第323回 松野志保『われらの狩りの掟』

ガラス器の無数の傷を輝かすわが亡きのちの二月のひかり

松野志保『われらの狩りの掟』 

 第一歌集『モイラの裔』(2002年)、第二歌集『Too Young To Die』(2007年)に続く著者の第三歌集である。第二歌集から実に14年の歳月が流れているので、久々の歌集ということになる。そっけない散文的なタイトルが多い昨今の流れに逆らうように、ロマンチシズムに溢れた題名である。「われら」とは誰なのか、何を「狩る」のか、想像が膨らむ。ヘミングウェイが前もって何通りもの小説の題名を用意していたのは有名な話だが、作品のタイトルは重要である。歌集のタイトル論を一度書きたいくらいだ。

 ある人がどんな場所に立っているかは、現在いる場所だけを観察していてはわからない。以前どこにいたのか、そして今後どこに向かおうとしているのかという変化を見ることで、今いる場所がわかる。人の本質は変化の中にこそ顕現するという側面があるからである。

 松野の短歌と言えばBLと打てば響くように答が返って来そうなくらいだが、本歌集を一読してBLの香りが薄れていることに驚いた。第一歌集では自分を「ぼく」と呼ぶ少女とやおいの世界との関係の緊張感が歌集を一貫して流れていて、第二歌集ではそれが「二人の少年」の紡ぐ物語へと変化していた。『われらの狩りの掟』ではそのどちらも影を潜めているのだ。もっとも歌誌『月光』の2021年12月号の特集で、松野はインタヴュアーの大和志保に、今回のBLの元ネタは「戦国BASARA」と「テニスの王子様」と「ゴールデンカムイ」だと明かしているので、私がその方面に鈍くて気づかないだけかもしれない。しかし松野は同時に「メイン食材ではなく隠し味程度に入っている」とも語っているので、やはりBLの香りは前作に比べれば少なくなっているのだろう。とはいえ次のような歌に依然としてそれを感じる人はいるかもしれない。

盲いても構わなかった蝶が羽化するまでを君と見届けたなら

プールのあと髪を乾くにまかせてはまだ誰のものでもないふたり

死もかくのごとき甘さと言いながら口うつされる白い偽薬プラセボ

 本歌集を読みながらあらためて私が感じたのは、「自分の世界」を持っている歌人とそうでない歌人がいるということだ。「自分の世界」と言うとすぐ頭に浮かぶのは、塚本邦雄、井辻朱美、紀野恵、松平修文、といった歌人たちである。初期の黒瀬珂瀾を加えてもいいかもしれない。その世界の立ち上げ方はそれぞれ異なる。塚本は古今東西の文学や映画についての博覧強記と日本の古典への造詣によって、他の追随を許さない美の世界を創り上げた。井辻はファンタジー文学を梃子としてどこにもない世界を描いているし、紀野も古典に立脚しながらフムフムランドという架空の国を作って君臨している。松平は絵画的な幻想に満ちたしかしどこか懐かしい世界を密やかに紡いだ。初期の黒瀬が立ち上げた世界はサブカルを梃子としている。大まかに言うと、このような歌人たちは近代短歌のメインストリームである「写実」と「リアリズム」に背を向けた人たちである。

 一方、近代短歌のメインストリームの上質な部分が実現しようとしているのは、写実を通しての現実の更新だろう。

円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

                  吉川宏志『青蝉』

石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨

             吉川宏志『鳥の見しもの』

立ち読みをしているあいだ自転車にほそく積もりぬ二月の雪は        

 いささか古い例を持ち出して恐縮だが、こういう業の冴えで吉川の右に出る人はいない。「円形の和紙」は金魚すくいで使うポイだがそうとは言わず、「赤きひれ」というメトニミーで金魚を表す技巧もさることながら、この歌のポイントは、金魚が水中では濡れているように見えず、水から出て初めて濡れて見えるという発見である。同じことは石段の深い所までは濡らさず過ぎたということで驟雨の短さを表した二首目にも、雪が自転車のパイプの上部だけに細く積もっているという三首目にも言える。普段から見ている光景をこのように表現されると、いきなり焦点のピタリと合った眼鏡に掛け替えたように、目の前の現実が今までとは違ってみえる。これが「現実の更新」効果である。

 一方、「自分の世界を持っている人」がなぜ現実とは異なる世界を立ち上げるのかというと、その主な理由は端的に言って「浪漫を追い求める」ことにある。時に「浪漫」は「美」と置き換えてもよい。私たちが日常暮らしている日々にほぼ浪漫の影はない。唯一の例外は激しい恋である。浪漫を追究するためには、埃臭い現実を離脱して別の世界に行かなくてはならない。だから自分の世界を言葉によって立ち上げることになる。

 前置きが長くなったが、松野はもちろん自分の世界を持っている歌人である。松野は本歌集のあとがきに、「私にとっての短歌とはずっと、失われたもの、決して手に入らないものへの思いを注ぎ込む器だった」と書いている。決して手に入らないものの代表格は絶対的な愛への希求である。それに手が届かなければ届かないほど、遠くにあればあるほどそれは激しく美しく輝く。松野がやおいやBLに傾倒するのは、やおいやBLが描く世界が、女性である松野にとって決して手の届かないものだからに他ならない。

日蝕を見上げたかたちで石となる騎士と従者と路傍の犬と

武器を持つ者すべからく紺青に爪を塗れとのお触れが届く

革命を遂げてそののち内裏には右近のからたち左近の柘榴

荒天に釘ひとつ打つ帰らざる死者の上着をかけておくため

アストンマーティン大破しておりその窓にかこち顔なる月をうつして

 松野が描く世界の特徴は、どこの国かいつの時代かがまったくわからないという点にある。たとえば一首目では騎士と従者が登場するがもちろん現代にそんな者はいない。二首目は戒厳令か武装蜂起を彷彿とさせる歌だが、これもどこの国かわからない。三首目に到っては内裏と右近・左近が出てくるので日本のことかと思うと、配されているのは桜と橘ではなくからたちと柘榴である。歌の中に散りばめられているアイテムは現実に対応するのではなく、かといって単なる心象風景を描くためのピースでもなく、思う存分浪漫を注ぎ込める世界を押し上げるために使われているのだ。その意味ではこのメソッドはRPG的想像力と姉妹関係にあると言えるかもしれない。

巻き戻すビデオグラムに抱擁は下から上へと降る花の中

さきの世のついの景色かゆらめいて水の下より見る花筏

 しかしどこの国のどの時代かわからないアイテムを積み重ねても、単純に異世界が現出するわけではない。そこには一定の工夫が必要である。その工夫のひとつは視点の転換である。たとえば一首目では、ビデオの録画を巻き戻すと、降り散る桜の花びらが下から上に向かって降っているように見えると詠われている。それはいわば時間を巻き戻しているのと同じことである。二首目ではふつう上から眺める花筏を水中から仰ぎ見るという視点の転換が衝撃的だ。作中主体が潜水しているわけではなく、おそらくエヴァレット・ミレ描くオフィーリアのように土左衛門になって流されているのである。

ウェルニッケに火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く

わだつみの岸にこの身を在らしめて針のごとくに降り注ぐ雪

この掌のつぶての無力ほろほろとアイスクリームの上のアラザン

 一首目は歌集の帯に印刷されている歌である。ウェルニッケ野とは大脳左半球にあり言語理解を司る部位のこと。そこに火を放つとは、この世に溢れている無意味な言葉を焼き尽くせということだろう。そうして焦土と化した原野にこそ新しい詩の言葉は生まれるという覚悟の表明である。とは言うものの作者は自らの言葉の無力さも自覚している。三首目にあるように、自分が投げつける言葉の礫は非力で、氷菓の上に散らされたアラザンのようなものだと慨嘆するのである。

 本歌集を読んで「おやっ」と思ったのは、第2部冒頭の「放蕩娘の帰還」である。

絶えるともさして惜しくもない家の門前に熟れ過ぎた柘榴が

ピンヒールのブーツで萩と玉砂利を踏みしめ帰る また去るために

井戸水にひたせば銀を帯びる梨捨てたいほどの思い出もなく

秋茄子がほどよく漬かるころ祖母の遺言状に話は及び

午後の日に背を向けて座す伯母たちの足袋はつか汚れつつあり

 どうやら作中の〈私〉は、祖母が亡くなり遺産の分配を相談する親族会議のために、長年足を向けることのなかった故郷の生家に戻って来ているらしい。ここには異世界を立ち上げるアイテムはなく、松野の短歌にはかつてないほど現実に接近している。詠まれている内容はもちろん虚構だとしても、山梨県の甲府で少女時代を過ごし、大学に進学してここを出て行きたいと切望していた過去の自分がどこか投影されていることはまちがいない。

 『月光』2021年12月号の特集を読んで、松野の卒論が森茉莉だったと知ってなるほどと得心した。また短歌を始めたきっかけが雑誌『MOE』で林あまりが選歌を担当していた短歌投稿コーナーだとも語られていた。『MOE』からは東直子も世に出ているし、穂村弘のデビューにも林あまりが深く関わっていたのだから、今の短歌シーンにとって林の果たした役割は加藤治郎と並んで大きかったのだとあらためて思った次第である。

第322回 鈴木晴香『心がめあて』

桜花コンクリートに溶けてゆくひとひらにひとひらのまぼろし

鈴木晴香『心がめあて』

 桜の花びらがコンクリートの土台か何かに散っているのだから、季節は晩春である。風が吹くと花びらはいっせいに散る。コンクリートに散った花びらは、やがて雨に打たれて色と形をなくす。歌の中の〈私〉は、色褪せて形をなくした花びらの一枚一枚に花の盛りの幻を見る。惜春の歌であると同時に、失われてゆくものたちを惜しむ歌である。下句の「ひとひらひと/ひらのまぼろし」が句跨がりになっていて、「ひとひら」の反復がリフレインのように散り続ける桜の音的メタファーになっている。散る桜を詠んだ歌は数多いが、その中でも印象に残る歌だ。

 鈴木晴香は1982年生まれ。穂村弘が選句をする雑誌「ダ・ヴインチ」の投稿をきっかけに作歌を始めたという。全3巻の『短歌ください』としてまとめられたこの投稿欄は多くの歌人を生み出した。第一歌集の『夜にあやまってくれ』は2016年に書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として上梓された。『心がめあて』は2021年に出た第二歌集である。鈴木は一時フランスに在住し、パリ短歌会でも活動していたようだ。現在は「塔」の編集委員、「西瓜」の同人で、京都大学芸術と科学リエゾンユニットのメンバーだという。リエゾンとはフランス語で「つながり、連結」という意味。

 さっそく何首かランダムに引いてみよう。

まだ君と出会わなかったいくつかの冬に張られていた規制線

思うよりずっと遠くにあるのかもしれない雨の流れ着く先

誰ひとり未来の記憶を持たないでラストオーダー訪れている

初夏も遅夏もずっと閉じているショコラトリーから始まる九区

ブランコに坐って君を待っている天動説が新しい夜

 一首目の「君」は現実の、あるいは仮想の恋人だろう。君と出会う前の私の住む世界には規制線が張られていたという。規制線とは警察が立ち入り禁止の区域を示すために張り巡らせる黄色のテープのこと。これは〈私〉の心を縛り動けなくするものの喩だろう。〈私〉は「君」と出会うことで規制線から自由になったのだ。この歌にも「冬に張られて/いた規制線」という句跨がりがある。二首目、降った雨は地下に染み込み、排水路を通って川に流れ、やがては海に注ぐ。その行程は思ったより遠いものかもしれないという歌。字面通りに読んでもよいし、歌全体が短歌的喩だと読んでもよい。三首目、未来は字のごとくに未だ来ざるものだから、誰もそんな記憶は持っていない、ファミレスの座席に坐って飲食をしている私たちは、一瞬先すら見えない時間というジェットコースターに乗り合わせている乗客のようなものだ。そして気がつけば閉店の時刻が迫り、ラストオーダーを頼まなくてはならない。四首目はパリの歌。9区とはパリの右岸でガルニエ設計の旧オペラ座がある地区である。ショコラトリーとはチョコレート屋のことで、夏の間は店を閉めているところが多い。パリは緯度で言うと樺太くらいなので、夏でも30度を超すことは滅多にないが、それでも気温が高いのと、主要な客である富裕層がヴァカンスでパリから居なくなるためである。季節感と風物がうまく取り入れられた歌となっている。五首目、人気のない夜の児童公園でブランコに乗って「君」を待っている。恋人を待つ心は躍り、自分がいるこの地球が宇宙の中心だと感じられる。恋は地動説すら否定するのである。

 「ダ・ヴインチ」の投稿欄やインターネットで短歌を始めた人たちの短歌には、いくつか共通する特徴がある。その一つ目は短歌を自分の心を盛る器と見なしている点だ。鈴木もその例外ではなく、自らの淋しい心、悲しい心、嬉しい心を歌にしている場合が多い。俵万智も『短歌をよむ』(岩波新書、1993)で、「短歌を詠むはじめの第一歩は、心の『揺れ』だと思う。どんな小さなことでもいい、何かしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種になって歌は生まれてくる」(p. 86)と書いているのだから、そう考えている人は多いだろう。ただし公平を期するために付け加えておくと、俵は心の揺れが種となると言っているだけで、そこから短歌が生まれるまでには長い距離がある。「あっ」をポエジーに昇華させるには技術が必要なのは言うまでもない。それがアート (art) というものだ。

 もうひとつの特徴は、近現代の短歌史から切れていることである。明治に始まる近代短歌やそれに続く現代短歌を読み、それを踏まえて自分の歌を作るということがほとんどない。近現代短歌運動は先行する世代の否定から始まる。「あんな歌はだめだ、私たちは新しい歌を作る」という運動が、モダニズム短歌や口語短歌や前衛短歌やニューウェーヴ短歌を生み出した。しかるに「ダ・ヴインチ」の投稿欄やインターネットで短歌を作る人たちには、先行世代の否定という考えはおそらくない。歌は個人消費されるに留まるのである。

 断っておくがそれが悪いことだと言っているわけではない。短歌観は多様であってよいし、人には人それぞれの短歌との接し方がある。だからそのようなものとして読むということに尽きる。

ハイウェイの入り口かもしれない道を黙って進むときのアクセル

思い出は増えるというより重なってどのドアもどの鍵でも開く

薄闇に向かって開いている扉うまれてきた日を覚えていない

雨の日のロストバゲッジほんとうのところ失われたのはわたし

 通読すると収録されている歌で最も多いのは、相手(君)に心が届かない、あるいは心がすれ違うという歌群で、その次に目に付くのは上に引いたように、自分が進むべき道を迷っているという歌群である。一首目ではさしかかった道が高速道路なのか自信が持てないのにアクセルを踏み込んでいる。二首目では誰かと過ごした日々がそれぞれ別の部屋のように記憶の中に保存されている。三首目では薄闇に向かって開いている扉がどこに続くドアなのかがわからない。それは誕生の記憶の欠落と対をなしているかのようだ。四首目は空港でスーツケースが行方不明になったのだが、実はロストなのは自分ではないかと顧みている。

奪うほどではない。冬の路上には麻酔の効いているような風

逆上がりもう永遠にしないだろう手のひらにまだ鉄の匂いが

小説を抱いたままで眠り込む白鳥を胸に乗せるかたちで

もうしばらく来ない世紀末のことを思うとき巡ってくる警備員

燃え尽きるまでが花火であるためにわたしたち青い夜の引き際

貯水池が雨を静かに受け入れるはじめからひとつだったみたいに

チョコレイト眠る冷蔵庫の中に贖罪のように白い牛乳

自転車は鉄パイプだと思うときその空洞に満ちてゆく海

記憶から滅んでゆくね指よりも多いアルファベットに触れて

 特に印象に残った歌を引いた。とりわけ八首目「自転車は」では幻想の中で自転車のパイプの中に満ちる海が美しい。九首目の「記憶から」は、アルファベットに象徴される文字を獲得したヒトという種の悲しみを詠んだ歌である。無文字社会の人たちは驚くほど記憶力がよいという。文字を得ると書き留めておけば忘れてもかまわないため、文字と引き替えに私たちは記憶力を失った。こういう主題を詠んだ歌は珍しいので注目される。

 最後に第一歌集『夜にあやまってくれ』から秀歌を一首引いておこう。

自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏

 

第321回 横山未来子『とく来たりませ』

夕風のいでたる庭を丈たかき百合揺れてをり花の重みに

横山未来子『とく来たりませ』

 次の歌集の出版が待ち遠しく、出たらすぐに読む歌人が何人かいる。横山未来子は私にとってはそんな歌人の一人だ。横山ほど短歌を読む喜びを感じさせてくれる歌人はそうはいない。第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(1998年)、第二歌集『水をひらく手』(2003年)、第三歌集『花の線描』(2007年)、第四歌集『金の雨』(2012年)、短歌日記の『午後の蝶』(2015年)、すべて読んだ。『とく来たりませ』は2021年に上梓された第五歌集である。歌集タイトルは、メシアの出現を待ち望む賛美歌から採られている。「とく」は「疾く」、つまり「早く」のこと。

 『樹下のひとりの眠りのために』について書いたコラムで私は「時間の重み」をキーワードのひとつとして挙げた。本歌集にもそれは依然として感じられるものの、一読して脳裏に浮かんだ言葉は「恩寵」である。本歌集には一首だけその言葉が使われた歌がある。

かなしみはかなしみのまま透明なる恩寵の降る木の間をゆけり

 恩寵とは神が人間に与える無償の愛であり、キリスト者である横山にとっては特別な意味を持つ言葉だろう。恩寵は天からあまねく降り注ぐものであるが、たとえば掲出歌を見てもそれが感じられる。掲出歌は一見すると単なる叙景歌である。「夕風」で時間がわかり、「庭」で場所が知れる。自宅の庭に咲く百合の花が夕方の風に揺れているという光景を詠った歌である。しかしそれは歌の表面的な意味にすぎない。叙景の裏側に隠れている意味は、「かく在ることの重み」であり、「かく在ることの有り難さ」である。ここで「有り難さ」というのは、存在することが難しく稀だという元の意味で使っている。〈私〉が今ここに居て、庭の百合の花が風に揺れているのを眺めていることが奇跡であり恩寵なのだ。

 思えばそれは近代短歌・現代短歌が手を変え品を変えて表現しようとしてきたものかも知れない。それは「一期一会」と呼ばれることもあり、穂村弘はそれを「生の一回性の原理」と呼んだ(『短歌の友人』所収の「モードの多様化について」)。それは誰も人生は一度しか生きられないという当たり前のことではなく、たとえ尾羽うち枯らして落魄していようが病の床に伏せっていようが、〈私〉が今ここに在るという瞬間の輝きは失せることがないというほどの意味である。掲出歌に限らず横山のどの歌からも濃厚に感じられるのは、この意味での「生の一回性」であり、今かく在ることの有り難さである。

水に触るるごとくにかをりにふれて見る薄日のなかの梔子の白

柘榴六つすべて色づきたるを見ぬ今年の秋にわれは立ち会ひ

去年の実の黒きをあまた垂らしをりあたらしき香の花のあはひに

三輪草群れゐるあたりゆるやかにみひらくごとく届く陽のあり

八月の夕ぐれの風ひろがりて蜘蛛の巣とほそき蜘蛛をあふりぬ

 本歌集に収録された歌のほぼすべてが叙景歌なのだが、上に述べたようなことが的を射ているのならば、横山の歌は何を描いていようとも「今かく在ることの有り難さ」という根源的な主題の変奏曲だとも見なすことができよう。『現代短歌100人20首』(邑書林、2001年)に短歌が収録された折に、編集委員の求めに応じて答えた「作歌の信条」に、「言葉の持つ力を活かしながら、生を基盤とした歌を作っていきたい」と横山は書いているので、あながち的外れとも思えないのである。

 とはいうものの根源的な主題を歌に変えるにはそれなりの技法と手腕が必要である。たとえば一首目、梔子の強い香りが漂って来る。それを「水に触るるごとくにかをりにふれて」と表現していてうっとりする。二首目は庭にある柘榴の木になった実がすべて紅く熟したという歌で、ポイントは「今年の秋」にある。三首目は今年咲いた花の間に去年実った実が残っているという歌で、ここにも流れる時間意識が表れている。四首目も美しい歌で、三輪草の群れるあたりに照る日光はそのまま恩寵である。

 本歌集を通読して改めて感じたのは、微細なことに気づく横山の感覚の鋭敏さである。それはたとえば次のような歌に感じられる。

卓を垂るる檸檬の皮のゑがかれて螺旋の内にひかり保たる

かすかなる音を聞きたり紙にあたり折りかへさるる穂先の跡に

テーブルの日差しは本をのぼりきて紙にありたる肌理をうかべぬ

ひとの靴のありにしあたりまはりたる風のかたちに枯葉のこりぬ

 一首目はおそらく展覧会で見たフランドル派の写実的な静物画だろう。銀色のナイフで剥かれたレモンの皮が螺旋形に垂れているのだが、その皮の内側に光が宿っているところに注目している。二首目は書の展覧会を見た折の歌で、筆の穂先が紙に当たるかすかな音がまるで聞こえるようだと詠っている。三首目は午後の陽が傾いてテーブルに開いた本にまで届くと、紙の表面の微細な凹凸が影を得て顕わになるという歌。四首目は庭先に訪問客の靴が脱いでおかれていたのだろう。もう客は帰ったので靴はないが、靴のあったあたりだけ枯葉が落ちていないという歌である。何かがあることに気づく歌は多いが、この歌のように何かがないことに気づくのは存外難しいことだ。これらの歌の描写の微細さは、「昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつあり」と詠った幻視の女王葛原妙子を思わせるものがある。

 もうひとつ留意すきべきなのは、多くの叙景歌において歌中の視点主体の位置が明確だという点である。

肩で傘ささへてあゆむをさな子の後ろをゆけば傘の柄見ゆ

ゆふぐれは窓よりにじみゆふぐれを歩みてをらむ人をおもはす

座席よりあふぎてゐたり組みあはむとする両の手のごとき並木を

父親のせなに眠れるをさなごの靴の片方脱げゐるが見ゆ

褐色に朽ちたる花もかかげつつ幹ふとき木はわれを仰がしむ

 一首目、前を歩いている子供には傘が重すぎるので肩で支えている。すると傘が後ろに傾ぐので、傘の布面に描かれた図柄がよく見えるという歌。子供の後ろを歩く〈私〉の位置が明確である。二首目は室内にいて窓の外を眺めている歌。「ゆふぐれ」がルフランのように反復されて効果的だ。三首目では「座席よりあふぎて」によって、〈私〉が自動車の座席に坐っており、窓かルーフウィンドウを通して外を眺めていることがはっきりわかる。四首目では父親の背に負われて眠っている幼児を背後から見ているのである。五首目では結句の「われを仰がしむ」によって〈私〉が大樹の根方にいることがわかる。近年、視点主体の位置取りがわからない歌が増えたように感じるが、横山の歌ではたいてい視点主体の位置がはっきりとわかる。

 思えば明治期の短歌革新運動で、短歌が「自我の詩」と規定されたことにより、歌の中に〈私〉が入り込んだ。それと平行的に歌の主体の不動の視点が制度化されていく。このような経緯を考えると、横山の短歌は近代短歌が制度化した技法をいまだ忠実に守っている例と捉えられるかもしれない。そのためもあってか、横山が1996年に「啓かるる夏」で短歌研究新人賞を受賞したとき、選考委員の塚本邦雄に「隔靴掻痒の感がある」と評され、他の選考委員からも「新しさがない」と言われたという。新人賞では従来の短歌にはない新しさが求められることが多いので、近代短歌の王道を行くような横山の歌は新人にしてはおとなしすぎると感じられたのかもしれない。しかしながら、「新しさ」が本当に必要な美質なのかは一考の余地があろう。

 いつものように特に心に残った歌を挙げておく。

枯芝にまじるひらたき雑草に影ありてわが影につながる

アルミ箔破らむときに手にひびくあかるさとして星は死にたり

外光のふかく入る頃わがまへに置かれたる白きカフェオレボウル

滅びむとする夏としてことごとく雨に項垂るるしろき百合あり

丈ひくき草に入りたるしじみ蝶薄暮のいろの翅を閉ざしぬ

口あけたる無花果の蟻の這ふ日ぐれほろびへ向かふもののこゑせり

花のひかり落つる水面をすすみゆく水鳥に花の冷えは移らむ

木の下の落ち葉は雨にぬれずあり濡るるものよりしろき色にて

 最後の「木の下の」の歌などは、巧者吉川宏志を彷彿とさせるような発見の歌である。四首目「丈ひくき」の「薄暮のいろ」もなかなかに美しい。私が最も「恩寵」を感じ、本歌集を代表するような歌と思ったのは次の歌である。

充ちながらそこにあるべき木木のもとへ運ばむとせりけふのいのちを

 「そこにあるべき」と詠われているのだから、「そこにあるにちがいない」あるいは「そこになくてはならない」木は、今はまだそこにないのである。それは今ここに在ることに充ちている木であり、その木は自らのあるべき姿の喩として屹立している。〈私〉はそんな幻視の木に向かって今日も命を運ぶのである。


 

第320回 堀田季何『人類の午後』

義眼にしか映らぬ兵士花めぐり

堀田季何『人類の午後』

 邑書林から昨年 (2021年) の8月に刊行された堀田の句集『人類の午後』が俳句の世界で評判になっているという。同時に『星貌』という句集も刊行されているが、『星貌』は第三詩歌集、『人類の午後』は第四詩歌集と銘打たれている。『星貌』には付録として「亞刺比亞」という句集が収録されている。著者の解題によると「亞刺比亞」は、日本語・英語・アラビア語の対訳句集としてアラブ首長国連邦の出版社から2016年に刊行した第二詩歌集であり、『星貌』に収録されているのはその日本語の原句だという。すると本コラムでも取り上げた歌集『惑亂』(2015年) は第一詩歌集ということになる。

 『惑亂』のプロフィールでは堀田は春日井建最後の弟子で、中部「短歌」同人となっていたが、『人類の午後』のプロフィールでは「吟遊」「澤」の同人を経て、現在は「樂園」を主宰しており、現代俳句協会幹事という肩書まで持っているという。いつの間にか句誌を主宰していて、どうやら現在は短歌ではなく俳句を中心に活動しているらしい。おまけに「樂園」は有季・無季・自由律何でもありで、日本語の他に英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語などでも投句可能だという。幼少より外国で暮らし、他言語話者である堀田ならではの自由さだ。

 句集題名の『人類の午後』からは、ブライアン・オールディスのSF小説『地球の長い午後』(1962) が連想される。舞台は太陽が終末期を迎え、自転が停止した未来の地球である。太陽を向いた半球は熱帯、その裏側は極寒となり、人類の子孫たちは巨大化した植物や昆虫に怯えながら暮らしているという黙示録的な設定である。堀田の句集もまた、決して明るいとは言えない人類の未来を幻視しようとしているかのように思われる。

 跋文で堀田は次のように書いている。「句集全體は、古の時より永久に變はらぬ人間の様々なさが及び現代を生きる人間の懊悩と安全保障といふ不易流行が軸になつてゐる。」古代より変わらない人間の性とは「愚かさ」であろう。また次のようにも書いている。「時間も空間も越えて、人類の關はる一切の事象は、實として、今此處にゐる個の人間に接續する。」つまりずっと昔の事件も、遠く離れた異国で起きた出来事も、廻り廻って今ここにいる〈私〉と地続きだという認識である。

 堀田が跋に書いたことは、句にどのように表現されているだろうか。句集を一読してまず目に止まるのは次のような句である。

水晶の夜映寫機は砕けたか

息白く唄ふガス室までの距離

片陰にゐて處刑䑓より見らる

ヒトラーの髭整へし水の秋

花降るや死の灰ほどのしづけさに

 一首目の水晶の夜は1938年の11月にドイツで起きた反ユダヤ暴動で、割られ散乱した窓ガラスの輝きからこの名が付けられたという。二首目もナチスによるユダヤ人処刑の場面で、季語は「息白く」。三首目も処刑の場面で季語は「片陰」。四首目はかのヒトラーも理容院で髭を整えただろうという句。ヒトラーの髭をあたった理容師もいたはずだ。五首目は原爆あるいは水爆の死の灰を花に喩えた句。ムルロワ環礁での水爆実験と取ってもよいが、かの地には桜はないだろうから、そうすると幻視の句になる。

 堀田の言う、人間に関わる一切の事象は時空を超えて今ここに接続するというのはこういうことである。これは単に歴史的事件に素材を得たり、世界史的な時事問題を句に詠み込むということとはちがう。水晶の夜やガス室や死の灰という過去の出来事と、今ここにいて呼吸している私たちとは直に繋がっているのであり、私たちは過去の出来事に不断に思いを致さねばならぬということである。

 次のような句には、大きな出来事がより間近に迫っているような緊迫感が感じられる。

 

戦争と戦争の閒の朧かな

ミサイル來る夕燒なれば美しき

ひややかに砲塔囘るわれに向く

基地抜けてやまとの蝶となりにけり

法案可決蝿追つてゐるあひだ

 

 一首目、人類の歴史は戦争の歴史であり、平和に見える現在は先の戦争と次の戦争の間に挟まれた一時に過ぎないという句。二首目、北のかの地より飛来するミサイルとも、未来の戦争と取ってもよい。三首目、自分の方向に向けられる戦車の砲塔は、迫り来る戦争の喩である。四首目、米軍基地の中を飛んでいるときはアメリカの蝶だが、基地を抜けると日本の蝶になるという句。五首目を読んで、安部内閣が国会を通過させた安保関連法案を思い浮かべる人は多かろう。

 人類を襲うのは戦争の脅威ばかりではない。自然災害もまた人類の午後の予兆でもある。

 

地震なゐ過ぎて滾滾と湧く櫻かな

花疲れするほどもなし瓦礫道

や死者のぬかからうしほの香

草摘むや線量計を見せ合つて

 

 一首目や二首目はどこの場所の光景でもよいのだが、どうしても東日本大震災が日本を襲った春に咲いた桜を思い浮かべてしまう。三首目も津波で流された人の額であろう。四首目は大震災に続いて起きた原子力発電所の苛酷事故によって大量に飛散した放射性物質を詠んだ句である。私たちはかの春にベクレルやシーベルトという聞き慣れない単位を覚えてしまった。

 このような時事問題を詠んだ句が読者にとって押しつけがましくないのは、堀田が主義主張を声高に詠むのではなく、出来事をいったん受け止めて、それを心の中で沈潜させて得た上澄みを、「花疲れ」や「草摘む」などの伝統的な有季俳句の季語の世界にまぶして提示しているからである。栞文を寄せた高野ムツオは、「言葉に蓄えられた伝統的情趣をことごく裏切り拒絶し」、「これまで誰も見たことがなかった季語世界が出現する」と評している。

 もちろん本句集に収められているのはこのような句ばかりではなく、伝統に根差した有季定型の自然詠もあるが、そこにもおのずから独自の世界がある。

 

花待つや眉間に力こめすぎず

花篝けぶれば海の鳴るごとし

一頭の象一頭の蝶を突く

戀貓の首皮下チップ常時稼働

檸檬置く監視カメラの正面に

 

 三首目は機知の歌だ。私は大学で言語学概論を講じる時、「フランス語やドイツ語にある男性名詞と女性名詞の区別を皆さんは不思議だと思っているかもしれませんが、日本語にも同じような名詞クラスはあるのですよ」と言って、物を数える時に用いる助数詞の話をすることにしている。鉛筆は一本、箸は一膳、靴や靴下は一足、箪笥は一棹、烏賊や蟹は一杯で、大きな動物と蝶は一頭と数える。大きな象と小さな象が同じ数え方をすることで並ぶ面白さである。四首目の猫の首に埋め込まれたICチップは近未来的で、五首目の町中到る所にある監視カメラは現代的光景である。

 特に印象に残った句を挙げておく。

 

小米これは生まれぬ子の匂ひ

月にあり吾にもあるや蒼き翳

匙の背に割り錠劑や月時雨

エレベーター昇る眞中に蝶浮ける

うち揚げられしいをへと夏蝶とめどなし

落ちてよりかヾやきそむる椿かな

うすらひのうら魚形うをなりこううごく

蟻よりもかるく一匹づつに影

薔薇は指すまがふかたなき天心を

人閒を乗り繼いでゆく神の旅

 

 ビルの中を上昇するエレベータに一頭の蝶が浮いているという四句目の浮遊感が美しい。また七句目は、冬の寒い日に池に氷が張り、その氷を通して泳ぐ緋鯉の紅が透けて見えるというこれまた美しい句である。私がその宇宙的なスケールの大きさに感心したのは最後の句だ。進化生物学の一部には、私たち人間を含めて生物は遺伝子の乗り物であるという考え方がある。これは個体の生と死よりも、種の存続と繁栄に重点を置く考え方だ。親から遺伝子を受け継ぎ、それを子へと伝えることによって種は存続する。川の浅瀬に飛び飛びに配置された石を飛んで渡る子供の遊びがある。これと同じように、私たちは遺伝子を後世に伝えるための置き石にすぎないというのである。置き石を飛んで渡るのは句では神と表現されているが、これはもちろんキリスト教のような人格神ではない。この世界を統べる自然科学的な原理である。

 『惑亂』の評の最後に私は「堀田の句集が読みたいものだ」と書いた。その願いは満たされたのだが、今度は堀田の次の歌集が読みたいものだ。瞑目して待つことにしよう。


 

第319回 木下侑介『君が走っていったんだろう』

目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った

木下侑介『君が走っていったんだろう』

 『短歌という爆弾』が小学館文庫になったとき、巻末の特別インタビューで穂村はこの歌を取り上げて、「1000年も残るような歌」と評したと本歌集の解説で千葉は明かしている。和歌・短歌の歴史はおよそ千年くらいなので、今から千年後にも短歌が残っているかはわからないが、誇張法による最大級の褒め言葉である。なぜ穂村がこの歌を引いたかというと、木下は雑誌『ダ・ヴィンチ』に穂村が連載していた「短歌ください」の常連投稿者だったからだ。当時木下は木下ルミナ侑介というペンネームで投稿していた。「短歌ください」は雑誌の読者からの投稿欄ということになっていたが、実際は、やすたけまり、辻井竜一、虫武一俊、冬野きりん、九螺ささらなど、その後続々と歌集を出す手練れが投稿していて、さながら穂村選歌欄の観を呈していた。投稿された短歌を集めて出版された『短歌くだいさい その二』(2014年、株式会社KADOKAWA)を読んでいちばんたくさん付箋が付いたのが木下だった。その木下が2021年に上梓した第一歌集が本歌集である。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻で、編集と解説は千葉聡が担当している。解説によると木下は千葉の歌会にも出ていたようだ。

 千葉は1985年生まれで、『短歌という爆弾』を読んで作歌を始め、「短歌ください」や東直子が東京新聞に持っている「短歌の時間」などに投稿するようになる。まさに穂村&東チルドレンと言えるだろう。したがって、木下が追究するのも「愛の希求の絶対性」であり、その歌には「キラキラした言葉」が織りこめられている。掲出歌も例外ではなく、穂村の言うように特別な言葉は使っていないものの、「夏」「光」「出会った」がその空気感を十分に伝えている。ポスト穂村世代に当たり、わざとキラキラ感を払拭しようとしている永井祐らとはいささか異なる歌となっている。しかし考えてみれば、明治の短歌・俳句の革新以後、短詩型文学は青春と相性がよい。石川啄木や寺山修司や岸上大作らの短歌・俳句は、青春性と切っても切れない関係がある。マラソン・ランナーであり、ブルーハーツ、ハイロウズの音楽をこよなく愛するという木下の作る短歌はバリバリの青春短歌なのである。

水筒を覗き込んでる 黒くってキラキラ光る真夏の命

いっせいに飛び立った鳥 あの夏の君が走っていったんだろう

あの夏と僕と貴方は並んでた一直線に永遠みたいに

カッキーンって野球部の音 カッキーンは真っ直ぐ伸びる真夏の背骨

青空は青しかないね 感情のどれもが答えじゃない夏の日も

 巻頭から引いた歌の季節はいつも真夏である。一首目の水筒は遠足や運動部のクラブ活動と縁が深い。水筒の内部は断熱のために、昔はガラス、今はステンレスの反射材が使われているので、内部が暗くともキラキラ光る。それは青春の光そのものである。二首目は歌集タイトルが採られた歌。いっせいに飛び立つ鳥は旅立ちとも終焉とも取れる。しかし「あの夏」という言葉はもう遠くなって手の届かない季節を指すので、もう彼女はいないのだろう。三首目も同じ「あの夏」の記憶で、映像はすでにややセピア色だ。四首目の「カッキーン」は硬式野球の金属バットの音である。「真夏の背骨」という表現がいい。五首目は青春の逡巡を詠んだ歌である。

目を閉じる度に光が死ぬことや目を開ける度闇が死ぬこと

順番に蝶が死んでく夜の部屋まるで誰かの子宮のようだ

押し花も死の一つだと瞬きが呟く、春の、夏の、季節の

海だけが描かれた切手 僕たちが佇んでいた性善説

生まれたら、もう僕だった。水切りに向かない石の重さを思う

 青春時代はキラキラと明るいばかりではない。光ある所に影が生まれる。思春期に誰もが取り憑かれる思いは、「なぜ僕は僕なんだろう」や、その変奏の「なぜ僕は、運動があんなに得意な / 勉強があんなにできる / 女の子にあんなにもてる 彼に生まれなかったのだろう」が代表的なものだろう。それに加えて思春期には死が思いの他身近にある。上に引いた歌はいずれもそのような青春の影を詠んだものである。一首目は光と闇の対比を生と死になぞらえた歌。「眠りは短い死である」と言った人がいた。二首目の蝶が死んでゆく部屋をまるで子宮と表現しているので、そこからまた新たに生が始まるという予感があるのかもしれない。三首目、押し花もまた一つの死であるとの認識を詠んだ歌。四首目の海だけが描かれて、そこに遊ぶ人がいない切手は喪失感の象徴だろう。無邪気に性善説を信じていた若者は、誰かに裏切られたのかもしれない。五首目は若者の誰もが抱く不全感を詠んだ歌である。これらの歌もまたまぎれもない青春歌と言えるだろう。

 集中にはこれとはやや肌合いの異なる歌も収録されている。

額縁にきれいに入れた点点を絵として飾っている美術館

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いたという短歌はちょうど42文字

たくさんの遺影で出来ている青い青い青い空を見上げる

描きかけの絵本の中の目をしてる動物園で生まれたライオン

 奇想というほどではないものの、現実を少し違った目で見た歌である。一首目の絵はリキテンシュタインだろうか、それとも抽象画だろうか、ふつうの人の目にはただの点点としか見えないものも、立派な額装をして美術館に展示すれば芸術となる。二首目、調べてみると確かにポルヘスのEl oro de las tigresという詩集に6首の短歌らしきものがあるようだ。三首目、青い空が遺影でできているというのは何かからの連想か。四首目、動物園で生まれてサバンナの自然を知らないライオンは、まるで描きかけの絵本のようだというのはとてもおもしろい発想だ。まだ描かれていないのは野性だろう。

 また次のような歌はさらに発想がおもしろく注目される。

はっとして荘周であったという時にはっとしていた荘周の顔

僕達は腹話術師の人形が夢で見ている真冬の星座

トンネルを抜ければ僕がだんだんと遠ざかっていくトンネルがある

手にはもう記憶は重いからふれば花びら 僕らは僕らの花器で

 一首目の荘周とは「胡蝶の夢」の荘子のこと。夢から覚めて自分が蝶ではなく荘周だったと気づいた時に、荘周がはっとした顔をしていたということなので、当たり前と言えばそうなのだが、不思議な循環性が感じられる形而上学的な歌である。二首目はずばり、この世はどこかで誰かが見ている夢に過ぎないという歌。三首目も不思議な歌だ。ふつうはトンネルを抜けると、トンネルがだんだん遠ざかるものだ。それを僕が遠ざかると表現すると、まるでトンネルと僕とが主客逆転して入れ替わったかのようである。四首目も不思議な魅力のある歌だ。手が花びらで身体が花器そのものということだろうか。これも何やら自分と外側とが入れ替わったような感覚が感じられる。子供の頃は自我と周囲の現実とを隔てる垣根が低いので、自分と他者との交通は大人よりも盛んである。しかし上に引いた短歌はそれとも違い、形而上学性が感じられる。本歌集のベースラインは青春歌なのだが、その中に混じる上のような歌に注目した。こういう歌に木下の個性が表れているように思う。

夏の朝 体育館のキュッキュッが小さな鳥になるまで君と

まなざしはいつも静かでまばたきは水平線への拍手のようで

お互いの傘を傾け行くときにこぼれた 雨に降る雨の音

比喩というとてもしずかに飛ぶ鳥をうつして僕ら、みずうみでした

でも、夜は拡げるだろう 塗る前の塗り絵のように僕らの街を

傘をさすようにだれかを思っても雨にはいつも問いしかなくて

 とりわけ上質なポエジーが感じられる歌を引いた。一首目の体育館の床がズックの底でキュッと鳴る音を羽ばたく鳥になぞらえたり、二首目のまなざしを拍手と捉えたりするのは清新な詩情である。遙か昔のことだが、「つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり」という小池光の歌を読んだときには思わず息を呑んだが、三首目の「雨に降る雨の音」の同語反復的表現もなかなか美しい。五首目の「塗る前の塗り絵」は、日が暮れて色を失った街の喩として的確だ。キラキラした青春性だけに目を奪われていると、このようなポエジーを立ち上げる措辞や喩を見落としてしまうが、木下の本領はこのような点に発揮されているように感じられる。

 

第318回 宇都宮敦『ピクニック』

水たまりに光はたまり信号の点滅の青それからの赤

宇都宮敦『ピクニック』

 宇都宮は2005年に『短歌ヴァーサス』10号誌上で発表された第4回歌葉新人賞で次席となって短歌シーンに登場した。新人賞を受賞したのは「数えてゆけば会えます」の笹井宏之である。笹井は選考委員の加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘の3人全員に候補作として選ばれた。笹井の候補作は、「ポエジーということでは際立った」(加藤)、「読んで鳥肌のたつような感覚が何度も起きました」(荻原)と評された。一方、宇都宮を推したのは穂村一人で、穂村は「言葉を使うことで、それ自身によって蓋をされて殺されてしまう『現場の生命感覚』を、一首のなかでうまく蘇生させている」、「言葉を『言葉以上のもの』として立ち上げるための工夫がこらされている」と宇都宮を高く評価した。

車窓から乗りだし顔のながい犬がみてるガスタンクはうすみどり

目をふせてあらゆる比喩を拒絶して電車を待ってる君をみかけた

イヤフォンではやりの歌を聴きながらあかるく雪ふるここで待ってる

             「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」

 『ねむらない樹』別冊の『現代短歌のニューウェーヴとは何か?』(2020年)に、永井祐が「第4回歌葉新人賞のこと」という文章を寄稿している。その中で笹井と宇都宮の激突は「一種のスタイルウォーズ」つまり文体の戦いであったと述べている。「遠いところを目指す笹井の歌に対して近いところの見方を変える宇都宮」、「表現の飛躍が魅力の笹井に対して、(…)葛藤や空気感を伝える宇都宮」と永井は書き、「当時、キラキラした言葉が飽和気味で行き詰まりかけていたネット / 口語短歌の中に新しい原理と方法を持ち込むものとして、宇都宮の歌はわたしに見えていた」と続けている。永井の言うキラキラした口語短歌とは、例えば次のような歌を指すのだろう。

ゼラチンの菓子をすくえばいま満ちる雨の匂いに包まれてひとり

                   穂村弘『シンジケート』

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

ほんたうのことはひかりにとけてゆく街角でふとみつめる左手

                 山崎郁子『麒麟の休日』

春雨は天使のためいきうすくうすくまぶたのうへにふりかかりくる

 宇都宮が2018年にようやく上梓した第一歌集が『ピクニック』(現代短歌社)である。まず歌集の見た目が衝撃的だ。版型は「少年ジャンプ」と同じ大きさで厚さは2cmあり、表紙はビビッドイエローである。どうみても電話帳にしか見えない。短歌は左ページにのみ印刷されていて、右ページは薄いペパーミントグリーンの四角形がほぼページ一杯にある。おまけに短歌は16ポイントで印刷されていて、まるで老眼の高齢者か弱視者用の大活字書籍のようだ。疑いなく最もインパクトの強い装幀の歌集である。現代短歌社もよくこんな本を出したものだ。机の上で開いて読もうとすると、開いた右側が反発で閉じようとする力が強いので、国語辞典を重石にして読む始末なのだ。

 穂村の評にあった「言葉を『言葉以上のもの』として立ち上げるための工夫」はどのような点に見られるのだろうか。宇都宮の短歌は完全な口語である。「かな」も「はも」も「けり」もない。しかし短歌は抒情詩なので、口語を用いてポエジーを立ち上げるには修辞が必要になる。宇都宮の文体の特徴のひとつは「喩を用いない」ということだろう。たとえば「東西にのびて憩へるいもうとの四肢マシュマロのごとく匂へり」(辰巳泰子『紅い花』)という歌では「マシュマロのごとく」という直喩が使われている。喩によって読者の脳内に白くてふわふわしたマシュマロを喚起することで、妹のむきだしの手足とマシュマロが二重映しとなり、手足の白さや若さや甘やかさが醸し出されるという仕掛けである。このように喩は短歌の修辞の大きな武器なのだが、宇都宮はその武器を意図的に放棄しているようだ。

長ぐつをはいた女の子が誰にするでもなくバレリーナのおじぎ

小綺麗な路地で迷った僕たちは走りぬけてく花嫁を見た

昼すぎの木立のなかで着ぶくれの君と僕とはなんども出会う

 例えばランダムに引いた歌のどこにも喩は見られない。一首目は雨上がりなのか、長靴を履いた小さな女の子が、道端かプラットホームで、バレリーナがするような足を折るおじきをしているという光景がそのまま描かれている。二首目では、路地で道に迷った〈私〉と彼女の目に、ウェディングドレス姿の花嫁が走り抜けるのが見えたという、往年の人気TVドラマ『ロング・バケーション』のワンシーンのような光景が詠まれている。走り抜ける花嫁が何かの喩ということはない。三首目では、冬枯れで葉を落とした木が立ち並ぶ公園か並木道で、〈私〉と彼女が木の陰に隠れてはまた姿を現すという遊びに興じている。

 では宇都宮は何を武器としてポエジーを立ち上げているのだろうか。一つ目はトリミングのような巧みな場面の切り取り方である。一首目のおじぎをする少女、二首目の走り抜ける花嫁、三首目の他愛ない遊びに興じる恋人たちという場面の切り取り方は、とても鮮明な像を読者の脳内に描き出す。日常の何気ない場面を鮮明に切り取ることによって、見慣れたはずの世界の見え方が少し変わる。二つ目は巧みに挟み込まれた語句である。一首目の「誰にするでもなく」や三首目の「なんども」が効果的に置かれている。「誰にするでもなく」によって、お辞儀をするという行為の無償性・無目的性が強調され、「なんども」によって恋人たちのずっと続く幸福感が高められている。永井も上に引いた文章で、宇都宮が歌に挟み込む「とりあえず」や「ふつうの」という語句が空気感を出していると指摘している。三つ目はたとえば次のような歌に見られる統辞の組み替えである。

やがて雨あしは強まり うつくしさ 遠くけぶったガードレールの

 散文ならば「やがて雨あしは強まり、遠くけぶったガードレールのうつくしさ(が心に届く)とでもなるところだが、統辞を攪乱することによって「うつくしさ」が行き場を失って宙ぶらりんになる。それによって、意味の伝達という実用に奉仕する日常言語の機能がスイッチオフされて、穂村の言う「言葉以上のもの」が立ち上がる。これは音数合わせや結句の単調さを回避するために使われる倒置法ではなく、もっと自覚的な統辞の組み替えである。

 永井がもうひとつ指摘する宇都宮の文体の特徴は一字空けだ。

対面の牌が横を向く スイングバイ軌道を外れる探査衛星

屋上でうどんをすする どんぶりを光のなかにわざと忘れる

水鳥を川にみた朝だったのに のに海鳥のでかさにびびる

 一首目は珍しく上二句と残りが喩的関係にあり、一字空けはその関係を強調しているのだろう。麻雀をしていて、対面の打ち手の牌が横を向くのが、まるで軌道を外れる衛星のようだという関係にある。麻雀の卓という小さな世界と探査衛星という大きな世界の対比が眼目となる。二首目の一字空けはこれとは少し異なる役割を果たしている。百貨店の屋上にあるフードコートで、テーブルに坐ってうどんを食べるという行動の客観的描写と、三句目以下の〈私〉の行為の説明という位相の異なる言葉を一字空けが分けている。三首目はまたこれとも違っていて、「のに」の反復で連接された川での出来事と海での出来事の場面転換が一字空けでなされている。

 本歌集を通読して感じるのは、宇都宮の描く彼女がとても魅力的に描かれていることである。

とうとつに君はバレリーナの友達がいないのをとても残念がった

左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる

携帯電話に撮りためているパイロンの写真を厳選のうえ見せてくれた

コンビニへ いつものようにざっくりと君は髪ごとマフラーを巻く

君の寝まきジャージとおめかしジャージのとの違いがわからないまま夏に

 三首目のパイロンとは、工事現場などで使われてい円錐形のコーンのこと。彼女は街で見かけたパイロンの写真をスマホで撮り溜めているのである。これだけでも好きになりそうだ。宇都宮の作るこういう歌は、軽くて適度な湿度と透明感と幸福感があり、深刻になりがちな世界を少しだけライトなものに変えてくれるようだ。

 『ピクニック』の3分の2は「ウィークエンズ」と題された一つの章となっているが、残りは「ウィークエンズ拾遺」となっていて、その中に「東京がどんな街かいつかだれかに訊かれることがあったら、夏になると毎週末かならずどこかの水辺で花火大会のある街だと答えよう」という恐ろしく長いタイトルの連作がある。実はこの連作は枡野浩一の『ショートソング』という小説の中で引用短歌として使われているものである。どのような経緯でそうなったのかは詳らかにしないが、枡野のかんたん短歌と宇都宮の短歌は、地続きとは言えないまでも相性は悪くない。だから枡野も宇都宮の短歌を作中の引用歌として選んだのだろう。

 本歌集には好きな歌がたくさんあり、付箋がいっぱい付いたため選ぶのに苦労するほどだ。下に引くのは厳選した歌である。

腰のところで君は手をふる ちいさく さよならをするのとおんなじように

水面でくだける光がかなしくて世界はもはや若すぎるのだ

全自動卓が自動で牌を積む ダンスフロアに転がるピアス

冷房がきついと君がとりだして羽織ったカーディガンにとぶ鳥

ミントガムのボトルのわきに二眼レフのおもちゃが転がっている

圧倒的落葉のなかフルネームでお互いを呼び合う女の子たち

ケージの彼女は鳶色のワンピースに春を従えバットを逆手で構えた

キジトラが荷台に遊ぶガラス屋の軽トラに花びらの流れて

Tシャツの裾をつかまれどこまでも夏の夜ってあまくて白い

はなうたをきかせてくれるあおむけの心に降るのは真夏の光

炎天に拾い上げれば作業着のボタンホールに挿す鳥の羽根

 一首目は若い女性がよくする仕草で、手を上に上げるのではなく腰の横の所で振っている。「さよならをするのとおんなじように」なので、別れの挨拶ではないのだから、きっと出会った時の挨拶だろう。四首目の場面の移行が秀逸だ。夏に入った店で冷房が効き過ぎていることがある。女性はそんなときの用意にかばんに羽織るものを持っている。彼女が羽織ったカーディガンで場面が終わるのかと思えば、ズームインしてカーディガンの模様の飛ぶ鳥に着地している。また五首目のミントガムのボトルと二眼レフのカメラのおもちゃの取り合わせは、まるで安西水丸の透明感のあるイラストのようなお洒落さだ。八首目では「キジトラ」と「軽トラ」の韻が言葉遊びとなっていて、永井陽子の秀歌「あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ」を思わせる美しい歌となっている。

 集中で最も好きなのは次の歌だ。

あかんぼが抱き上げられてからっぽのベビーカーのなか充ちるアンセム

 「アンセム」(anthem) とは、一般的には教会の聖歌もしくは国家・応援歌・寮歌のようにある集団を代表する歌を意味するのだが、ここはヘビー・メタルバンドのアンセムのことだろう。一瞬、抱き上げられる前の赤ん坊が音楽プレイヤーでアンセムの曲を聴いていたのかと思うが、そんなことはないだろう。こういう不思議な展開もときどき宇都宮の歌にはある。ヘビメタではなく聖歌と解釈しても、それはそれで厳かな雰囲気が醸し出される。もっと話題になってよい歌集だと思う。


 

第317回 山崎聡子『青い舌』

背泳ぎで水の終わりに触れるとき音のない死後といわれる時よ

山崎聡子『青い舌』

 背泳ぎで泳ぐと耳は水の下に隠れる。そのために外の音は聞こえなくなる。水が跳ねる音と、自分のハーハーという息の音がくぐもって聞こえるばかりである。その情景が死後の世界に喩えられている。注目されるのは、作者が思い描く死後の世界が、生命のない世界でも光のない世界でもなく、無音の世界だというところだろう。第一歌集『手のひらの花火』で、「絵の具くさい友のあたまを抱くときわたしにもっとも遠いよ死後は」と詠んだ作者にとって、それから10年の歳月が流れた今、死後の世界はもっと身近なものとなっているようだ。

 山崎聡子は早稲田短歌会出身で、2010年に「死と放埒な君の目と」で短歌研究新人賞を受賞した。2013年に刊行した第一歌集『手のひらの花火』は第14回現代短歌新人賞を受賞している。『青い舌』は今年 (2021年) 上梓された第二歌集である。版元は書肆侃侃房で、現代歌人シリーズの一冊である。装丁は第一歌集に続いて「塔」の花山周子が担当している。歌集題名の「青い舌」は集中の「青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌」から採られている。

 第一歌集を評した時には、「世界にたいしてロシアン・ルーレットを仕掛けているような危うさ」が魅力だと書いた。また匂いと触覚で世界を捉えるところに特色があるとも書いた。そのような印象は第二歌集にも通奏低音のごとくに響いてはいるものの、山崎の描く短歌の世界は少しく変化しているようだ。その大きな原因は子供が生まれたことにあるだろう。ただ、よくある「子供可愛い」短歌になっていないところが独自である。

 この歌集のベースラインをなすと思われる歌を引いてみよう。

うさぎ当番の夢をみていた血の匂いが水の匂いに流されるまで

非常階段の錆びみしみしと踏み鳴らすいずれは死んでゆく両足で

烏賊の白いからだを食べて立ち上がる食堂奥の小上がり席を

水禽の目をして君は立ち尽くす水いちめんを覆う西日に

魚卵のいのちが真っ赤に灯る食卓でお誕生日の歌をうたった

 一首目は集中の所々で点滅する子供時代の回想で、うさぎ当番は小学校で飼っている兎の世話をする当番だろう。「血の匂い」と「水の匂い」に不穏な雰囲気が漂う。この「生の不穏さ」が第一歌集から変わらぬ山崎の特色である。二首目は死の予感を詠んだ歌で、集中に散見される。1982年生まれの山崎は今年39歳だから、まだ死を想うには早いのだが、そう思うには理由がある。ある程度の年齢になって子供が生まれると、自分はこの子が何歳になるまで見届けられるだろうかと考える。子供が成長することは、自分が死へと進むことに他ならない。そこに痛切な死の自覚が生まれるのである。三首目は飲食の歌で、烏賊の刺身か煮付けを烏賊のからだと表現することによって、生きものの生々しさと生命が喚起される。四首目の君は男性だろう。君が水鳥の目をしているという。それは何を表す目だろうか。「水いちめんを覆う西日」にうっすらと終末感が漂っている。五首目も三首目と似ていて、食卓に並ぶイクラを「魚卵のいのち」と表現したところがポイント。小池光の「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして」に通じる歌である。

 思うに山崎にとって、この世界と人の世は双手を挙げて肯定するようなものではない。そこには不穏な影があり、人として否応なく経験せねばならないこともある。そのような世界にたいするスタンスから山崎の歌は生まれている。言葉の組み合わせから歌ができるというよりも、自分の中の深い場所から言葉を汲み上げているような印象がある。

 このような山崎のスタンスは子供を詠むときにも変わらない。

生き直すという果てのない労働を思うあなたの髪を梳くとき

子どものあたまを胸の近くに抱いている今のわたしの心臓として

脱がせたら湿原あまく香り立つわたしが生きることない生よ

死後にわたしの小さな点が残ることライターの火を掲げて思う

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

 一首目、子育てとは生き直しだとは多くの人が抱く感慨である。自分が子供の時もこうだったと回想することで、人は二度人生を生きる。二首目、今の自分の心臓は胸に抱く子供の頭だという愛しさがこみ上げる。三首目、着替えのために子供の服を脱がせている。すると子供の甘い香りが漂う。しかし子供は自分の生をこれから生きるのであり、それは私の生とはちがうという痛切な思いがある。四首目の小さな点とは自分がこの世に残す子供だろう。五首目、自分と子供の間にある水溜まりは、決して越えることができないものの喩だろう。子供の日々の成長は喜ばしいものだが、この子とはいつかは別れるのだという思いが、ライトモチーフのように背後に低く鳴っているのを聴くことができるだろう。

 本歌集を読んでいておやと思ったのは次のような歌である。

夢に見る母は若くてキッチンにバージニアスリムの煙がにおう

どうしてこの人に似てるんだろう夜の手前で暗さが止まって見えてた日暮れ

花柄のワンピース汗で濃くさせた母を追って追って歩いた水路

わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる

「この子はしゃべれないの」と言われ笑ってた自分が古い写真のようで

 これらの歌から漂って来るのは、母親との微妙な関係である。何かをはっきりと思わせることは詠われてはいないが、作者と母親との間に共役できないものが横たわっていることが感じられる。「わたしはあなたにならない」というのは作者が心に誓った決意だろう。

 その一方ですでに他界した祖母にたいしては強い思慕の念を抱いていたようだ。次のような歌には、若死にした祖母にたいする追憶の気持ちが、箱にしまわれたセピア色の写真のように懐かしく詠われている。

花の名前の若死にをした祖母よまた私があなたを産む春の雨

なんのまじないだったのだろう石鹸を箪笥のなかに入れていた祖母

アベベって祖母に呼ばれた冷蔵庫の前のへこんだ床に裸足で

あざみ野の果ての暗渠よ夏服の記憶の祖母をそこに立たせる

モノクロが色彩を得る一生を歪んだように笑ってた祖母

 主に歌集の後半から印象に残った歌を引いておこう。

死に向かう わたしたちって言いながらシロップ氷で口を汚して

伏せると影のようにも見える目をもってとおく昼花火聞いていた夏

テールランプのひかり目の奥でブレてゆく見てごらんあれは触れない海

くるう、って喉の奥から言ってみるゼラニウム咲きほこる冬の庭

ぶらさげるほかない腕をぶらさげて湯気立つような商店街ゆく

花柄の服の模様が燃えだしてわたしを焦がす夏盛りあり

菜の花を摘めばこの世にあるほうの腕があなたを抱きたいという

 私が軽い衝撃を受けたのは最後の歌の「この世にあるほうの腕」だ。作者がこのように感じているということは、もう一本の腕はもうこの世にないという感覚があるということだろう。ここに引いた歌から立ち上って来るのは、生と向き合うときに私たちが心のどこかの暗い隅に走る戦慄である。それは日常のふとした瞬間にやって来る。山崎の歌はそのような感覚を掬い上げて、独自の世界を作っていると言えるだろう。

 

第316回 野上卓『チェーホフの台詞』

交番の手配写真に過激派の若き微笑はながくそのまま

野上卓『チェーホフの台詞』

 詠まれているのは日常よく目にする景色である。町角の交番の前に手配写真が貼られている。たいていは逃亡中の殺人事件などの凶悪犯の写真だ。みなそれなりの顔をしている。他とちょっと違うのは、60年代末から70年代の初めにかけて、各地で爆弾事件などを起こしたかつての新左翼の過激派である。彼らは大学生だったのでみな若い。そして写真は事件を起こす前に撮影したものだから、ふつうの学生の表情で微笑んでいる。それから半世紀近くの時が流れた。結句の「ながくそのまま」に苦さを感じ取るのは、私もその時代を生きたせいかもしれない。

 野上卓は1950年生まれだから、いわゆる団塊の世代の尻に位置する。第一歌集『レプリカの鯨』(現代短歌社、2017年)に詳しい経歴が書かれている。野上はキリンビールに長く勤務し、子会社の物流会社の社長まで務めて58歳で定年退職したサラリーマンである。勤務のかたわら劇団櫂のために戯曲を書き、そのいくつかはかつて渋谷にあったジァンジァンで上演されたという。小椋佳のような例はあるものの、こういう二足の草鞋は珍しい。退職してから短歌を作り始め、新聞投稿を主な活動の場として、毎日歌壇賞、文部科学大臣賞賞などを受賞し、新年の歌会始にも入選している。一時「塔」に所属したが、現在は「短歌人会」所属。『レプリカの鯨』は第4回の現代短歌社賞で佳作となったもの。『チェーホフの台詞』は2021年に出版された第二歌集である。

 歌集を読み始めたとき、正直言えば私は最初「これはほんとうに短歌なのか」と感じたものだ。次のような歌がぶっきらぼうな顔をして並んでいるからである。

禿げよりも白髪がいいと思いきし白髪となりて薄くなりゆく

勉強さえできれば後はついてくる父の叱咤は半分真実

その昔とおい昔はバナナにも種があったが今はもうない

パルコ三棟過去に追いやりヒカリエのガラス細工のオベリスク建つ

王冠を二度叩いてから栓を抜く儀式もありぬ壜のラガーに

 一首目、若い頃は禿げより白髪の老人になりたいと願ったものだが、実際に歳を取ると、白髪にはなったものの禿げもまた進行しているという自嘲とユーモアの歌である。二首目と三首目は懐旧の歌で、いずれも断定が主で短歌的余韻というものがない。三首目は仙波龍英の「夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで」という秀歌を遠くに感じさせつつ、資本主義の欲望のままに変貌を遂げる東京を詠んだ歌である。五首目は若い人にはわからないかもしれない。そもそも缶ビールが主流となった現在では、茶色の壜ビールの栓を抜くことも少なくなった。なぜか昔のおじさんは、栓抜きで栓を二度コンコンと叩いてからシュポッと抜いたものだ。ちなみに作者の野上は酒をまったく飲まないという。私の父も酒造会社に勤めていたが、酒造会社には酒が飲めない人がけっこういるらしい。それを「もったいない」と思うのは酒飲みだけである。

 上に引いた四首目と五首目には少しくその影はあるものの、最初の三首には短歌的抒情というものがまったくない。しかし歌集を読み進めてゆくうちに、「こういうのもありかも」と感じ始め、最後まで楽しく読み終えることができた。

 ふつう短歌ではずばり真実を断定するのは避けることが多い。短歌は基本的に抒情詩なので、その目的は真実を断定することにはなく、心情を叙述し詠嘆することにある。たとえ世の不滅の真理を述べる場合でも、それを物に託し余韻を残して表現するのが常套である。

蒸しかえす議案もあればかたちなきほどに煮込まれ消ゆる論あり  

                    小高賢『本所両国』

 小高もまた出版社に勤務するサラリーマンであった。詠まれているのは会社の企画会議か何かだろう。一度は消えたはずなにの復活する議案があるかと思えば、あれこれ議論されているうちに原形を留めなくなったものもある。会議ではよくあることだ。しかし小高の歌の重点は、そのような会議の虚しさに徒労感を覚える〈私〉の方に傾いている。短歌が「自我の詩」であり、一人称の詩型であるゆえである。

 しかるに野上はあまり〈私〉には興味がないらしく、自分を見つめる眼は時に冷徹で皮肉も感じさせる。

ランボオの筆おる歳の三倍をいきてのうのうわれは歌よむ

アルバムにともに写りし部員らの半ばの名前もはや出でざる

祖父母父母それぞれもてる戒名を私は一つも覚えていない

他人には言えぬ濃厚接触の場所はこの先まがったところ

わが戯曲読まざる妻がしっかりと目を通しゆく給与明細

 ランボオの名が出るところに世代を感じる一首目は自嘲の歌で、このように自分を突き放して見るスタンスが野上のベースラインと思われる。歳を取ると記憶力の減退が著しいが、祖父母の戒名まで覚えている人は稀ではないか。四首目は新型コロナウィルス流行ならではの歌で、パンデミック以来、「三密」「濃厚接触」「社会的距離」「おうち時間」「オンライン授業」など新しい言葉が増えた。このような言葉を詠み込んだ歌は、数十年経った未来には、時代を感じさせる歌となるにちがいない。

遺伝子の組み換えなしと書かれたるポップコーンに塩がききすぎ

四十年過ぎて上海バンドにはあふれる光ビジネスの話

「感性の経営」という不可思議な言葉煌めき揺らぎ消えたり

メーカーの勤めを終えて十年余いまだに弊社の製品という

特攻機ゆきし出水の滑走路十八ホールのゴルフ場となる

 野上の視線はたやすく文明批評の色を帯びる。それは自らの裡の心の揺らぎよりも、現実と外部世界の有り様に興味を引かれる心性のなせる業である。そのような心性の持ち主には抒情よりも叙事が向いている。詠嘆よりも事実の提示が似合うのである。一首目、材料のじゃがいもは遺伝子組み換えではありませんと誇らしげに表示しているポップコーンに塩が利きすぎていて、そのほうが高血圧に悪かろうという歌。二首目、40年前に中国を訪れた時には、紅衛兵が毛沢東語録を振りかざして資本主義を攻撃していたが、今ではビジネスの話しかしないという歌。三首目、「感性の経営」というのはバブル経済の頃に言われたことだろう。四首目、会社を辞めて10年経っても弊社というサラリーマンの悲しい性を詠んだ歌。五首目の出水いずみは鹿児島県で旧日本軍の航空隊基地があった場所。そんな過去の記憶に満ちた場所も、資本主義はゴルフ場にしてしまうのである。

干満のはざまに草魚腹見せて動かざるまま雨の駒形

夏の日は海の底から大空を見上げる色に暮れゆきにけり

苦瓜の蔓を払えばリビングの外に大きな秋空のあり

ダージリンティーにそえたる砂時計ひそかに吾のときを奪いぬ

皿の上にパセリ一片残されて窓の向こうは秋雨の街

欲望は果てなきものか寄り来たる鯉の口腔うつろに深し

棺桶に閉じ込められて君は去りわれら散りゆくクッキーを手に

 集中では珍しく抒情的な歌を引いた。最後の歌は友人の葬儀の場面を詠んだ歌で、クッキーは会葬者に配られたものだろう。「散りゆく」と「クッキー」が縁語になっている。

 野上の歌は、骨太でぶっきらぼうで断定的で批評的であり、冷徹な視線にユーモアがまぶしてある。昨今あまり「男歌」「女歌」という言い方は流行らないが、野上の歌はまぎれもない男歌である。それはまた短歌人会の伝統のひとつでもあるのだろう。

 

第315回 立花開『ひかりを渡る舟』

傘のまるみにクジラの歌は反響す海へとつづく受け骨の先

立花開『ひかりを渡る舟』

 この歌集を読んでいくつか新しい単語を覚えた。「受け骨」もそのひとつである。「受け骨」とは、傘の布やビニールを支えているホネのことだという。『広辞苑』には立項されていないので、おそらく業界用語なのだろう。

 掲出歌は初句七音である。TV番組「プレバト」の毒舌先生こと夏井いつきも言っているように、増音破調は初句に置くのがいちばん無理がない。傘の丸みからドームやパラボラアンテナへと連想が飛ぶ。そこに反響するのが鯨の歌というのだから、スケールが大きい。おもしろいのは下句である。湾曲した傘の受け骨の先端が海へと続いているという。先端が物理的に海まで伸びていることはないので、海まで続いているような気がするという見立てである。作りが大きく、作者の想いが遠くへと飛ぶ歌で、いかにも若い人が作る歌という印象を受ける。

 立花はるきは1993年生まれ。まだ高校生の2011年に第57回角川短歌賞を受賞して話題になった。受賞作の「一人、教室」は本歌集の最初に収められている。

君の腕はいつでも少し浅黒く染みこんでいる夏を切る風

うすみどりの気配を髪にまといつつ風に押されて歩く。君まで

やわらかく監禁されて降る雨に窓辺にもたれた一人、教室

 選考委員の中で二重丸を付けて推したのは島田修三と米川千嘉子で、島田は「ひりひりするような感覚を捕まえている」と評し、米川は「生々しくて痛々しい感じが非常に印象的だ」と述べている。立花が受賞となり、次席は藪内亮輔の「海蛇と珊瑚」となった。立花の受賞は小島なおに次ぐ最年少受賞であった。

 記憶が曖昧なのだが、たしか誰か「若年の栄光は災厄」と言った人がいる。若いうちに栄光を手にするのは、本人の将来にとって必ずしもよいことではないという意味である。その見本はフランスの小説家フランソワーズ・サガン (Françoise Sagan) だろう。若干19歳で書いた小説『悲しみよこんにちは』(Bonjour tristesse) が文学賞を受賞して富と栄光を手にしたサガンは、その後、度重なる恋愛遍歴、スピード狂による自動車事故、アルコール中毒、コカイン中毒など、多彩で波乱に満ちた人生を送った。そこまでは行かなくとも、若年で手にした栄光にその後苦しむ人は多い。立花の場合がどうだったかは詳らかにしないが、受賞を重荷と感じたこともあったのではないか。『ひかりを渡る舟』は今年 (2021年) 9月に角川書店から刊行されたばかりの第一歌集である。帯文は島田修三。「十年の歳月をかけて、生の根源に触れる深々とした立花短歌の魅力になった」という言葉を寄せている。

 本歌集の前半を読むと、やはり多くの人にとって短歌は「感情を盛る器」なのだなと改めて感じる。自分の思いの丈を三十一文字にこめるのだ。

 

三月の君の手を引き歩きたし右手にガーベラ握らせながら

鍵盤にとても優しく触れたなら届くでしょうか私の鼓動パルス

その唇にさびしきことを言わせたい例えば海の広遠などを

さみどりのグリーンピースのたましいよ憧れのまま蓋する心

去年より毛羽立つマフラー巻きつけた中でしかもう君の名を呼べぬ

 

 このような歌から伝わって来るのは、思春期を迎え、自分の手に負えないほど広い世界と異性に出会った俯きがちな少女が心に抱いた孤独な想いである。これらの歌では歌の中の〈私〉の輪郭と作者の輪郭はほぼ重なり、作者と歌の距離がとても近い。引き出しの奥にしまってある日記帳に、夜更けに紫色のインクで日々の想いを綴るのとそれほど変わらない。「作る」という意識よりも「表す」という意識の方が勝っていると言えるだろう。作者と歌の距離の近さから、「ひりひりする感じ」や「痛々しいさ」が伝わってくる。

 短歌にたいしてはこれとは異なるスタンスもある。『玲瓏』所属の歌人であり、俳句誌『芙蓉』主宰でもあった照屋眞理子は、「短歌を自己表現の手段と考えたことは一度もない」と生前常々言っていた。照屋にとって短歌を詠むということは、短歌定型という古くから伝わる楽器をできるだけ美しく響くように鳴らすことであった。

 

雪にまぎれ天降あもるまなこは見るものか地に眠りゆく哀しみのさま

                      『抽象の薔薇』

アルペジオ天の楽譜をこぼれ来て目のまぼろしを花降りやまず

 

 『ひかりを渡る舟』は五部構成になっており、おそらく編年体で編まれている。第1部は角川短歌賞受賞作の「一人、教室」と、確認はしていないがたぶん受賞後の第一作の「世界の終点」だけが置かれている。作者自身にとっても若い頃の作ということとで切り離しておきたいのだろう。

 歌集を順に読み進むうちに、歌の表情が変化してくることに気づく。歌集なかほどで場所を占めるのは相聞である。

二回目にみる花水木咲き始めだす道君を忘れゆく道

夕焼けで稲穂が金に燃えさかるどの恋もわたくしを選ばない

足踏み式オルガンに合わせ呼吸する 眠ればあなたに弾かれる楽器

呼び合うようにあなたの骨も光ってね龍角散飲み干す夜に

最後ゆえ華やぎ終われぬ会話なれば私からやめることを切り出す

 立花の歌がにわかに陰翳を帯びて来るのは、歌集ほぼ中程の第三部「夕陽に溶ける」あたりからである。

 

生きる世はまばゆしと人は言うけれど躰をまるめるだけである影

眼鏡なく浜を見やれば老犬は夕陽に溶ける美しき駒

果ての惑星ほしにキリンの檻は溢れおり こうしてばらまかれた生と死は

濡れたものはより朽ちやすく握られた右手で白い食器を洗う

初冬の浴そう磨く 水が揉む私といういつか消えてしまう影

 

 一首目と二首目は老衰で亡くなった愛犬を詠んだ歌である。人は生の輝きと言うけれど、老いの果ての愛犬はただ丸まる影にすぎないという現実がある。生老病死は近代短歌の変わらぬ主題である。立花はあとがきに、ここ数年で家族や知人を立て続けに失ったと書いている。家族では祖母、祖父、鳥と犬と猫で、自死した知人もいたようだ。喪失で失うのは命だけではなく、それが起きる前の自分の世界や言葉も失われるとも書いている。立花の言う通りだ。祖父母と交わした何気ない会話や、犬猫に話しかけた言葉は、その死とともにどこかに消えてしまう。

 三首目は読んでしばらく考えてから、「果ての惑星」とはこの地球のことだと気づく。ということは地球から遠く離れた視点から見ていることになる。動物園にはキリン舎が必ずと言っていいほどある。方舟は地球だったという歌もあり、確かに地上には生命が溢れている。しかしそれは同じ数だけの死でもある。そのことは自分もまた死ぬべき存在と自覚する五首目にも表れている。

 角川短歌賞受賞時に高校生だった立花はその後成長したのだが、成長するということはまた別れを経験することでもある。幾多の別れを通過することで、立花にとっての短歌は「感情を盛る器」から「思索をうながす器」へと変化したようだ。嬉しい、悲しいといった日々の感情を歌にするのではなく、歌を詠むという営為によって、自分と他者や世界との関係を探るという姿勢へと知らず知らずのうちに変わっているのである。

 

白魚の天麩羅噛めば小さけれど意思あるものの脂の味す

言葉とは重たいだろう淡き想い持つものだけが空へ近づく

この世の何処に眼はあるか くるりくるりと誰かのカレイドの中にいて

生き継いできたのに。今日の我が影もあなたの死後の冷感がある

赦しがない世界のかげをまだ知らぬ眩しき群れに目を細めたり

 

 一首目、白魚の天麩羅を食べて感じる脂の味は、生きていた時の白魚が自分の意思を持って行動していた証だという歌である。飲食の歌の体裁を取りながら、小さな命へのまなざしを語っている。二首目、言葉は重いもので、放ったとたん地上へ落下してしまうが、淡い想いを持つ人のみが空へと浮かぶことができるという。いろいろな解釈ができる歌である。三首目は、自分は誰かの万華鏡の中でくるくる回っている存在ではないかという想いを詠んだ歌である。万華鏡はきらきらと輝くが、その運動は外部の誰かの手によるものだ。私は果たして意思をもって生きているのだろうかという疑問を歌にしたものだろう。四首目、「生き継ぐ」というのはあまり使わない言葉だが、「継ぐ」とは絶やさないように続けることを言う。自分は人から生をもらい、それを続けてきた。しかし自分の影に恋人の死後を感じている。命の光と影を詠んだ歌である。五首目は幼い子供たちを前にした想いを詠んだもの。子供の世界には罪がない。しかし大人の世界には赦しのない罪もあると感じている。立花の歌の力点が、自分の想いを詠むというスタンスから大きく変化し、歌を作ることを通して自分と世界の距離を測り関係を探る方向に向かっていることは明らかだろう。

 

夏に咲く花々のこと眼裏に息づかせ今はただ広い海

でも触れてあなたを噛んでわたくしを残す日の万華鏡のかたむき

疚しさから裂けて溢れるやさしさの、くらぐらと瞼も思考の裂け目

ただひとつの惑星ほしに群がり生きたれどみな孤独ゆえ髪を洗えり

初夏の空がどの写真にも写り込みどこかが必ず靑、海のよう

だれの傍にも死はにおえども 発光する秋穂に触れる風が薫りぬ

黙という深き林檎を割る朝よ死者にも等しくこの光あれ

 

 歌集後半から印象に残った歌を引いた。技法的には、例えば一首目の下句の「息づかせ今は/ただ広い海」のように8音・7音の句跨がり的破調や、五首目の「どこかが必ず靑/海のよう」の10音・5音のように、下句を15音にして不均等に分割する手法がなかなか効果的に使われている。一巻を通読すると、ひとりの人間の成長が感じられる歌集となっている。

 

第314回 奥村知世『工場』

ある覚悟静かに示すヘルメット血液型を大きく書いて

奥村知世『工場』 

 工場で働く作業員が被るヘルメットに自分の血液型が、たとえば「O型」とか「B型」のように大きく書かれている。なぜ書かれているかというと、事故に遭って怪我をして病院で輸血を受けなくてはならなくなったときに、血液型を調べる手間を省くためである。ということはそのような事故が十分起こり得るような、危険を伴う職場だということになる。ヘルメットに書かれた血液型が「ある覚悟」を示しているのはこのためである。

 本歌集は「心の花」に所属する作者が2021年に上梓した第一歌集である。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として出版された。監修と解説は藤島秀憲が担当している。本歌集は現代にあって独自の異彩を放っていると言わねばならない。作者はかなりハードな業務の工場に勤務していて、本歌集に収録されている歌の多くは工場での労働を主題としているからである。

夏用の作業着の下をたらたらと流れる汗になる水を飲む

昼休み防塵マスクのゴムの跡くっきりさせて社食へ向かう

ミドリ安全帯電防止防寒着「男の冬に!」の袋を破る

油圧式フォークリフトはカクカクと冬の寝起きのオイルはかたい

男らの血管のように配管が浮き出る黄昏時の工場

 過不足なく言葉を選んで詠まれているので歌意は明確で、解説の必要はなかろう。防塵マスクが必要で、別の歌にもあるが安全靴を履いて働く職場である。

 かつて近代短歌には職場詠・職業詠というジャンルがあった。特にプロレタリア短歌では当然のことながら労働の歌が作られた。しかし現代短歌では徐々に職場詠・職業詠は少なくなっている。そのためもあってか、『短歌研究』2020年3月号では「歌人、『わが本職』を歌う」という特集を組んでいるほどだ。ちなみに本歌集の作者奥村もこの特集に寄稿している。自らの仕事の現場を詠う職場詠・職業詠が減少したのは、生活即短歌というアララギ的リアリズムが重んじられなくなったためだろう。生活と短歌の距離は時代によって小さくも大きくもなるが、ニューウェーヴ短歌・ポストニューウェーヴ短歌を経た現在では、生活と短歌の距離はかつてなく離れている。そんな中で自らの労働現場をリアルに詠う奥村の短歌は、ひときわ異彩を放っていると言えるのである。

 上に引いた五首目のように、夕暮れ時に照明で煌煌と照らされた工場の景観を詠んだ歌がないわけではない。今で言うなら「工場萌え」である。

銀色に装置かがやき工場は城なせり惨苦茅屋ヤンマーヘーレンの彼方

                   前田透

川上は長く夕光をとどめつつ迷彩剥げし工場群見ゆ

                  宮地伸一

 しかしながら近代短歌に散見されるこのような歌は、産業の振興とともに出現した工場群やコンビナートという新しい風景を詠んだ都市詠である。工場の中で働いているという職場詠・職業詠ではない。そこがちがう点だろう。

 本歌集には男ばかりの職場でいわゆるリケジョとして働く違和感を詠んだ歌も散見される。

実験室の壁にこぶしの跡があり悔しい時にそっと重ねる

労災の死者の性別記されず兵士の死亡のニュースのごとく

プレハブの女子更衣室に女子トイレ暗い個室に便座はピンク

実験の組成の相談ひとさじの試薬を砂金のごとくにすくう

職場では旧姓使用 家族とは違う名字のゼッケン付ける

 作者はどうやら実験室で研究開発を行う部署で働いているようだ。うまく行かない時は壁を拳で叩く人もいるのだろう。労災の死者はまるで戦死者のようだというところに労働環境のシビアさがうかがえる。

 本歌集に収録された歌は上に引いたような職場詠が多いのだが、もうひとつの幹を成すのは家族詠である。作者は働きながら二人の子供を産み育てているのだ。

保育園のにおいする子を風呂に入れ家のにおいにさせて眠らす

子の影をはじめて作る無影灯長男次男は手術で生まれ

太陽を抱えるように二歳児は水風船を両手で運ぶ

スリッパが私の分だけ傷みゆく主婦とは主に家にいるもの

父親のみ「不存在」という項もあり保育園申請理由記入書

 子供を育てた人ならばわかるが、保育園のにおいというのは確かにある。無影灯は手術室で用いられる照明。影のない胎内から生まれた我が子の初めての影を作ったのが無影灯だというところには、ハッとさせられる発見がある。保育園の申込書には、理屈の上では「母不在」もありうるのだが、実際にあるのは父不在の項目だけだという。育児の負担が母親に局在している証左だろう。

 理科系の人ならではの歌もある。

近づけばよりひかれあう寂しさはファンデルワールス力の正体

はなかなる水平線を切り取って実験台に置くメニスカス

 ファンデルワールス力とは分子間に働く引力のこと。メニスカスは試験管などに液体を入れたとき、壁面に当たる部分が表面張力によって盛り上がる現象をいう。このように理科系の専門用語から発想を飛ばして抒情を発生させる手法はとてもよい。ちなみに上の二首は、2017年の短歌研究新人賞の候補作になった「臨時記号」の中にあり、目にした記憶があった。

工場の道路に花びら降り積もりフォークリフトの轍がのびる

嘘という臨時記号よ二歳児の言葉のしらべに黒鍵混じる

フライパンにバター落として溶けるまでふと長くなる十月の朝

投げられた花びらはすぐ掃除され花だけを吸う掃除機がある

ひそやかに温湿度計ふるわせて私の吐く息課長の吐く息

噴水に子どもが次々入りゆく夏に捧げる供物のように

 職場と日々の仕事をリアルに歌に詠むときに問題となるのは、いかにして抒情詩としてのポエジーを立ち上げるかである。労働のシビアさは読む人の共感を得ることはあっても、それだけでポエジーは発生しない。何らかの言葉の技法が必要である。上に引いた一首目では、フォークリフトといういかにも無骨な運搬器具と桜の花びらの「取り合わせ」がポエジーを生む。二首目では幼子の嘘をピアノの黒鍵に喩える「喩」である。三首目のポイントは「ふと長くなる」にある。物理的時間が長くなることはないので、これはその折りの作者の心理を表している。四首目は何の情景だろうか、「花だけを吸う掃除機」に意外性がある。ゴミパックを捨てるために取り出すと、中には花びらがぎっしり詰まっているのだろうか。五首目では部屋にいる人の吐く息に湿度計が反応するという微細な点がポイントである。六首目は子供を夏の神に捧げる供物に喩えた「喩」だ。

 こうして見ると奥村は明らかに「人生派」の歌人で「コトバ派」ではない。言葉の統辞法を日常のそれとは違ったものにしたり、本来は共存しない言葉をぶつけて発する火花をポエジーに昇華したり、言葉の意味を脱臼することで非日常の空間にダイブするということがない。そのような手法を少し試してみると、表現の幅が拡がるように思う。