薄く刻む」という短歌的喩に合一させる、これが尾崎が好む手法である。「喩のカットバック」とでも呼ぶことができよう。「今日が流れる酸つぱさ苦さ」では、「今日が流れる」は日常の無為の流れを言うのだろうが、「酸つぱさ苦さ」はその日常を前にしての〈私〉の感慨であるともに、次の「檸檬」を導く序詞としても機能している。しかし歌の眼目がこうして導かれた檸檬にはなく、序詞に含まれた〈私〉の感慨にあることはいうまでもない。また三首目「ゼムクリップに」に見られる力強い一人称「あたし」もまた、尾崎の歌を肉感的に地上に繋ぎ止める役割を果たしている。

 第三歌集『真珠鎖骨』(短歌研究社)はまだ読んでいないのだが、尾崎の短歌世界がどのような深化を遂げたか楽しみである。今日にでも三月書房に買いに行こう。